第23話:粉飾の迷宮と、現在の資金脈
審問の一時中断。それはエマに対する慈悲でも、妥協案の模索でもなかった。
より絶望的な「持久戦」の始まりに過ぎない。
エマとヴォルフが押し込められたのは、王立保険ギルド本部、最上階の奥に位置する『特別監査室』だった。
窓は一つもなく、重厚なマホガニーの扉が閉ざされた瞬間、外界の音は完全に遮断された。
代わりに壁一面を、いや、視界のすべてを埋め尽くしているのは、床から天井まで届く巨大な本棚と、そこに無造作に押し込まれた膨大な紙の束である。
王都ギルドにおける、過去20年分の決済資料の写し。
カビと古いインクの匂いが、澱んだ空気と共に肺にまとわりついてくる。
「……嫌がらせにしては、少々印刷コストがかかりすぎですね。これだけの紙とインクを用意するだけで、地方支部なら一年間運営できる額です」
エマは、部屋の中央に置かれた重厚なデスクに歩み寄り、山積みの書類を指先でなぞった。
白い手袋の先に、べっとりと黒い埃がつく。
グレイソン総局長は、エマに「実力を証明せよ」という名目で、あえて一生かかっても読み切れない「数字のゴミ山」を投げつけたのだ。
人間一人の処理能力を物理的にオーバーフローさせ、心を折るための拷問。あるいは、この密室で過労死させるための合法的な処刑場である。
「おい、エマ。少しは寝ろ。お前の今の顔色は、そこらの死霊より不健康だぞ。おまけに、さっきから指先が氷みたいに冷てえ」
部屋の隅の豪奢なソファにどっかりと腰を下ろしたヴォルフが、呆れたように、しかし明確な焦燥を滲ませて声をかけた。
彼の傍らには、王都の高級菓子店で強奪同然に買い込んできた山積みのエクレアと、冷めかけた濃厚なココアが置かれている。
シュタール支部から持ち込んだパウンドケーキは馬車の中でとうに底を突いた。今は王都の最高級の糖分が、エマの命を繋ぐ代わりの「燃料」として無造作に積まれている。
「睡眠は……今の私には、最も生産性の低い行為です」
エマはフラフラとした足取りでエクレアを掴むと、甘いクリームごと事務的に口に放り込み、咀嚼しながら凄まじい速度で書類の束をめくり始めた。
「それに、これだけ素晴らしい『おもちゃ箱』を与えられて、眠れるはずがありません」
バサリ、バサリと、乾いた紙の音が密室に響く。
普通の人間なら見ただけで発狂するような情報量。
しかし、限界を迎えた肉体とは裏腹に、エマの魔導式解析眼が青白く発光し始めると、それらはすべて「解かれるのを待っているパズル」へと変わる。
インクの擦れ、魔導スタンプの波長のズレ、日付の不自然な偏り。
エマの脳内で、無数の変数が猛烈な勢いで代入され、組み上がっていく。
だが、その異常な演算処理は、彼女の華奢な肉体から容赦なく熱を奪っていった。エマの細い肩が小刻みに震え、額には冷や汗が浮かぶ。
「……見つけました。六年前の火災事件に関する裏帳簿の断片です。当時の監査責任者だったグレイソンの署名と、不正な魔導印章の波長が完全に一致しています。やはり、父が追っていた通りでした。……しかし」
エマの指先が、ピタリと止まる。
彼女は冷たく光る真鍮の万年筆を指先で回しながら、微かに眉をひそめた。
「どうした。あっさり見つかったじゃねえか。これで親父さんの無実を証明できるんだろ?」
ヴォルフが身を乗り出す。
「ええ。ですが……奇妙ですね。この横領された2,000,000ゴールドという莫大な資金の『行き先』です。グレイソン総局長個人の資産には、ほとんど入っていません。それどころか、理事たちの懐にさえ、ごく一部しか流れていない」
「は? じゃあ、その莫大な金はどこに消えたんだ?」
エマは、パラパラと複数の帳簿を並列に広げ、さらに奥深くへと変数を代入していく。
やがて、彼女の脳内でバラバラだった数万の数字が、一つの巨大な「黒い金脈」の地図を描き出した。
その地図の全貌を理解した瞬間、エマの灰青色の瞳に、冷酷な光が宿った。
「……なるほど。そういう計算式でしたか」
エマは、ひび割れた氷のような声で呟いた。
「私腹を肥やしていたわけではないのですね。……ここを見てください。王都の物価高騰に対する、末端職員への特別手当。特務騎士団の家族への手厚い医療費補助。殉職した監査官の遺児が暮らす孤児院への、匿名での莫大な寄付……。
すべて、正規のギルド予算には計上されていない金です」
「……待てよ。それじゃあ、あのタヌキ親父は……」
「ええ」
エマは一切の感情を交えずに頷いた。
