第25話:終わりの清算と、あるいは新しい契約
王立保険ギルド本部、中央講堂。
そこは本来、王国の経済を支える精鋭たちが「正義」と「秩序」を議論するための聖域である。
しかし今、この場所を支配しているのは、凍りつくような沈黙と、一人の没落令嬢が放つ異様な威圧感だった。
すり鉢状になった巨大な講堂。
数百人のエリート監査官たちが息を呑んで見守る中、エマ・ルミナスは証言台に立ち、1本の真鍮製万年筆を静かに掲げた。
演壇の最上段――見下ろすような位置には、監査総局長グレイソンと、12名の理事たちが居並んでいる。
グレイソンの顔はどす黒く歪み、眼下の小娘を今すぐ圧殺せんばかりの、底知れぬ殺気を放っていた。
「……『過去20年分の不正蓄財の告発』だと? 戯言を」
グレイソンが、羽虫でも見るような冷淡な目でエマを見下ろす。その指先が、怒りで小さく震えていた。
「エマ・ルミナス。お前は父親と同じ、組織のガンだ。空気を読めず、システムを破壊しようとする欠陥品……。貴様の命は今、この瞬間に底を突いたのだ」
グレイソンが、乾いた音を立てて指を鳴らした。
それが、処刑の執行合図だった。
講堂の二階席と出入り口を封鎖するように控えていた『特務魔導騎士団』20名が、一斉に抜剣した。刃に込められた魔力が共鳴し、空間そのものがビリビリと振動を始める。
「やれ! その不浄な口を永遠に閉じさせろ! 組織に対する反逆者だ、斬り捨てて構わん!」
一斉に飛びかかろうとする騎士たち。数百人の監査官たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、エマは微動だにしなかった。
眼鏡の奥にある灰青色の瞳は、瞬きすら計算外のノイズだと言わんばかりに、冷たく澄み渡っている。
「――ヴォルフ。少しだけ、彼らの足を止めてください。業務の妨げです」
「了解だ。……お前ら、うちの査定員殿を驚かせるなよ」
エマの背後に控えていた黒い影が、爆発した。
ヴォルフは背中の黒鉄の大剣を抜き放ち、石畳を砕くほどの踏み込みで前衛の騎士三人の前に割り込んだ。
剣の腹を使った、暴風のような強烈な一撃。
それだけで、重武装の騎士三人が文字通り「弾き飛ばされ」、大理石の柱に激突して崩れ落ちた。
「……っ!? なんだこの腕力は……!」
「悪いな。うちの査定員殿が『喋り終わる』まで、そこを動くなと言ったはずだ」
圧倒的な暴力を前に、残る17名の騎士の足がピタリと止まった。
その一瞬の静寂の隙を突き、エマは持参した分厚い書類の束を解き、パラパラと宙に放り投げた。
書類は講堂を吹き抜ける風に乗り、監査官たちや騎士たちの足元へと、白い雪のように舞い落ちる。
「ええ、無駄な抵抗はやめましょう。……騎士の皆様。たった今、貴方がたの『裏口座』の凍結要請と、ギルドとの非正規雇用契約の無効化手続きが完了しました」
「……な、裏口座だと?」
騎士の隊長が、足元に落ちた書類を拾い上げ、目を見開いた。
「グレイソン総局長が貴方がたを雇っていた資金源は、ギルドの正規予算ではなく、本部地下の隠し金庫にプールされた不正な『賄賂』の還流金です。
私は昨夜、そのすべての証拠を王都憲兵隊と領主館へ送付しました。……貴方がたの給与は今、この瞬間に『債務超過』に陥りました」
エマの冷たい声が、講堂全体によく通る。
「つまり、これ以降、貴方がた騎士に給与は1ゴールドも支払われません。
……どうしますか? 給料の出ない雇い主のために剣を振り、ただの『無給の犯罪者』として投獄される道を選びますか? 貴方がたの生活を考えれば、答えは明白なはずですが」
給与未払い。および、国家反逆の共犯。
あまりに現実的で生々しい通告に、騎士たちの剣先が戸惑いと共にみるみる下がっていく。
金の切れ目は、忠誠の切れ目だった。
「き、貴様らぁっ! 何をしている、早くその小娘を殺せと言っているんだ!」
グレイソンが泡を食って叫ぶが、騎士たちはもはや動かない。彼らの目は、すでに主君ではなく、自分たちの人生を清算しに来た死神へと向けられていた。
エマはそのまま、青ざめている12名の理事たちへと視線を向けた。
「さて、理事の皆様。貴方がた全員分の『連帯保証債務の請求書』も、すでにお手元に届いているはずです。その額、一人あたり平均500,000ゴールド。……一族の資産をすべて売り払っても足りない負債ですね?」
「ば、馬鹿な……我々はそんな金、受け取って――」
「受け取っています。印章の魔力波長はすべて解析済みです」
エマは理事の言い訳を冷酷に切り捨て、銀縁眼鏡の奥で酷薄に目を細めた。
「皆様に、二つの選択肢を与えます。このままグレイソンを庇い、共に自己破産して首を括るか。それとも……」
エマはわざと間を開け、講堂の空気を限界まで冷やし込んだ。
「……この帳簿の不備を世間に晒すか。
もし貴方がたが彼を庇えば、あの完璧主義で知られる《《財務卿》》が、組織の泥を隠しきれなかった貴方がたを『無能な不純物』と判断し、容赦なく一族もろとも切り捨てるでしょう。
