第18話:時間切れと、英雄の清算
シュタール支部長室。
部屋の最奥に鎮座する、豪奢なマホガニー材のデスク。その背後にある壁掛けの巨大なアンティーク時計が、重々しい金属音を響かせた。
ガァン、ガァン、と腹の底を揺さぶるような鐘の音が、正確に10回。
「……現在時刻、4日目の午前10時ちょうど。さて、時間切れだ」
オズワルド支部長は、最高級の葉巻をくゆらせながら、勝利の美酒に酔いしれたように長く、深い紫煙を吐き出した。
彼の目の前には、1歩も引かずに立つエマ・ルミナスと、その後ろで大剣に手をかけて控えるヴォルフの姿がある。
徹夜明けのエマの顔色は紙のように白く、視線すら危うげだったが、オズワルドの目にはそれが「敗北者の絶望」にしか映っていなかった。
「約束の72時間が経過したが、私のデスクには、君からの監査報告書は1枚たりとも提出されなかった。
……非常に残念だが、エマ君。事前の誓約通り、君の査定員資格は本日、この瞬間をもって剥奪とする。そして、そこの不気味で野蛮な番犬は、再び最下層監獄『奈落』へ送り返す手続きをとらせてもらうよ」
オズワルドは引き出しから1枚の解雇通知書を取り出し、万年筆の先をインク瓶に浸した。
ギルド内部のルールを完全に掌握し、彼女の権限を48時間凍結したのだ。彼にとって、この勝利は1パーセントの揺らぎもない絶対的なものだった。
「身の程を知ることだね、エマ君。君のその小賢しい計算能力も、権限という《《ルール》》の前では何の役にも立たない。……大人しくバッジを返納し、この部屋から出て行きたまえ」
しかし。
宣告を受けたエマは、絶望して泣き崩れるどころか、ひどく冷たく、酷薄な笑みをその青白い唇に浮かべていた。
「ええ、支部長のおっしゃる通りです。私はギルドの規約に従い、このシュタール支部には1枚の書類も提出していません。私の提出実績は、正確に《《ゼロ》》です」
「……ならば、速やかに――」
「ですが、この街を治める『領主館の財務局』と『国家憲兵隊』には、今朝の午前8時きっかりに、合計24ページに及ぶ分厚い外部告発状を提出させていただきました。
私の権限が凍結されているのは、あくまでギルドという《《小さな箱の中》》だけですから」
ピタ、と。
オズワルドの葉巻を持つ手が、空中で完全に停止した。
「……何、を言っている……?」
「支部長。貴方が今座っているその立派な革張りの椅子から立ち上がり、後ろの窓から外の広場を見下ろすのに必要な時間は、約3.5秒です。
……ご自身の目で、《《現実の変数》》を確認されることをお勧めします」
エマの言葉に急かされるように、オズワルドは弾かれたように立ち上がり、窓ガラスにすがりついた。
その直後、シュタール支部の正面広場から、凄まじい怒号と金属音が支部長室まで響き渡ってきた。
「な……なんだ、これは……!?」
オズワルドの瞳孔が限界まで見開かれる。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
王国の紋章を掲げた数10人の完全武装の近衛兵と、財務局の腕章をつけた役人たちが、冒険者パーティ『紅蓮の翼』のメンバーを冷たい石畳の地面に力ずくで押さえつけていたのだ。
彼らが祝賀会のために乗り回していた豪華な馬車や、高価な魔法の武器には、次々と赤い「差し押さえ」の札が貼られ、没収されていく。
「な、なんだこれは……! ギルドの専属冒険者を、国家権力が我々に無断で拘束するだと!? ギルドの自治権の侵害だぞ!」
「彼らはギルドのルールの中では勇敢な英雄かもしれませんが、国家のルールに照らし合わせれば、ただの《《脱税犯》》です」
パチン、と。
エマが銀の懐中時計の蓋を閉じる音が、静まり返った室内でひどく大きく響いた。
「彼らは討伐した魔獣の素材を正規ルートで申告せず、西区のガストンが仕切る闇市で売り捌いていました。
