第32話:二重債務の遺言と、冷たい指先
王立保険ギルド本部、北塔。その最上階に位置する「隔離書庫」は、数千年の埃と、日の目を見ることのない不都合な真実が堆積する、言葉通りの墓標だった。外界と遮断された、無機質な石壁の檻。魔導燈の青白い光が、エマ・ルミナスの青ざめた、しかし鋭利な刃物のような横顔を照らしていた。
「……ハァ、……ヴォルフ。不規則な 換気 を止めてください。この封筒に付着した『魔力の塵』が、貴方の肺 of 動き一つで散逸してしまいます。情報の欠損は、 1ビット たりとも許容できません」
「無茶を言うな。……ったく、担ぎ上げられてる身でよく喋る」
ヴォルフは文句を言いながらも、エマを床へ下ろす際の手つきは、壊れやすい薄氷を扱うように慎重だった。
エマは、ヴォルフの黒いロングコートの裾を掴んでいた指を離し、壁を支えにようやく自立する。その指先には、 1通 の古い、それでいて「新しい」書簡が握られていた。
背後で、監視役のアリアが顔を青ざめさせ、数歩後ずさる。彼女の視線は、エマが手にしている封筒の 印章 に釘付けになっていた。
「……ありえない。そんなことが、あってはならないわ」
「何がだよ、監査官殿。お前のその顔色は、不吉な予兆しか感じさせねえぞ」
ヴォルフが低く問うと、アリアは震える声でその印を指し示した。
「……財務卿ヴァレリウス様の個人印よ。王国の金庫番であり、一切の不透明を許さない『鋼鉄の審判者』。その彼が、 6年前 に没落した反逆者の手紙を受け取っていた? ……それどころか、この封印は……」
「ええ、アリア監査官。貴女の直感は、珍しく正しい値を指しています」
エマが銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。灰青色の瞳には、 魔導式解析眼 の青白い残光が冷たく宿っていた。
「この財務卿の印、一見すると 6年前 の古いものに見えます。……ですが、私の眼には、その上から重ねられた『 1週間前 』の魔力インクの波長がはっきりと見えている。
……誰かが、最近この書庫を訪れ、この封印に手を加えた。それも、中身を書き換えるためではなく、中身が開かれていないことを《《確認する》》ために」
「上書き……? そんな高度な隠蔽、神殿の秘儀官でもなければ……」
「あるいは、その秘儀官を買収できるだけの予算を持った人間、でしょうか。もしくは……印章の持ち主本人か」
エマの指先が、微かな疲労で小刻みに震え始める。 魔導式解析眼 による過去の時系列解析は、彼女の脳から容赦なく糖分を奪い、末端の血流を冷え切らせていく。思考が泥のように重くなり、視界の端が白く明滅し始めた。肉体の限界値が、精神の演算速度に追いついていない。
だが、エマがふらつくよりも速く、ヴォルフが彼女の口元へ「特製ブドウ糖タブレット」を強引に押し込んだ。
「食え。……清算する前に、脳を焼くなよ」
「……感謝、します」
エマは迷いなくそれを奥歯で噛み砕いた。暴力的なまでの甘味が瞬時に血流に乗り、白く霞んでいた視界の揺らぎを強引に繋ぎ止める。彼女は制服のポケットから真鍮の万年筆を取り出すと、そのペン先で、封印のわずかな「隙間」を正確になぞった。
「ヴォルフ。ペンに魔力を 1パーセント だけ供給してください。私の体力では、この財務卿特有の保護回路をショートさせる反動に耐えられません」
「ああ。…… 1パーセント だな。誤差は出さねえよ。俺の腕は、お前の計算通りに動くようにできてんだ」
ヴォルフがエマの小さな手に、自らの無骨な掌を重ねた。熱い皮膚から伝わる強固な魔力が、万年筆を通じて封印へと流れ込む。パシッ、という乾いた放電音と共に、財務卿の強固な印章が霧散し、封筒の口がゆっくりと開いた。
「……清算の時間です。父様」
エマは震える手で封筒の中から数枚の羊皮紙を引き出した。そこには、 6年前 のあの日、ルミナス領が炎に包まれる直前に父が記したであろう、乱暴で、それでいて計算だけは緻密な数式が並んでいた。
「……アリア監査官、これを見てください。貴女が信じている数字の裏側です」
エマが突き出した紙を覗き込んだアリアは、そこに記された数字の羅列を見て、絶句した。
「……これ、は……王国の『軍事予算』の推移表? ……待って、この右側の数字、……計算が合わないわ。総額から、 12パーセント も……どこにも計上されていない『穴』がある」
「いいえ、アリア。穴ではありません。実体のない 架空口座 です。
父様は、王国の全予算のうち約 12パーセント が、特定の勇者パーティ――『アヴァロン』の広報協力費という名目で、正体不明の幽霊会社へ還流している事実を突き止めていました」
「 12パーセント ……!? 馬鹿な、そんな巨額が動けば、財務卿が黙っているはずがないわ!」
「ええ。だからこそ、父はこの手紙を『財務卿』に宛てて書いた。……味方だと思ったから。自分と同じ、 1ゴールド の誤差も許さない数字の正しさを信じる人間だと、……唯一、信じていたから」
エマの声が、これまでで最も低く、底冷えするような響きを帯びた。
「ですが、アリア。この手紙は『未開封』のままここに隠されていた。……そして、 1週間前 に財務卿自身の印で『異常なし』と封印を上書きされた。
……この状況から導き出される、唯一の論理的な解は何だと思いますか?」
