第17話:盤外戦術と徹夜の計算と、残り1時間の逆転劇
「……オズワルド支部長は、1つだけ致命的な勘違いをしています」
3日目の午後2時。ルカが手配したスラムの端にある薄暗い隠れ家。
エマ・ルミナスは、ルカが市場で買ってきた分厚い板チョコレートを、まるで獲物の骨でも砕くかのように前歯で無骨にかじりながら、机に向かって猛烈な勢いで新たな書類の束を作成していた。
その灰青色の瞳の奥には、すべてを奪われた敗北の絶望など微塵もない。そこにあるのは、理性の怪物が放つ不気味で冷酷な光だ。計算用紙の上を走る真鍮の万年筆の音だけが、まるで激しい雨音のように室内に響き渡っている。
「支部長は私の『ギルド内部の監査権限』を凍結しましたが、私の頭脳の中にある『経済知識』と『外部の法律』まで奪うことはできません。盤面のルールで勝てないように細工されたのなら、盤ごとひっくり返して燃やせばいいのです」
「姉さん、目がバキバキにキマってるよ。そのチョコ、裏ルートで出回ってる変な葉っぱでも混ざってないだろうね?」
あまりのタイピング――いや、ペンを走らせる速度と尋常ではない集中力に、ルカが若干引き気味に尋ねるが、エマの万年筆は1秒たりとも止まらない。インクが乾く暇もなく、次々と新しいページが白日の下に晒されるべき真実で埋め尽くされていく。
「ギルドには提出しません。私が今書いているのは、この街を治める『領主館の財務局』と『商工会本部』へ向けた、外部告発状です」
「領主館!? お前、ギルドの揉め事を国家権力に持ち込む気か!」
壁に寄りかかっていたヴォルフが、目を剥いて驚きの声を上げた。
冒険者ギルドは独立した自治組織であり、内部の不正を領主の政治や軍部に介入させるのは、業界における暗黙のタブーだったからだ。一度介入を許せば、ギルドの自由は永遠に損なわれ、役人の介入を招くことになる。
「ええ。彼らは魔獣の素材をギルドの正規ルートを通さず、西区のガストンが仕切る闇市で売り捌いて巨額の利益を得ていた。これはギルドの規約違反であると同時に、領主に対する明白な《《脱税》》です。王国法第12条に基づく取引税8パーセントを、彼らは完全に逃れている」
エマは血走った目で、数字の列を乱暴に紙に叩きつけていく。その筆致は、まるで悪党の首を絞める索のように鋭く、正確だ。
「彼らはギルドのルールでは英雄かもしれませんが、国家のルールではただの悪質な脱税犯です。ギルドの監査が通らないなら、国家権力を使って彼らを物理的かつ社会的に破滅させます。狙うのは、彼らが隠し持っている裏口座の全額差し押さえです。ギルドのルールが私を拒むなら、私はより巨大な法という名の《《暴力》》を召喚するまでです」
1介の査定員の枠を完全に超えた盤外戦術――否、これはクーデターだ。しかし、エマの頭脳は最強でも、彼女の肉体は没落したか弱い令嬢のままだった。
4日目の深夜2時15分。
極度の睡眠不足と糖分消費により、エマの肉体はついに限界を迎えた。万年筆を握る右手が、カタカタと痙攣し始める。
「……くっ、視界が……文字が、2重に……。数字の『3』が『8』に……いえ、ただの『雪だるま』に見えてきました……。脳が……演算処理を拒否して……」
「おい馬鹿野郎、これ以上は本当にぶっ倒れるぞ! 指が氷みたいに冷てえじゃねえか!」
ペンを取り落とし、机に崩れ落ちそうになったエマの背中を、ヴォルフが慌てて支える。抱き留めた彼女の身体は驚くほど軽く、および異常なほど冷え切っていた。呼吸は浅く、小刻みに震えている。
「……離して、ください……残り、7時間45分。書類が、あと4枚……。未納額の算出と、追徴課税の比率が……確定していない……」
「わかった、わかったから少し休め! 数字と変数を口で言え。俺が代わりに書いてやる!」
ヴォルフはエマを自分の広い胸に寄りかからせると、彼女の手から万年筆を抜き取り、不器用な手つきで白紙に向かった。分厚い刺客の手の中で、繊細な万年筆はまるで小枝のように頼りなく見える。
限界を迎えた氷の査定員は、ヴォルフの温かい胸に完全に体重を預け、目を閉じたまま熱に浮かされたように数式を呟き始めた。
