第2話:裏切りの帳簿と、騎士の価格設定
「――随分と安い値がついたものですね、ヴォルフ」
その声が響いた時、ヴォルフは鼻をつく血と汚水の臭いの中で、とうとう死神が迎えに来たのだと思った。
最下層監獄『奈落』。
そこに立っていたのは、泥に塗れた看守ではなく、磨き上げられたスレート・グレーの制服を隙なく着こなしたエマだった。
6年前、ルミナス領が『売国』の罪を着せられ、すべてが炎に包まれたあの日。
共に剣の稽古をサボり、図書室の隅で彼女の小難しい勉強に付き合わされていた日々は、完全に終わったはずだった。
「……エマ。なぜお前がここに……」
「貴方の身受け債務を組みに来たんです。不当に安く叩き売られていたので、私の『貸付金』で一括払いしておきました」
鉄格子の向こうから、エマは事務的な手つきで書類を突き出した。
しかし、分厚い紙の束を握る彼女の指先は、隠しきれないほど白く震えていた。
彼女もまた、アカデミーという『ギルドの檻』の中で、復讐のための計算能力を研ぎ澄まされ、将来の労働を担保に飼い殺されている『持たざる者』だ。
「……助けてくれとは言ってないぞ」
「ええ。これは救済ではなく、効率的な『資産運用』です。貴方の腕を腐らせるより、私の護衛として使い倒した方が、復讐――完済までの期間が32パーセント短縮されるという計算結果が出ました」
エマは細縁の銀眼鏡を押し上げ、かつての幼馴染を射抜くような瞳で見つめた。
「ヴォルフ。私のペンを折らせないために、もう一度剣を取って。……これは、命令ではなく『契約』です」
* * *
「……おい。また数字の海で溺れてるのか」
低い声に、エマは跳ねるように意識を現実に戻した。
揺れる馬車の中。
対面には、あの時と同じ――しかし、少しだけましな身なりをしたヴォルフが、呆れたようにこちらを見ている。
黒のレザーコートを纏った背中には、彼が己の過去を塗り潰すように黒く染めた大剣が背負われていた。
「……昔のことを思い出しただけです。それよりヴォルフ、顔が近いです。パーソナルスペースの計算が狂います」
「お前が死人みたいな顔で帳簿を睨んで、スカートの裾を握りしめてたからだろ。昔からのその癖、まだ直ってないのか」
ヴォルフの指摘に、エマはハッとして自分の膝から手を離した。
「……! 別に、計算が合わなくて不安なわけではありません。これは、指先の血流を……合理的な処置です」
「はいはい。分かったから少し休め。バルカに着くまで、俺が横で睨みをきかせておいてやる」
「ふふっ。相変わらず、主従なんだか夫婦なんだか分からない距離感ね、あなたたち」
クスクスと笑う声が、馬車の奥から響いた。
着崩した制服の胸元を緩め、鑑定用のモノクルを指先で弄っている赤毛の女性――エマの直属の先輩である主任査定員、セラだった。
「セラ主任。私たちはただの『共犯者』です」
「はいはい、そういうことにしておくわ。……で、エマ。今回のターゲット、あの強欲なジャイルズをどう料理するつもり?」
エマは膝の上で広げたシュタール支部の過年度収支報告書を、指先でなぞった。
「今回の調査対象は『バルカ商工会』……表面上はそうですが、私の目的は別にあります。ヴォルフ、この数字の並び、何かに見覚えはありませんか?」
ヴォルフが横から帳簿を覗き込み、鼻を鳴らす。
「知るか。俺にゃ全部、死んだアリの行列にしか見えねえよ」
「……この『端数の切り捨て方』と『予備費の計上タイミング』です。かつてルミナス領を破滅に追い込んだ、父への不当な告発状。そこに記されていた手癖と、この支部の帳簿は、気味が悪いほど似通っている」
エマの灰青色の瞳が、冷たく細められた。
「バルカ商工会を叩けば、必ずその『ノイズ』の主――父を陥れた黒幕へと続く糸口が見つかるはずです。ジャイルズは、その糸を吐き出させるための、単なる餌に過ぎません」
「……チッ。相変わらず性格の悪い、不健康な笑い方だな」
* * *
商業都市バルカ。豪奢な『バルカ商工会』の応接室。
「いやはや、まさかあの名門ルミナス家のお嬢様が、今やギルドの『一介の職員』として汗水垂らしておられるとは! ……我が商工会の上得意であるギルド様のご用命とあらば喜んで協力いたしますが、お父上も地獄でさぞ悲しんでおいででしょうなぁ」
ふくよかな腹を揺らしながら、ジャイルズが下品に笑う。
エマは眉一つ動かさず、彼が提出した書類に視線を落としていた。
「ジャイルズ会長。今回の保険金請求について確認します。被害総額は50,000ゴールド。地元騎士団の署名入りですね。
……現場の確認に参ります。あ、お茶は不要です。脳の演算には糖分が足りませんので」
* * *
街外れの街道。
黒焦げになった馬車の残骸の周りを、ジャイルズが雇ったならず者たちが取り囲んでいた。
調査を早く切り上げさせるための、物理的な威圧だ。
大男の一人が、ニヤニヤと笑いながらエマの肩に手を伸ばす。
「お嬢ちゃん、こんな焦げたガラクタ見ても――」
ドンッ!!
