第21話:王都到着と、二百万の還流金。――あるいは、最後のパウンドケーキ
シュタールを出発してからおよそ30時間。
ガタゴトと泥道を削るように刻み続けていた乗合馬車の振動が、滑らかで暴力的なまでに白い石畳の感触へと変わった。
カーテンの隙間から差し込む眩い光は、これまでの辺境の鈍色とは違う。
王国の心臓部であり、欲望と魔力、そして膨大な「数字」が渦巻く魔都――王都ルミナリスへの到着を告げていた。
「……ヴォルフ……あと、125グラム……。追加の……糖分投入を……」
馬車の片隅。ヴォルフは呆れ果てた顔で、自らの膝の上で死霊のように横たわるエマ・ルミナスを支えていた。
エマの顔色は白を通り越して透明に近く、体温すら恐ろしいほど低い。
彼女は王都へ向かう道中一睡もせず、膝の上に広げた「オズワルドの裏帳簿の写し」と「王都の複雑な経済指標」という膨大な変数を、脳内で絶え間なく並列演算し続けていたのだ。
「お前、さっきからそれしか言ってねえぞ。シュタールを出てからパウンドケーキ2本は胃に収めてるはずだ。燃費が悪すぎるだろ」
ヴォルフは文句を言いながらも、シュタールの市場で調達した安っぽいラム酒漬けのパウンドケーキの、本当に最後の一切れを彼女の口元へ押し込んだ。
エマはそれをリスのように小刻みに、しかしひどく事務的に咀嚼する。
砂糖と脂質が限界を迎えた脳へ到達した瞬間、濁っていた彼女の灰青色の瞳に、カチリと冷酷な知性の光が「再起動」した。
馬車を降りた2人を見下ろすようにそびえ立っていたのは、王立保険ギルド本部、通称『真実の秤』。
シュタール支部の30倍はあろうかという巨大な白亜の塔だ。
壁面には無数の銀のチューブ――魔導通信管が這い回り、全国から届く報告書がシュシュという音を立てて絶え間なく吸い込まれていく。
そこには人間的な感情が介在する余地など1ミリもなく、ただ膨大な「数字の血」が冷徹な血管を巡る巨大な機械そのものだった。
「……お出迎えご苦労様です、エレナ先輩」
白大理石のエントランスで2人を待っていたのは、首席監査官エレナだった。
純白の制服を隙なく着こなした彼女は、かつてアカデミーでエマが憧れた「完璧な先輩」の成れの果てだ。
エレナは、泥と疲労にまみれたエマをアイスブルーの瞳で冷たく見下ろした。
「エマ。貴女が辺境で暴れ回ったせいで、本部の決済システムにどれほどの遅延が生じたか分かっているの?」
エレナの声は、氷のように冷たく、そして苛立っていた。
「私たちは正しさではなく、10万人の職員とその家族を食わせるための『最適解』を回しているのよ。時には小さな不正を目こぼしし、勇者の機嫌を取ることで、巨大な組織の歯車は回っていく。貴女のやっていることは、正義を振りかざしただのテロリズムよ」
「1ゴールドの不純物を許容するシステムは、いずれ100万ゴールドの負債を抱えて崩壊します」
エマは銀縁眼鏡を指先で押し上げ、微塵も怯むことなく先輩を真っ向から見据えた。
「私はその計算式を正しに来ただけです。……空気という不確かな変数で、私の数式を濁さないでください」
互いの信念が火花を散らす中、ヴォルフは周囲の冷ややかな視線を完全に無視し、エマの背後に重厚な岩のように立ち塞がっていた。
一行が案内されたのは、最上階の審問会議室。
すり鉢状になった議場の最上段には、監査総局長グレイソンをはじめとする12人の理事たちが、圧倒的な「高さ(権威)」からエマを見下ろしていた。
「エマ・ルミナス。貴様の過剰な調査はギルドの信用を著しく毀損した。申し開きを聞こうか」
グレイソンの低く響く声が、重圧となって議場を満たす。息が詰まりそうな空間。
しかし、エマは微塵も怯むことなく、鞄からシュタールの深層書庫でセラの特級印章を使い、命懸けで持ち出した「1枚の古い写し」をスッと掲げた。
「申し開きはありません。ただ、本部の計算式の訂正を求めます。……ここに、6年前の『王都・中央金庫火災事件』の支払い記録があります。支払い総額、2,000,000ゴールド。受取人は、当時まだ弱小だった勇者パーティ『アヴァロン』」
その言葉が出た瞬間、グレイソンの顔から、余裕の笑みが消え失せた。
「……それがどうした。正当な保険金の支払いだ」
「いいえ。当時の金庫室の魔導式防火壁の耐久限界と、当時のアヴァロンの魔法火力の最大値をシミュレートしました」
エマの『魔導式解析眼』が青白く発光する。
「結果、彼らがどれほど魔力を暴走させても、金庫室を焼き払うことは物理的に不可能です。……つまり、この2,000,000ゴールドは保険金ではなく、最初から黒幕への『還流金』として計上されていた。違いますか?」
議場が静まり返る。エマの冷徹な声音だけが、白亜の空間に響き渡った。
「50万ゴールドの横領。それが、父に着せられた罪の額です。あまりにも中途半端な数字だと思っていたのですが……この2,000,000ゴールドの粉飾の帳尻を合わせるための、ただの『変数』として父は処理されたのですね」
「……黙れッ! 没落令嬢風情が、本部の歴史を愚弄するか!」
激昂したグレイソンが指を鳴らすと、議場の扉が開き、待機していた重武装の特務騎士たちが一斉になだれ込んできた。
だが、その剣がエマに届くより早く、黒い疾風が動いた。
ヴォルフが左腕のガントレットだけで先頭の騎士の刃を掴み取り、獰猛な笑みを浮かべてグレイソンを睨み上げる。
「おい、タヌキ親父。こいつら、全員『物理的監査』が必要か? 査定員殿の計算の邪魔だ」
一触即発の空気の中、エマは冷たく光る真鍮の万年筆を弄びながら宣告した。
「王都のすべての帳簿を、1ゴールドの誤差もなく清算させていただきます。……これは、ルミナス家からの『債権回収』です」
審問は一時中断となり、エマとヴォルフは本部庁舎の奥深く、窓1つない「特別監査室」へと押し込められた。
そこは、床から天井まで過去20年分の決済資料の写しが詰め込まれた、精神を破壊するための「数字の牢獄」だった。
だが、ソファーに沈み込んだエマの瞳は、絶望するどころか、与えられた巨大な「おもちゃ箱」を前に底知れぬ熱を帯びていた。
「……ヴォルフ。辺境の安物ではなく、王都の最高級の糖分を要求します」
エマは真鍮の万年筆のキャップを外し、不敵に口角を上げた。
「徹夜の計算の始まりです」
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【魔都】
王国の心臓部であり、欲望と魔力、および膨大な「数字」が渦巻く場所です。シュタールとは比較にならない物価と経済規模を誇り、私の脳に絶え間ない演算負荷を与え続けます。
【真実の秤】
王立保険ギルドの本部庁舎です。建物自体が巨大な魔導演算機のような機能を持ち、冷徹な秩序によって支配されています。一見すると完璧に見えますが、その土台は隠蔽された負債によって腐敗しています。
【還流金】
保険金の支払いを装い、実際には特定の個人や組織へ資金を戻す不正な資金の流れです。父が着せられた500,000ゴールドの汚名は、この巨大な粉飾の辻褄を合わせるための「帳尻合わせ(変数の代入)」に過ぎませんでした。




