第1話:英雄の請求書と、焼け跡の清算
鼻をつくような、嫌な焦げ臭い空気が辺りに停滞していた。
半焼けになった村役場の天井からは、時折パラパラと灰が落ち、入り口では村人たちが遠巻きに、震えながらこの場の推移を見守っている。
彼らの視線にあるのは、魔獣を退けた救世主への感謝などではない。
次に自分たちから何を奪われるのかという、剥き出しの恐怖だった。
その中心で、エマ・ルミナスはただ1人、この凄惨な光景を《《事務的な風景》》として淡々と処理していた。
「――ふざけるな! 俺たちが命懸けでこの薄汚い村を守ってやったんだぞ。さっさと保険金の承認サインをしやがれ!」
荒々しい怒号と共に、分厚い木製の机が悲鳴を上げた。
銀ランク冒険者の大男、ザックが叩きつけた拳の横で、エマは眉ひとつ動かさず、手元の書類にペンを走らせている。
スレート・グレーのギルド制服を隙なく着こなし、銀縁眼鏡を指先で直すその姿は、戦場にはおよそ不釣り合いなほど「事務員」そのものだった。
だが、その顔色は石膏のように白く、今にも倒れてしまいそうなほど痛々しい。
「……32ゴールド」
「あぁ!? 何をぶつぶつ言ってやがる!」
「今、貴方が叩き壊そうとしたこの机の値段です。それから、村役場の修理代、ついでに私の暗算を邪魔した迷惑料を合わせました。……後ほど、今回の請求額から引いておきますね」
エマは顔を上げず、掠れた、しかし氷のように冷たい声で呟いた。
ザックが次の怒声を上げようとした刹那、エマは初めて顔を上げ、真鍮製の魔導万年筆のキャップを静かに閉じた。
「魔獣の火炎で、村の『金庫室だけ』が綺麗に燃え落ちるなんて、ずいぶんと器用な魔獣ですね、ザックさん。……まるで、中身を盗んだ後に証拠隠滅をしたみたいだ」
「魔獣がたまたまそこを狙ったんだろ! 運が悪かっただけだ、この素人が!」
ザックが吐き捨てた瞬間、エマの灰青色の瞳が、眼鏡の奥で僅かに発光した。
魔導解析眼。
エマの視界から色彩がスッと消え去り、世界が無機質なデータと魔力の波長に書き換えられていく。
他人の嘘を構成する魔力の揺らぎを可視化する、監査官としての特殊な視点だ。
だが、この異能の使用は、エマの脆弱な脳に凄まじい熱量を強いる「諸刃 of 剣」でもあった。
「……おかしいですね。事前の計算と合いません」
エマは、目の前の「英雄」を冷徹に射抜いた。
「金庫の焼け跡に残された灰が、少なすぎます。……つまり、中身は焼けたのではなく、事前に運び出された。
さらに、現場に残された火の跡が、貴方の杖から放たれる魔力波形と、コンマ単位で一致しました。
……おめでとうございます。貴方の魔法は、魔獣のブレスよりも『正確に』金庫を焼き払ったようですね」
エマは事務的な手つきで、ギルドの紋章が入った『銀の懐中時計』を机に置いた。
カチリ、という硬質な音が、静まり返った役場に響く。
「この時計の針を1目盛り進めれば、貴方の銀行口座は今すぐ凍結されます。……王立保険ギルドに嘘をつくとは、そういうことですよ」
「て、てめぇ……殺してやる! 全部なかったことになるんだよぉッ!!」
理性を失ったザックが、腰の剣を引き抜いた。
その瞬間、エマの指先は、本能的な恐怖でわずかに震えていた。
彼女の身体能力は一般女性以下であり、激昂する大男を前にすれば、心拍数は一気に限界まで跳ね上がる。膝がわずかにガクガクと笑い始めていた。
だが、彼女は瞬き1つせず、逃げようともしなかった。
彼女には、自分の「脆弱さ」を補って余りある最強の資産が控えているからだ。
「……ヴォルフ。処理をお願いします。……死なせると、奪われたお金の回収が面倒になりますから」
「……了解だ。お前は少し下がってろ」
直後、爆発のような金属音が響き渡った。
エマの背後に影のように張り付いていたヴォルフが、音もなく前に躍り出た。
抜き放った黒鉄の大剣の腹でザックの刃を強引に叩き折り、そのまま大男を床に縫い付ける。
「……っ、ぐあ!? この野郎……!」
「査定の邪魔だ。喚くな、負債者」
ヴォルフは琥珀色の瞳を冷酷に細め、ザックの腕を制圧した。
黒のレザーコートを纏ったその広い背中は、エマがどれほど冷たい言葉を投げようとも、決して彼女の「ペン」を折らせないという沈黙の意志を体現していた。
「痛みを感じる暇があるなら、返済計画を練っておけ。査定員殿は数字に厳しい。死んでも完済してもらうぞ」
「……ふぅ、危ないところでした」
エマは小さくため息をつき、震える指を隠すように手元の書類をトントンと揃えた。
わずかに立ち続けて異能を使っただけで、彼女の視界は明滅し、冷や汗が止まらなくなっている。
「ヴォルフ、そこの丸椅子を取ってくださる?