「……やめて。それ以上は、言わないで……」
「財務卿ヴァレリウスは、 6年前 からこの 不備 を知っていた。……いいえ、彼自身が、この 12パーセント の流出を隠蔽するための《《首謀者》》だった。
……父は、雇い主を間違えたんです。泥棒に、盗難の証拠を預けてしまった」
「そんな……! ヴァレリウス様が、そんな, 国を売るような真似をするはずがない!」
アリアが悲鳴のように叫んだ瞬間。閉ざされた書庫の奥から、カチリ、という不吉な音が響いた。金属と石が擦れるような、冷たく、および完璧に制御された足音。その歩幅、リズム、音圧。すべてが「計算」されたかのように均一な響き。
ヴォルフが瞬時にエマを背後に庇い、大剣の柄を握りしめた。琥珀色の瞳が、暗闇の奥で動く「巨大な影」を捉えていた。
「……客人が来たぜ、お嬢様。……しかも、とびきり『高価』で、とびきり『冷てえ』やつだ」
暗闇の中から現れたのは、スレート・グレーの監査官制服ではなく、漆黒の、夜を織り成したような豪奢な法衣を纏った男だった。胸元には、一切の誤差を許さない財務卿の紋章が、銀色に冷たく輝いている。
「……なるほど。ルミナスの血筋というのは、これほどまでに執念深いものか。……死して 6年 経った今もなお、私の首に冷たいペンの先を突き立てるとは」
男の、氷のような声が書庫を満たした。アリアが、膝から崩れ落ち、その手から監査官の教本が力なく滑り落ちる。
「……ヴァ、ヴァレリウス様……」
「アリア監査官、下がっていなさい。君の評価は今、この瞬間に著しく低下した。 不備 を放置するだけならまだしも、それを外部の雑音に晒すとは……。……さて、エマ・ルミナス」
財務卿ヴァレリウスは、エマが手にしている手紙を、慈悲深い神父が汚れた子羊を見るような目で見つめた。
「エマ・ルミナス。君がこの王都へ現れ、正規騎士団の横領を暴いたという報告を受けた時、私は真っ先にこの書庫へ足を運んだ。 6年前 、君の父が命を賭して守り抜いたこの『不備』が、まだ眠っているかを確認するためにね。皮肉なものだ。私のその慎重さが、君にここを開く鍵を与えてしまったとは」
ヴァレリウスは一歩、エマへと歩み寄った。
「その手紙には、この国の『血の代償』が記されている。国家予算の 12パーセント 。君も理解しているだろう? これは王国の教育費と医療費を合わせた額に匹敵する。勇者パーティ一組の維持費としては、あまりに過剰だ。……だが、それを暴けば、このルミナリスという白亜の砂の城は、基盤から崩壊する。……君は、たった数枚の紙切れに記された『正論』のために、何万という国民を路頭に迷わせるつもりか?」
「……国民の生活、ですか。財務卿様」
エマはヴォルフの広い背中から、震える足を叱咤して一歩踏み出し、財務卿の目を真っ直ぐに見据えた。その体温は低く、視界は疲労で揺れていたが、彼女の知性だけは、かつてないほど鋭利に研ぎ澄まされていた。
「その『国民』の中には、 6年前 に焼き払われ、帳簿から消去された私の領民も含まれていますか? ……数字に『国民の幸福』という不確かな変数を混ぜてはいけません。不備があるなら、清算する。……それが、貴方が私の父に教え、そして父が私に教えた、会計学の唯一の真理ではありませんか?」
「……フッ。教え子の娘に、自分の理論で刺されるとはな。……皮肉な計算違いだ。……だが、エマ。私は私欲でこの金を流しているのではない。この王国が、勇者という偶像なしには一日も存続できない構造的欠陥を抱えているからこそ、この粉飾が必要なのだ」
ヴァレリウスは冷たく微笑むと、右手をゆっくりと上げた。書庫の周囲の魔力が、急速に一点へと収束し、漆黒の重力波へと変換される。
「清算の許可は出さない。……エマ・ルミナス。君という不確定要素は、ここで消去させてもらう。この国の帳簿を、再び清潔に保つために」
「ヴォルフ。…… 防衛費用 の算出、完了しました。一秒の猶予も、 1パーセント の容赦も不要です。思い切り、やってください」
「了解だ。……追加報酬は、特盛のエクレアだぞ。……地獄まで、請求書を届けてやるよ!」
大剣が抜き放たれ、聖域の静寂が、鋼鉄と魔力の爆圧によって引き裂かれた。
それは王都の心臓部で始まる、最も冷徹で――《《凄惨な精算》》の序曲だった。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【財務卿ヴァレリウス】
王国の全予算を司る、実質的な支配者です。私の父が最も信頼し、および最も残酷に裏切られた相手。彼の論理は「国の存続」という最大公約数に基づいていますが、それは個人の尊厳を「端数」として切り捨てる、冷酷な管理学に過ぎません。私にとって、彼は倒すべき最大の不備です。
【架空口座】
帳簿上には存在するが、実際には機能していない架空の受け皿です。王国予算の 12パーセント が、勇者という名の「聖域」を通じて還流されている。これは単なる個人の汚職ではなく、国家そのものが「勇者という偶像」を維持するための巨大な粉飾決算を行っている証拠です。
【防衛費用】
自らの命と資産を守るために支払われるべき対価です。今回のヴォルフの戦闘稼働、および隔離書庫の物理的損壊に伴う賠償額は、おそらくギルドの年間予算を超過するでしょう。ですが、真実という「資産」の価値に比べれば、それは妥当な支出と言えます。




