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剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第1章:辺境の死神と『奈落』の番犬

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第22話:真実の秤と、傲慢の計算式

 王立保険ギルド本部、通称『真実の秤ジャッジメント・テラス』。


 その内部に足を踏み入れた者が最初に感じるのは、暴力的なまでの「静寂」と、肺の奥まで凍りつかせるような「秩序」の圧力である。


 天井高くに設置された巨大な魔導時計が刻む「カチ、カチ」という一定の秒音は、まるでこの建物自体が意思を持つ巨大な演算機であることを誇示しているかのようだった。


 壁面に埋め込まれた無数の銀のチューブ――魔導通信管(マナ・チューブ)――の中を、各地から届く報告書が魔動吸気(マナ・サクション)によってシュシュという音を立てて高速で移動していく。


 そこには人間的な感情が介在する余地など一ミリもなく、ただ膨大な「数字」だけが、冷徹な血管のように建物全体を巡っていた。


「……移動速度、秒速12メートル。1分間に処理される書簡の数は推定450通。


 ……シュタール支部の30倍以上の処理能力ですね。これだけの情報量を集中管理(セントラライズ)していれば、多少の『不純物』を紛れ込ませるなど、造作もないことでしょう」


 エマ・ルミナスは、案内役を務める首席監査官エレナの背中を追いながら、無機質な声で呟いた。


 彼女の灰青色の瞳は、すでに建物の構造や魔導回路の配置を魔導式解析眼(トレース・アイ)で捉え、その維持コストを頭の中で逆演算し始めている。


 だが、その代償はすぐに肉体に現れた。

 王都の濃密な魔力と、絶え間なく脳に流れ込む情報の濁流。

 エマの細い足首は、一歩ごとに震え、視界の端には貧血による明滅が走り始めていた。


「……ヴォルフ……糖分供給を。……脳が、熱暴走(ヒートアップ)しています……」


 幽霊のような掠れた声に、隣を歩くヴォルフが即座に反応する。


 彼は周囲を歩く精鋭監査官たちの刺すような視線を琥珀色の瞳で睨み返し、威圧しながら、エマの華奢な肩をがっしりと抱き寄せた。

 もはや護衛というより、歩行補助装置、あるいは生命維持装置に近い献身ぶりである。


「ったく、この建物の階段の多さは欠陥住宅レベルだな。ほら、食え。これで最後の一切れだ。飲み込めなかったら俺が指で押し込んでやる」


 ヴォルフはコートのポケットから、銀紙に包まれた最後の一片――シュタールで買ったラム酒漬けのパウンドケーキをエマの口元に運んだ。


 エマは恥じらう余裕もなく、差し出された糖分を事務的に咀嚼し、喉の奥へと流し込む。

 濃厚な甘みが血管を通って脳へ到達した瞬間、彼女の瞳にカチリと冷酷な知性の光が灯った。


「……再起動(リブート)完了。……お世話、感謝します、ヴォルフ。貴方の介護効率は、現在進行形で私の生存確率を15パーセント押し上げています」


「介護って言うな。……それより、前を見ろ。敵さんのお出ましだぞ」


 ヴォルフが顎で示した先。

 重厚な黒檀の扉が左右に開き、冷気が吹き出すような審問会議室が姿を現した。


 演壇の上には、王立保険ギルドを実質的に支配する6人の「本部理事」たちが、影のような沈黙を纏って座っている。

 中心に座るのは、金刺繍の法衣を纏った老人、監査総局長、グレイソン。


「……査定員、エマ・ルミナス。前へ」


 グレイソンの声が、広大なドーム状の部屋に不気味に反響した。

 エマはヴォルフに背中を押され、赤い絨毯の敷かれた証言台へと進み出た。

 高くそびえる演壇を見上げるその姿は、あまりにも小さく、そして脆い。


「シュタール支部における貴殿の行動は、ギルドの信用の毀損である。


 ……特に、勇者パーティ『紅蓮の翼』への資産差し押さえ。これは、国家的な英雄事業に対する明白な妨害行為だ。


 よって、本理事会は貴殿の査定員資格を永久剥奪し、シュタールで得られた不当な証拠一切の無効を宣言する。……何か、申し開きはあるか?」


 それは対等な議論ではなく、あらかじめ用意された「社会的抹殺」という名の儀式に過ぎなかった。


 だが、エマは銀縁眼鏡のブリッジを押し上げると、微かに口角を上げ――それは、彼女にとって最大級の「宣戦布告」の合図だった。


「……申し開きはありません。ただ、計算式の訂正を求めます」


「何だと?」


 理事たちの一人が不快げに眉をひそめたが、エマは止まらなかった。


「私は『不当な請求』など行っておりません。すべてはギルド約款第102条に基づいた適正な債権回収(コレクション)です。


 ……それとも、本部の理事会は、自分たちが制定したルールさえ解読できないほど、演算能力が低下しているのでしょうか? 1ゴールドの誤差を『英雄への敬意』という不確かな変数で誤魔化すのは、会計学に対する冒涜です」