……あと、30秒以内に座らないと、私は床と親睦を深めることになります。意識が……ログアウトしそうです……」
「……言わんこっちゃない。限界が来る前に言えと言っただろう。ほらよ」
ヴォルフは制圧の手を緩めないまま、足元に転がっていた椅子を器用に引き寄せ、エマの背後に滑り込ませた。
エマは崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
それは主従というより、もはや介護に近い光景だった。
だが、床を這うザックはまだ諦めていなかった。彼は両手から紅蓮の渦を爆発的に膨らませる。
広域殲滅魔法――大炎焼。
証拠も、査定員も、すべてを灰にして逃げ延びようという暴威。
しかし、エマは椅子に深く腰掛け、ヴォルフの背中に守られたまま、冷徹に宣告した。
「……契約のルールである約款第12条に基づき、正当防衛を適用します。
……ヴォルフ、執行を。これ以上の被害は、村の資産価値を下げます」
「了解」
絶技――魔断。
ヴォルフの一閃が、眼前に迫る紅蓮の壁を、物理的な質量を持って両断した。
魔法は火の粉を散らすことすら許されず、ただの霧となって霧散していく。
「さて。最終的な清算に入りましょうか」
「ま、待ってくれ! 俺にも事情が……!」
「事情で計算が書き換わるなら、この世に算数は必要ありません。
……ライセンスは剥奪、全財産を今すぐ差し押さえます。……村長さん、そんなに感謝されても困ります」
村長が涙ながらに縋りつこうとするが、エマは困惑したように小さく息を吐き、それを事務的にかわした。
「私はただ、ルールに従って『不一致』を正しただけですから。
……この村の皆さんが積み立てた大切なお金が、嘘つきの飲み代に消えるのは、……経済的に美しくありません」
冷淡な声のまま、彼女はくるりと背を向けた。
エマの中に、英雄を裁く高揚感も、弱者を救う慈悲もない。
あるのはただ、1ゴールドの誤差も許さないという、呪いにも似た義務感だけだ。
「……それにしても、妙ですね」
エマは歩き出しながら、ザックたちから押収した裏帳簿のページをパラパラと捲り、ふと灰青色の瞳を細めた。
「ただの銀ランク冒険者が、ギルドの約款の抜け穴をあそこまで正確に暗唱できるはずがない。……それに、この帳簿に使われているインク。王都の高級官僚が好んで使う、特殊な魔導インクの成分と一致します」
エマは真鍮の万年筆で、不自然な文字のハネを指し示した。
「彼らに知恵を授け、不当な請求書を書かせた《《指南役》》が、どこかにいるはずです」
「あ? 誰かの入れ知恵だってのか?」
大剣を背負い直したヴォルフが、訝しげに眉をひそめる。
「ええ。……この村の嘘は、もっと大きな不備の末端に過ぎないのかもしれません。……行きましょう、ヴォルフ。お腹が空いて、脳の回転が落ちてきました」
「……たく。お前の燃費の悪さだけは、どこの指南役にも直せねえだろうな」
呆れ顔のヴォルフを従え、エマは焦げ臭い村役場を後にする。
その足取りはふらついているが、彼女の脳内ではすでに、見えざる黒幕へと続く《《新たな計算式》》が、静かに組み上げられ始めていた。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【約款】
保険の契約時に定められた、絶対的なルールのことです。
今回のザックさんのように「読んでいない」と言い張る不届き者が多いですが、署名した時点で逃げ場はありません。
ちなみに、私の朝食にパウンドケーキが必要なのも、私の脳内約款で決まっています。異論は認めません。
【約款第12条:正当防衛】
査定員が物理的な攻撃を受けた際、護衛による『適切な反撃』を認める条項です。
ヴォルフの反撃が「適切」かどうかは私のさじ加減一つですが……今のところ、彼の暴力は非常にコストパフォーマンスが良いので、多めに見ることにしています。




