幕間2:鋼鉄の秩序と、あるいは胃痛の始まり
王立保険ギルド本部、監査総局長室。
かつてグレイソンが座っていたその重厚なマホガニーのデスクには今、主の代わりに、天を突くような「不備」の山がそびえ立っていた。
「……ありえない。計算が、合わなすぎる……」
首席監査官エレナ・ウォーレンは、アイスブルーの瞳に深い隈を刻みながら、純白の制服の袖を捲り上げていた。
数日前まで「完璧な秩序」だと信じていた本部の実態は、グレイソンという重石が取れた途端、底の抜けた泥舟のようにボロを出し始めていたのだ。
過去二十年分の裏帳簿。
架空の魔獣討伐に対する保険金支払い。
および、勇者パーティ『アヴァロン』への使途不明な「広報協力費」。
めくればめくるほど、エレナの指先はインクと汚濁に塗れていく。
彼女が誇りとしてきた「監査官」の仕事は今や、汚物溜まりに手を突っ込んで、まだ使える金貨を探し出すような、惨めな作業に成り下がっていた。
「エレナ総局長代行、失礼します! 勇者パーティ『紅蓮の翼』の代理人から、追加の『精神的苦痛への補償金』の督促が届いています。今日中に承認しないと、神殿を通じて総裁に圧力をかけると……」
「……通しなさい。約款第8条を拡大解釈して、予備費から捻出するわ」
「しかし、それでは今年度の辺境支部への予算が……」
「いいから通せと言っているの! 今の本部に、彼らを敵に回す体力はないわ!」
部下を怒鳴りつけ、追い出すように扉を閉めると、直後、エレナは胃のあたりを強く押さえ、デスクに突っ伏した。
正しくない。こんな数字は、数学に対する冒涜だ。
だが、エレナにはそれを拒絶する勇気も、システムを破壊する狂気もなかった。
彼女ができるのは、崩れゆく壁に「承認」という名のガムテープを貼り続け、破滅の時間を数分だけ先延ばしにすることだけだった。
(……エマ。貴女は、あの軟禁室で言ったわね)
エレナの脳裏に、シュタールの軟禁室で見せた、あの少女の冷徹な瞳が浮かぶ。
『数学において「空気」という変数は存在しません』。
あの時、エレナはその言葉を「子供の理想論」だと切り捨てた。
だが、今この泥沼の中で喘いでいる自分こそが、最も「空気」という実体のない魔物に殺されかけている。
震える手で、デスクの隅に置かれた「最後の一枚」を引き寄せた。
それは、辺境シュタール支部からの人事異動届だ。
『エマ・ルミナス および 執行者ヴォルフ。王都本部・特別監査室への配属を命ずる』
この辞令にスタンプを捺せば、あの「爆弾」がこの白亜の迷宮に解き放たれることになる。
エレナを、およびギルドを縛り付けている「不都合な均衡」を、エマは一ゴールドの誤差も許さず、完膚なきまでに清算し始めるだろう。
それは、エレナの地位を脅かす恐怖であると同時に、この汚泥にまみれた日々を終わらせてくれるかもしれないという、狂おしいほどの期待でもあった。
「……フッ。あの子を私の直属に置くなんて。上層部も、よほどの人手不足か、あるいは……最悪の『毒消し』を求めているのかしらね」
エレナは、自身の紋章が刻印された魔導スタンプを手に取った。
カチリ、と正確な音を立てて、赤いインクが辞令に捺される。
「エマ・ルミナス。……ようこそ、本当の地獄へ。貴女の計算がどこまで通じるか、特等席で見届けさせてもらうわ」
窓の外、王都ルミナリスの美しい街並みが、エレナの目には、巨大な「粉飾決算」の影に隠された、崩壊寸前の砂の城のように映っていた。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【胃痛】
非論理的な調整や「空気」の読みすぎによって発生する、生体的な警告信号です。エレナ先輩のように、不備を隠蔽するために「承認」という名のガムテープを使い続けると、最終的には肉体という資産が破産することになります。
【人事異動】
組織内における人的資源の再配置です。王都本部・特別監査室への配属。それは、私という「正論の爆弾」を、本部の最も腐敗した深層部へ投げ込むという、極めてリスクの高い投資判断と言えます。
【不都合な均衡】
不正や粉飾の上に成り立つ、危うい平和のことです。これを維持するためのコストは、最終的には誰の帳簿にも載らない「犠牲」として清算されます。私に言わせれば、即座に倒産させて再建する方が、はるかに経済的合理的です。