「総局長は、この不正な還流金を使って、組織という『巨大な家族の生活』を買い取っていたのです。
10万人の部下とその家族を飢えさせないために、自ら泥を被り、巨大な不正のシステムを構築した。……父が糾弾しようとしたのは、この『美しき腐敗のシステム』そのものでした」
密室に、重苦しい沈黙が落ちた。
グレイソンはただの強欲な悪党ではなかった。彼は彼なりに、重すぎる責任を背負い、組織の末端で働く者たちの「明日食べるパン」を守ろうとしていたのだ。その生活の重みが、紙の束を通して生々しく伝わってくる。
「……悪党なりに、10万人の大黒柱を気取ってたってわけか」
ヴォルフが皮肉げに、しかしどこか同情を含んだ声で鼻を鳴らした。「そりゃあ、親父さんも消されるわけだ。正義感一つで、10万人の《《生活の糧》》を奪おうとしたんだからな」
「ですが、それは1ゴールドの重みを歪める傲慢です」
エマは一切の同情を見せず、新しい白紙の書類を引き寄せた。その横顔には、冷酷なまでの「理性の怪物」の面影があった。
「いくら美しく飾り立てようと、不正は不正です。1ゴールドの不純物を許容するシステムは、いずれ 100 万ゴールドの負債を抱えて崩壊します。……それに」
エマはペンを強く握り直した。
「過去の罪の理由を解明しただけでは、明日の理事会という『盤面』はひっくり返せません。審問には、グレイソンの私兵である20名の特務魔導騎士団が配置されています。
私が証拠を読み上げようとした瞬間、彼らは『家族の生活』を守るため、反逆者という名目で私を問答無用で斬り殺すでしょう。……過去の数式では、目の前の剣は止められないのです」
「なら、どうする。力業で全員叩き斬れってんなら、俺は構わねえが」
ヴォルフが背中の大剣に手をかける。
「奴らの暴力を止めるためには、《《現在の変数》》が必要です」
エマの瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められた。
「彼らが剣を振るうのは、忠誠心からではありません。『家族を養うための高額な非正規給与』が支払われているからです。……ならば、その財布の底を抜けばいい」
パラパラパラッ!
再び、限界を超えた速度で書類がめくられていく。魔力の痕跡を追い、架空の会社を辿り、複雑に偽装された金の流れを逆算する。
「……出ました。本部地下金庫に秘匿されている、三つの『架空口座』。ここから、騎士団への非正規給与と、理事会メンバー全員への賄賂が毎月正確に振り込まれています」
エマの口角が、不気味なほど酷薄なカーブを描いた。
「見つけましたよ。彼らの《《現在の心臓》》です。
……これをギルド規約第102条『不正蓄財の差し押さえ』および、王国法に基づく『緊急口座凍結』の申請書として、今から私が作成します。
給与の支払いが物理的に不可能になり、家族を養う金が途絶えたと知れば……騎士たちは明日、一体《《誰の指示で》》剣を振るうでしょうか?」
「……タダ働きで、小娘の暗殺なんていう泥を被る馬鹿はいねえってことだ。えげつねえな、相変わらず。守るべき家族がいる連中から、一番確実な方法で牙を抜く気か」
ヴォルフは底冷えするような獰猛な笑みを浮かべ、大剣の柄から手を離した。
「剣の軌道は計算できなくても、金の流れなら完全にコントロールできます。
……さて、少し長めの『差し押さえ請求書』を書かなければなりませんね。ヴォルフ、ココアのおかわりを。砂糖は限界まで溶かしてください。今夜は、少し長い夜になりそうです」
密室の中で、真鍮の万年筆がカチリと音を立てた。
それは、巨大な組織の「生活」を根底から破壊する、死神の宣告音だった。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【架空口座】
帳簿上には存在しない、不正な資金を隠すための器です。グレイソン総局長はここから騎士団への高額な給与(家族の医療費等を含む)や、理事たちへの賄賂を捻出していました。実体のない数字ですが、巨大な組織の「生活」を支える心臓部となっていました。これを突き止め、凍結することこそが最大の打撃となります。
【燃料補給】
王都の高度な粉飾決済を読み解き、さらに新たな法的書類を構築するには、脳が膨大なエネルギーを消費します。高級エクレアやココアは、私という演算機を強制駆動させるための必須コストであり、生命維持費として経費計上されるべき正当な支出です。