私がガストン商会の裏帳簿から算出した未納税金と、国家に対する損害賠償額の合計は、およそ45,000ゴールド。それに規定の追徴課税15パーセントを加算し、総額は51,750ゴールドになります。
これは、領主の軍事費の約半年分に相当する莫大な金額です」
唖然として振り返るオズワルドに、エマは容赦のない数字の刃を真っ向から突きつける。
「常に予算不足に喘いでいる領主の財務局にとって、51,750ゴールドの未納金回収は、ギルドとの摩擦など軽く吹き飛ぶほどの《《特大の利益》》です。
彼らは今、親の仇よりも恐ろしい執念で『紅蓮の翼』のすべての裏口座を凍結し、資産を根こそぎ奪い取っている最中でしょう」
「き、貴様ぁ……! ギルドの内部情報を、勝手に外部に売り飛ばしたというのか!」
「ギルド内部のルールを不当に凍結し、私の『内部告発』という正規の手続きを握り潰したのは、支部長、貴方自身ですよ。私は貴方のルールに従い、盤面を外部へ移動させただけです」
エマは1歩、オズワルドのデスクへと歩み寄った。
その瞳は、逃げ道を1切許さない、理性の怪物のそれだった。
「……さて。貴方の机の上にある、その『偽装討伐の承認書類』。貴方が今、それにサインし、彼らにギルドから200,000ゴールドもの保険金を支払えばどうなるか、計算できますか?」
「……っ!」
「国家から追われている重犯罪の脱税犯に対し、ギルドの公金を使って《《資金洗浄》》をしたことになります。
金額の規模からして、貴方個人も共犯として国家憲兵隊の強制調査を受けることになるでしょう。ギルド本部の権威も完全に失墜し、貴方の首は物理的にも社会的にも飛びます。
……さあ、それでも彼らを守りますか? 承認のサインをどうぞ。私の万年筆をお貸ししましょうか?」
逃げ道は《《ゼロ》》。退路を完全に断たれた、完璧な論理の罠。
オズワルドは完全に血の気を失い、わなわなと震える手で机の上の承認書類を手に取った。
そして、自らの手で、それをビリビリと真っ2つに引き裂き、ゴミ箱へと投げ捨てた。
「……賢明なご判断です。国家のルールに従い、彼らの今回の討伐査定は《《却下》》となります。
同時に、私から彼らへの違約金請求手続きを即座に開始します。……数字に慈悲は含まれません。嘘で塗り固められた英雄の社会的破産の手続き、これにて完了です。……失礼いたします」
エマは完璧な角度で一礼をし、踵を返した。
ヴォルフは放心状態のオズワルドを鼻で笑うと、エマの背中を追って部屋を出た。
* * *
重厚な扉がパタン、と閉まり、廊下に出た瞬間。
「……計算、終了……システムの、シャットダウンを、開始……」
「おっと」
エマの身体からプツリと完全に糸が切れ、糸操り人形のように崩れ落ちる体を、すかさずヴォルフが分厚い腕で抱え留める。
「……ギリギリだったな。よくやったぜ、お嬢様。あのタヌキ親父の絶望した顔、最高に傑作だった」
「……ヴォルフ」
「なんだ? 頑張ったご褒美に、頭でも撫でてほしいのか?」
「……昨夜、貴方が立て替えた、板チョコレート代……正確に、銀貨2枚。……経費精算の領収書、絶対に無くさないでくださいね……今の私に、自腹は、痛すぎます……」
限界を迎えた頭で、最後にそれだけの数字への執着を言い残し。
理性の怪物は、ヴォルフの温かい腕の中で、泥のような、しかし確かな勝利の安堵に包まれた深い眠りへと落ちていった。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【資金洗浄】
犯罪収益の出所を隠蔽する行為です。もしオズワルドが書類にサインしていれば、彼はギルドの資産を脱税犯の逃亡資金に変えるという最悪の失策を犯すところでした。
【社会的破産】
信頼、資産、および未来をすべて失うことです。嘘で積み上げた「英雄」という粉飾決済は、ひとたびロジックのメスを入れれば、このように美しく、および残酷に崩壊します。