「無礼な! 没落令嬢風情が!」


「愚弄ではありません。……たとえば、これを見てください」


 エマは鞄から、シュタールの深層書庫でセラの特級印章(マスターキー)を使い、命懸けで持ち出した「一枚の古い写し」をスッと掲げた。


「ここに、6年前の『王都・中央金庫火災事件』の支払い記録があります。


 ……支払い総額、2,000,000ゴールド。受取人は、当時の勇者パーティ『アヴァロン』。


 ……面白いですね。この書類、当時の監査責任者の署名が、グレイソン総局長、貴方の魔力印(サイン)と完全に一致しています」


 グレイソンの顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。

 しかし、すぐに彼は深く、重苦しい溜息を吐き出した。それは不正を暴かれた者の狼狽ではなく、出来の悪い子供を諭すような、圧倒的な「強者の疲労」だった。


「……それがどうした。正当な保険金の支払いだ」


「いいえ。当時の金庫室の魔導式防火壁(マナ・シールド)の耐久限界を、現在の私の魔導演算で逆算しました。


 結果、彼らがどれほど魔力を暴走させても、金庫室を焼き払うことは《《論理的に不可能》》です。


 ……つまり、この2,000,000ゴールドは保険金ではなく、最初から黒幕への『還流金(キックバック)』として計上されていたのではないですか?」


 エマの声音は氷のように冷たかった。


「貴方たちは、父を売国奴として仕立て上げ、その資産を奪った。その500,000ゴールドという『不一致』を埋めるために、父の命が変数として使われた」


「……エマ・ルミナス。お前はやはり、父親と同じ欠陥品だな」


 グレイソンは演壇から、憐れむような目でエマを見下ろした。


「2,000,000ゴールドだと? その莫大な還流金がどこへ消えたと思っている。私腹を肥やしたとでも?


 ……莫迦を言うな。その金は、貴族院の口を塞ぎ、王国の末端で働く10万人のギルド職員とその家族たちに、明日も確実にパンを買わせるための《《潤滑油》》だ」


 議場が静まり返る。グレイソンの声には、巨大な組織を背負い続けてきた者特有の、泥に塗れた凄みがあった。


「お前の父親は、そのたった一つのノイズを許せず、10万人の生活を支えるシステム全体を停止させようとした。だから排除されたのだ。


 我々は正しさではなく、最適解で世界を回している。……1ゴールドの誤差を許せぬ潔癖症に、この『真実の秤』は背負えんのだよ!」


 圧倒的な現実の論理。

 だが、エマは微塵も怯むことなく、真鍮の万年筆を弄びながら冷酷に宣告した。


「1ゴールドの不純物を許容するシステムは、いずれ100万ゴールドの負債を抱えて崩壊します。


 私はその計算式を正しに来ただけです。……空気という不確かな変数で、私の数式を濁さないでください」


「……査定員エマ・ルミナス!」


 グレイソンが叫ぶと同時に、演壇の周囲に控えていた精鋭騎士たちが、一斉に抜き放った剣をエマへと向けた。

 殺気が会議室を満たす。


 だが、エマは瞬き一つせず、むしろ哀れみを見るような目で総局長を見つめた。


「……力、ですか。それは私の専門ではありません」


 エマが静かに一歩下がった瞬間。

 彼女の影から、琥珀色の瞳をギラリと光らせた死神が、音もなく前に躍り出た。


 ヴォルフは背中の大剣を抜くことさえせず、ただ腕を組み、騎士たちの刃の先を鼻先で笑い飛ばした。


「おい、じいさん。力ってのは、そうやって大勢で小娘を囲んで使うもんじゃない。……本当の《《絶対的な変数》》ってやつを、今から教えてやるよ」


「ヴォルフ。……物理的監査(アセスメント)の許可を出します。ただし、理事たちが逃げ出さないよう、出口の演算を封鎖してください」


「了解だ、エマ。……おい、お前ら。査定員殿の計算が終わるまで、誰一人ここから出さねえぞ。死に物狂いで、自分の命の価格を計算してな」


 ヴォルフの足元から、黒い魔力の突風が吹き荒れた。

 本部最強を誇る騎士たちが、たった一人の「野良犬」が放つ圧倒的な暴力のオーラに、一歩、また一歩と後ずさる。


 グレイソンは、初めて恐怖に顔を歪めた。


 自分の背後にある巨大な権力も、長年かけて築き上げた『潤滑油』としての論理も、目の前の狂犬が振るう物理的な破壊の前では、何の防御壁にもならないことを悟ったのだ。


「……さて。審問を続けましょう、総局長。……計算の時間は、まだ始まったばかりですよ」


 エマは真鍮の万年筆を構え、冷酷な勝利の宣言を放った。



■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


真実の秤ジャッジメント・テラス

王立保険ギルド本部の通称です。建物の構造自体が巨大な演算機として設計されており、国家予算規模の資金流を管理する心臓部です。血の通った「感情」よりも「冷徹な数字」が絶対視される空間となっています。


魔導通信管(マナ・チューブ)魔動吸気(マナ・サクション)

本部内に張り巡らされた情報伝達用の銀色のパイプ網です。風(吸気)の魔法を応用し、カプセルに入れた書類を施設内で高速輸送します。私はこの処理速度から、本部の情報処理能力を逆算しました。


魔導式防火壁(マナ・シールド)

金庫室などの重要施設を物理攻撃や魔法から守るための結界です。当時の防壁の「耐久限界値」と、勇者パーティの「最大火力」を計算し、「魔法で金庫室だけが燃えるのは不可能(=放火と横領の偽装)」であることを証明しました。

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