……貴方がたが本当に恐れるべきは、目の前の私ですか? それとも、背後に落ちる財務卿の冷たく、巨大な影です」
財務卿。その名が出た瞬間、理事たちの顔から完全に血の気が引いた。
自己破産の恐怖と、財務卿による粛清。その二つの天秤にかけられた時、彼らの答えは、計算するまでもなかった。
「……わ、我々は、彼に騙されていたのだ!」
「そうだ! 直ちにグレイソンを拘束しろ! 騎士団、剣を収めろ!」
見事なまでのトカゲの尻尾切り。
理事たちは一斉に、蜘蛛の子を散らすようにグレイソンを糾弾し始めた。
「き、貴様らぁっ! 私を誰だと思っている! 私は本部の総局長だぞ!」
すべてを失い、金と権力の庇護を剥ぎ取られたグレイソン。
彼は完全に狂乱し、懐から禍々しい紫色の『自爆魔石』を取り出した。
「こうなれば、貴様だけでも道連れにしてやるッ!」
グレイソンは演壇から身を乗り出し、魔石を起動させながらエマへ向けて直接襲いかかった。
だが、その凶刃が届くことは、永遠になかった。
「……往生際が悪いぜ、タヌキ親父」
ヴォルフが地を蹴った。
彼は大剣を振るうことすらせず、左手のガントレットだけでグレイソンの首根っこを鷲掴みにし、そのまま大理石の床へと力任せに叩き伏せた。
ゴアァァンッ!! という凄まじい轟音と共に床が砕け、自爆魔石が粉々に霧散する。
「……がっ、あ……ッ!?」
「査定の邪魔だと言ったはずだ。お前のような腐ったカネの塊に、これ以上の『延滞』は許されねえんだよ」
ヴォルフは血を吐くグレイソンの背中を靴底で踏みつけ、琥珀色の瞳で見下ろした。
エマはゆっくりと歩み寄り、床に這いつくばる男の前に立った。
「き、貴様らごときが……本部たる私を、裁けると思うな……! ただの、辺境の……」
「裁くのではありません。清算するのです。……貴方には分からないでしょうね」
エマは、自らの手にある真鍮の万年筆のペン先を、冷たく光らせた。
彼女の脳裏に、すべてを奪われ、炎に焼かれた6年前のルミナス領の光景がフラッシュバックする。
「数字の辻褄を合わせるために、すべてを奪われた人間の執念がどれほどのものか。
……および、この一本のペンが、時にどれほど重い死神の鎌になるかということを」
「そういうこった」
ヴォルフが低く笑い、靴底に力を込める。
「お前らが作った泥水の中で、こいつはずっと数字という名の牙を研いできたんだ。……そして俺は、奈落の底から拾われた野良犬でね。
うちの査定員殿が計算を終えるまで、害虫を噛み砕くのが仕事なんだよ」
辺境から来た死神と、奈落の底から這い上がった番犬。
二人の見下ろす冷酷な視線の前で、6年間ふんぞり返っていた悪党は、恐怖に顔を歪ませたまま完全に意識を手放した。
* * *
数時間後。嵐の去った『真実の秤』のバルコニー。
王都の夕陽が、エマとヴォルフの影を長く伸ばしていた。
グレイソンは憲兵隊に連行され、理事会は解体と再編が決定。エマの父の汚名については、公式に「再調査対象」として登録されることになった。
「……終わったな。これで第一段階クリアってやつか」
「ええ。ですが、これはただの『入り口』です。本物の勇者パーティや、背後にいる財務卿……。真の債務者たちは、まだ王都の深層で眠っています」
エマは首元の懐中時計をパチンと閉めると、大きく、本当に数年ぶりに、深く清々しい息を吐き出した。
すると、プツリと糸が切れたように、彼女の身体がぐらりと傾く。
「おっと。……また低血糖かよ。ほら、捕まれ」
「……すみません、ヴォルフ。少しだけ、肩を貸してください。……階段の、上り下りだけで息が切れるなんて……」
エマは珍しく素直に、ヴォルフの無骨な腕に体重を預けた。
限界まで並列演算を続けていた彼女の肉体は、もはや指一本動かす力も残っていない。
「無茶しやがって。……だが、よくやったぜ、お嬢様。最高の査定だった」
「……ええ。貴方の護衛コストも、これから高くつきますよ。……覚悟、しておいてくださいね」
正義ではない。これは、6年前に踏み倒された命の対価を回収する、ただの作業だ。
積み上がった利息を、1ゴールドの誤差もなく地獄まで取り立てる。
その復讐という名の清算が終わるまで、死神のペンが止まることはない。
(第一章:辺境の死神と奈落の番犬 ――完――)
■査定員エマの業務日誌:用語解説
【連帯保証債務】
複数の債務者が、同一の債務に対して全責任を負う仕組みです。誰か一人が逃げても、残りの全員が全額を支払う義務を負います。理事会をこの「泥舟」に乗せることで、「自分だけは助かりたい」という個人の利己心を、組織崩壊の引き金へと変換しました。
【財務卿】
王国の全予算を管理し、1ゴールドの不明金すらも反逆罪として扱う冷徹な最高権力者です。彼にとって、ギルドの不正そのものよりも「計算が合わなくなること」や「無能な身内を庇ってシステムに損失を出すこと」の方が重罪です。グレイソンの後ろ盾であった「国家の威光」を、そのままグレイソンを叩き潰すための「処刑台」へと作り替えました。