「……ヴォルフ」
「なんだ、どこか痛むか?」
「……貴方の心拍数、現在1分間に約72回。とても安定していますね。背中から伝わる振動が、一定のメトロノームのようで……私の乱れた演算を整えるのに、非常に適しています。計算の邪魔になりません」
「……こんな時まで数字で俺を測るな。さっさと式を言え」
呆れながらも、ヴォルフは彼女が少しでも楽な姿勢になるよう、抱える腕の力をわずかに緩めた。大男の無骨な体温が、凍えきったエマの思考をかろうじて繋ぎ止めている。
「……第3項、被害総額の推定……45,000ゴールド。追徴課税の比率は、規定により15パーセント。……ヴォルフ、そこ、小数点の位置を絶対に間違えないでください。1ケタずれると、彼らの借金が450,000ゴールドに跳ね上がります」
「そっちの方が痛快で面白えだろ。……で、次はどう書く。俺は字が汚えぞ」
「構いません。悪党の首を絞める縄は、少しささくれていた方が痛くて効果的です……。次は、ガストン商会を通じた『闇市流出資産』の再評価項目です。算定基準は3ヶ月前の銀相場を基準に……」
夜明け前の薄暗い部屋。屈強な大男の腕の中にすっぽりと収まった小柄な令嬢が、寝言のように恐ろしい数字を囁き、大男がそれを必死に紙に刻み込んでいく。
奇妙で、不格好で、しかし絶対的な信頼関係に基づく共同作業の音が、静かに、および力強く響き続けた。
やがて、窓の隙間から白じんだ光が差し込み、街の喧騒が微かに届き始める。
朝の光が机の上を照らした時。合計24ページにも及ぶ、分厚い告発状の束が、ついに完成した。
「ルカ。これを領主館の財務局と、商工会のトップに。中にはガストンの自白の誓約書と原本を同封してあります。……商工会の受付には、私の名前を出す必要はありません。ただ『英雄の帳簿に穴がある』とだけ伝えれば、彼らは勝手に動き出します」
エマはフラフラと立ち上がりながら、徹夜明けのルカに書類の束を託した。その手はまだ震えていたが、彼女の意志は鋼のように硬い。
「……45,000ゴールドもの未納金という《《特大の餌》》があれば、常に予算不足に喘いでいる領主の財務局は、親の仇よりも恐ろしい執念で飛びついてくるはずです。
ギルドへの配慮などかなぐり捨てて、即座に強制執行に動くでしょう。あそこは、徴税に関しては世界で最も効率的で冷酷な組織ですから」
「了解。領主館が開く午前8時きっかりに、財務局の受付に叩きつけてきてやるよ。姉さんの計算が正しければ、昼前には街中に差し押さえの赤紙が舞うってわけだ」
ルカが告発状の束を受け取り、ニヤリと笑って窓から飛び出していく。
エマは深く深呼吸を1つすると、首元の懐中時計をパチンと弾いて開いた。
「……現在時刻、4日目の午前9時ちょうど。オズワルド支部長との約束である72時間のタイムリミットまで、残り正確に1時間です」
彼女の灰青色の瞳から、疲労の濁りが完全に消え去った。そこにあるのは、自らの知略ですべての変数をコントロールし切った、理性の怪物の冷酷な輝き。
「……数字の最終確認に、行きましょう、ヴォルフ。……あ、その前に。板チョコレートの予備をもう1枚。脳の並列演算を再起動させます」
「まだ食うのかよ……ほら、これ持ってけ。最後の戦いなんだ、死ぬ気で勝てよ」
ヴォルフから手渡されたチョコレートを、エマは事務的に口に放り込んだ。
二人の影は、朝日に照らされたシュタール支部へと向かって、力強く歩き出した。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【盤外戦術】
ギルド内部のルールが汚染され、正規の手続きが封じられた際、外部の法律(国家法など)を利用して盤面そのものを破壊する手法です。支部長は私の権限を凍結しましたが、私の頭脳の中にある《《データベース》》まで凍結することは不可能でした。
【脱税】
王国法に定められた納税義務を怠る行為です。英雄であっても、市場を通さず裏で利益を得れば、それは領主に対する経済的背信となります。彼らはギルドの敵である前に、国家の負債者となりました。