男の言葉は、首筋に突きつけられた『黒鉄の塊』によって遮られた。
いつの間にかエマの背後に立っていたヴォルフが、大剣の腹で男を地面に縫い付けていた。
「……エマに気安く触れるな。次は腕を落とすぞ」
琥珀色の瞳から放たれる、騎士の誇りと野良犬の鋭さが混ざり合った殺気。
ならず者たちが一斉に息を呑んで後ずさる。
「……ありがとう、ヴォルフ。助かります。……さて、監査を開始します」
エマは静かに歩み寄り、残骸の前にしゃがみ込んだ。
そして、彼女の瞳が、青白く発光する。
魔導式解析眼。
「……なるほど。ジャイルズ会長。炎の魔獣のブレス痕に見られる『魔力収束の乱れ』が一切ありません。
さらに、地面の轍が浅すぎる。……この馬車は積荷のない『空荷』の状態で燃やされましたね。典型的な保険金詐欺です」
ジャイルズの顔から、余裕の笑みが消え失せた。
「……ちっ。小賢しい計算を。ならず者のガキが、調子に乗るなよ! 調査員も魔獣に食われたことにすればいい!」
ジャイルズが指を鳴らすと、周囲のならず者たちが一斉に武器を抜いた。
しかし、エマは微塵も怯むことなく、手元の帳簿をパタンと閉じた。
「――ヴォルフ、物理的監査の許可を出します。証拠品は壊さないように」
「了解した」
ヴォルフが低く応えた瞬間、黒い疾風が吹き荒れた。
剣の腹と峰だけを使い、骨を砕き、意識を刈り取る。
周囲の備品には一切傷をつけない異常な精密さで、ならず者たちは数十秒で物言わぬ肉塊の山へと変わった。
「ひっ……ば、化け物……!」
腰を抜かして這いずるジャイルズを、エマは冷たく見下ろした。
「ジャイルズ会長。保険金の支払いは拒否します。
さらに、詐欺の違約金と、査定員襲撃の損害賠償として、商工会の全資産を差し押さえます。……数字は嘘をつきません。地獄で、父に詫びなさい」
* * *
数時間後。商工会の奥から発見された隠し金庫の前。
そこには、大量の金塊と共に『宛名のない送金記録』が残されていた。
「……エマ、どうした。顔色がさっきより悪いぞ」
ヴォルフの声に、エマは金庫の奥に隠されていた一枚の『手書きの送金指示書』を握りしめたまま、微かに肩を震わせた。
その筆致、そして数字の『4』の書き方、不自然な余白の作り方。
「……やはり、繋がりました。ジャイルズに指示を出していたのは、王都の勇者パーティだけではない。
……このシュタール支部に提出される『公的な報告書』の中に、これと全く同じ手癖を持つ書き手が潜んでいます」
「……あ?」
「父を売国奴に仕立て上げた、あの日の偽造書類を書いた筆跡の主が……今、私のすぐそばにいる。
明日から私が『おはようございます』と挨拶を交わす、同僚や上官たちの中に潜む、名もなき怪物が犯人です」
それは、復讐の終わりではなく、底知れない迷宮への入り口だった。
「――行きましょう、ヴォルフ。明日からの仕事が、少しだけ『楽しく』なりそうです」
エマは不健康な笑みを浮かべ、薄暗い金庫室を後にしようと一歩踏み出し――。
その身体が、糸の切れた人形のようにガクンと膝をついた。
「おい、エマ!?」
ヴォルフが咄嗟にその細い肩を抱きとめる。
エマの顔面は、月光に照らされた石像のように真っ白だった。
「……非効率、です……」
「あ?」
「……極度の、低血糖……。脳を最大出力で回した代償が……今……。ヴォルフ、備蓄を……早く……」
ヴォルフは深いため息をつくと、懐から小さな銀紙の包みを取り出した。
