第20話:敗戦の事後処理と、不吉な招聘状
地下三階の深層書庫。カビと古い羊皮紙の匂いが支配する空間で、魔導封印が破られた残滓であるパチパチという火花が、冷え切った空気の中で虚しく弾けていた。
エマの灰青色の瞳から、限界まで出力されていた魔導式解析眼の青白い光がスッと消え去る。無機質なワイヤーフレームと魔力波長の世界から、通常の色彩へと視覚が戻った瞬間。
(――っ!)
エマの全身を襲ったのは、泥鉛を血管に流し込まれたかのような、凄まじい「肉体的重圧」だった。
数十年分の不正な資金の流れ、無数の架空請求、および隠蔽のための偽装術式。それら数万に及ぶ変数を脳内で同時に結びつけ、一つの巨大な「解答」へと至る多重演算は、人間の脳が本来耐えうる負荷を遥かに超えていた。
「……計算、終了。封印の……再構築、完了……」
掠れた声を絞り出した直後。エマの膝がガクガクと震え、まるで操り糸を断ち切られた木偶人形のように、冷たい石畳の床へ向かって真っ逆さまに崩れ落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
石畳に激突する寸前、黒い疾風が動いた。ヴォルフが背の大剣を鳴らしながら滑り込み、その太い腕でエマの細い胴体を強引にすくい上げる。
エマにはもはや、彼を突き放す気力はおろか、瞬きをする力さえ残っていなかった。ヴォルフの分厚い革コートの感触を頬に感じながら、浅く、ひゅうひゅうと引き攣った呼吸を繰り返す。彼の頑強な胸板から伝わってくる一定のリズム――心拍音――が、熱に浮かされ白濁したエマの意識を繋ぎ止める、唯一の「現実的な変数」だった。
「……ヴォルフ……糖分、を……。脳の演算機能が……強制暗転、します……」
「わかった、わかったから喋るな。息が止まりかけてるぞ。……ほら、噛め」
ヴォルフはエマを片腕でしっかりと抱き抱えたまま、空いた手でコートの内ポケットを探り、銀紙に包まれた最後の一塊を取り出した。
それは、ギルドの最前線部隊が携帯する『軍用糖煉瓦』――高純度の砂糖とアーモンドを限界まで圧縮し、常人の3日分の熱量を小さなブロックに封じ込めた劇薬に近い代物だ。
ヴォルフがそれをエマの唇に押し当てると、彼女は小動物のように小刻みに、しかし極めて事務的なペースでそれを咀嚼し始めた。甘く暴力的な熱量が喉を下り、枯渇していた脳細胞へと強制的に血液が送り込まれていく。
数分の後、濁っていた彼女の灰青色の瞳に、カチリと冷たい知性の光が戻った。
「……ふぅ。……危うく、未処理の書類の山を残したまま過労死の統計に組み込まれるところでした。やはり10年分の帳簿を一度に照合するのは、私の肉体の耐久値を著しく逸脱していますね」
「お前の耐久値が極端に低すぎるんだよ。ガラス細工じゃねえんだぞ。……それで、さっき口走っていた『財務卿』ってのは本当か?」
ヴォルフの低い問いかけに、エマは彼に支えられたまま眼鏡のブリッジを押し上げ、重く頷いた。
今回押収した勇者パーティ『アヴァロン』の裏帳簿と、6年前の50万ゴールド不正横領の濡れ衣。二つの巨大な不自然を繋ぐ点。
それは、王国の国家予算を掌握し、経済のすべてを司る頂点――アーサー・ヴァレンタイン公爵以外にあり得なかった。
その恐るべき結論を聞いていたセラが、壁に寄りかかったまま、ひどく長い溜息を吐いた。
「財務卿、ねぇ……。まさかシュタールの小さな地方の汚職を洗って、そんな国家規模の怪獣の尻尾を踏み抜くことになるとはね。……エマ、今の貴女の暴走、すでに『上』には筒抜けだと思った方がいいわよ」
* * *
セラの警告が終わるか終わらないかのうちに、地下資料室の分厚い鋼鉄の扉が、外側から乱暴に押し開かれた。
現れたのは、王都の意匠を纏った白銀の儀礼服を着た騎士だった。だが、その顔にはエリート特有の傲慢さよりも、長距離を馬で駆け通してきた泥と疲労の色が濃く滲んでいた。
「エマ・ルミナス査定員。および、執行者ヴォルフだな」
騎士は荒い息を吐きながら、漆黒の蝋で厳重に封印された一通の書簡を掲げた。
「王都のギルド本部より、特級の招聘状だ。72時間以内の王都への出頭を命ずる」
それは表向きの「招待」という体裁をとった、事実上の出頭命令だった。もし従わなければ反逆とみなされ、この場で斬り捨てられるか、あるいはギルドの全権限を剥奪される。
「……悪いことは言わん。大人しく受け取ってくれ」
エマの冷ややかな視線を受け、騎士は周囲を警戒するように声を潜めた。
「私も、好きでこんな泥臭い辺境まで馬を飛ばしてきたわけではないのだ。王都には、来月産まれる妻と子供が待っている。上で何が起きているかは知らんが、お前たちがこれを受け取らないと、私の首が飛び、家族が路頭に迷う。……頼むから、ただの配達員を巻き込まないでくれ」
華やかな王都の騎士の口から零れた、あまりにも切実で世俗的な「生活」の悲哀。
絶対的な権力機構の末端にも、守るべき日常があり、逆らえない予算と家族への責任がある。
エマはヴォルフの腕からゆっくりと離れ、自らの足で立つと、騎士の差し出した書簡を無造作にひったくった。
「貴方の家庭事情など、私の監査項目には含まれていません。……ですが、無駄な残業を強いる上層部の理不尽さには、大いに同情の余地があります」
エマは懐から真鍮の万年筆を取り出すと、その神聖な王都の招聘状の裏面に、スラスラと何かを書き込み始めた。
「なっ……! 貴様、本部の正式文書に何をッ!」
「今回の深夜の強制労働に関する『未払い残業代』と、封印解除に用いた『魔導経費』の請求書です。私を呼びつけるなら、まずはこの負債を清算してからにしろと……財務卿によろしくお伝えください」
エマは文字で真っ黒になった招聘状を、呆然とする騎士の胸に押し付けた。
「……私は、1ゴールドの誤差も許さない査定員です。権力で数字を誤魔化せると思わないことです」
* * *
嵐のような使者が去り、地下資料室には再び3人のみが残された。
セラが呆れたように、しかしどこか眩しいものを見るような目でエマの肩を軽く叩く。
「……王都。あそこはシュタールみたいな地方支部とは、魔境の深さが違うわよ。文字通り、数字で人を殺す伏魔殿。本気で行くつもり?」
「ええ。父を嵌めた不正の計算式が王都で作られたものである以上、そこで『答え合わせ』をするのが最も合理的です」
エマはそう言って、自分を支え続けてくれているヴォルフを見上げた。
ヴォルフは何も言わず、ただ不器用な手つきで、エマのプラチナブロンドの髪に絡みついた埃を払った。その琥珀色の瞳には、これから始まる凄惨な戦いへの覚悟と、この虚弱で不器用な主を地獄の底まで守り抜くという、野良犬の執念が宿っていた。
「……ヴォルフ、護衛および身体的介護の契約は継続ですよ。王都までの馬車移動。私の体力計算では、馬車の揺れと魔力酔いによって、途中で少なくとも三回は致命的な貧血で倒れる予定ですから」
「……ああ。お前が数字を全部数え終わるまで、俺の背中は貸してやる。さっさと準備しろ、お嬢様」
ヴォルフに背中を押され、エマは重い足取りで地上への階段を上り始めた。
だが、十段ほど進んだところで、彼女はピタリと足を止める。
「……ヴォルフ」
「なんだ、もう貧血か? 記録更新だな」
「いえ。重大な計算ミスに気づきました」
エマは血の気の引いた真剣な顔で振り返り、ヴォルフのコートの裾をきゅっと掴んだ。
「王都までの移動時間は、天候を考慮しても約30時間。その間、常に公爵の策を逆演算し続ける私の脳は、通常時の5倍の熱量を消費します。……先ほどの軍用糖煉瓦だけでは、あと15分しか持ちません」
「……は?」
「至急、追加の資産(兵站)投入を。シュタールの東通りにある老舗の菓子店『リリウム』の、ラム酒に漬けた果実が山ほど練り込まれた重厚な焼き菓子……。あれをホールで三本、至急馬車に積み込んでください。今すぐです」
ヴォルフは天を仰ぎ、地下室に響き渡るような盛大なため息を吐き出した。
「お前なぁ……! これから殺されるかもしれない王都に乗り込もうって時に、よくそんな暢気なもん食う余裕があるな!」
「余裕ではありません、死活問題です。……要求した焼き菓子が用意されない場合、私は王都に到着する前に脳死の餓死体となり、貴方の債務を永久に返済できなくなりますよ?」
「……わかったよ! 買ってくりゃいいんだろ! その代わり、王都のど真ん中で糖分切れで寝るんじゃねえぞ!」
ヴォルフに乱暴に背中を押され、エマは「善処します」と淡々と応えながら歩みを進めた。だが、その頭脳だけはすでに次の戦場――王都の複雑怪奇な帳簿の海へとダイブしていた。
辺境シュタール。
死神と呼ばれた異端の査定員と、その番犬。
二人の「強制監査」は、ラム酒と果実の甘い香りを漂わせながら、すべての悪意が渦巻く王国の心臓部へと、その歩みを進めようとしていた。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【招聘状】
王立保険ギルド本部から届いた出頭命令です。表向きは「招待」という体裁をとっていますが、期限設定や現状の政治的背景を鑑みれば、事実上の死の期限と同義の負債と言えます。
【意識の強制暗転】
私の脳が過負荷によって思考を停止し、肉体の制御を手放す強制終了です。多重術式に等しい高度な並列演算には莫大な熱量を要するため、適切な「兵站(糖分補給)」が途絶えれば、私は即座にただの置物と化します。