彼が指先で砕いてエマの口元に運んだのは、軍用の氷砂糖だった。
エマはそれをひったくるように口に含み、ポリポリと不作法な音を立てて噛み砕く。
甘みが血流に乗るのを待ちながら、ようやく頬にわずかな赤みが戻ってきた。
「……生き返りました。やはり、事務仕事には糖分という名の投資が不可欠です」
「お前の『事務仕事』は、人が死ぬから怖えんだよ」
ヴォルフに背負われることを拒否し、エマはふらつきながらも自力で立ち上がった。
手には、父の仇へと続く唯一の『ノイズ』を記した紙を、何よりも大切そうに握りしめて。
「……さあ、帰りましょう、ヴォルフ。明日が、本当に楽しみです」
「……チッ。お前のその『楽しみ』って言葉は、いつも誰かの人生が破綻する前触れなんだよ」
ヴォルフに半分引きずられるようにして、エマは夜のバルカを去る馬車に乗り込んだ。
車輪が石畳を叩く単調なリズムの中、彼女は暗闇で一枚の紙を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。
送金指示書の端に記された、あの特異な「4」の書き方。
それは、明日ギルドに出勤した際、彼女が笑顔で「おはようございます」と挨拶を交わす相手が書いたものに他ならない。
かつて父の隣で微笑んでいた人物か。
あるいは、今も隣のデスクでペンを走らせている「善意」の同僚か。
(……見つけましたよ。貴方が帳簿に隠した、六年前の毒を)
エマの灰青色の瞳に、月光を反射した冷酷な銀縁眼鏡の光が宿る。
それは、獲物を逃さないと決めた、死神の計算式が完成した瞬間だった。
「――ヴォルフ。明日の朝一番の仕事は、支部の備品補充ではありません。全職員の『筆跡データ』の強制監査です」
「……寝てろ、バカ。お前はまず、その死人みたいな顔の数値を『生存圏』まで戻すのが先だ」
ヴォルフから差し出された最後の氷砂糖を、エマは冷たい金属音を立てて噛み砕く。
甘みが脳を焼くような感覚と共に、彼女は暗闇の中で、静かに、そして残酷に笑った。
没落令嬢と野良犬の騎士。
二人の「完全清算」への道程は、これより、身内に潜む怪物の首を狩る、血塗られた第3合目へと突入する。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【奈落】
王国の地下深くに存在する、再起不能と判断された罪人や政治犯を収容する施設の俗称です。ヴォルフが1年間もあんな非衛生的な場所にいたと思うと、彼の生命維持コストの高さにも納得がいきます。
【身受け債務】
私がギルドへ一括払いした、ヴォルフの所有権移転に伴う貸付金のことです。これは救済ではなく、私の復讐――完済までの期間を32パーセント短縮するための「先行投資」ですので、彼にはしっかり働いてもらわねばなりません。
【手癖】
帳簿や報告書に現れる、書き手固有の統計的な特異点です。特に数字の「4」の書き方など、本人が無意識に残す筆跡の癖は、どんなに完璧な偽造書類であっても消去できない「脆弱性」となります。
【物理的監査】
私の論理的な結論に基づき、ヴォルフが行う実力行使の隠語です。非協力的な対象を物理的に沈黙させ、証拠保全を行う「執行」を指します。ヴォルフの暴力は非常にコストパフォーマンスが良いので、多めに見ることにしています。
【過年度収支報告書】
過去の会計記録の写しのことです。私にとっては単なる資料ではなく、隠蔽された過去の過失――「ノイズ」を暴き出すための、最高に刺激的な読み物です。




