第16話:権限凍結と悪徳商人と、塞がれた正規手順
3日目の朝8時。シュタール街の西側に位置する、腐った運河と違法建築がひしめき合う西区。その一角にある武器商人、ガストン商会が所有する第4倉庫は、朝霧に包まれながらも異様な沈黙を守っていた。
外からの侵入を阻むはずだった分厚い鉄扉は、今や中心から無残にひしゃげ、内側へと丸め込まれるようにして床に転がっている。
「……ひっ、あ、悪かった! 俺が全部話す、だからその化け物を俺から離してくれ……!」
西区の裏社会で「剃刀」と恐れられたガストンは、今や涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、冷たい石の床に額を擦り付けていた。彼の分厚い背中の中心には、ヴォルフの黒い革靴の先が、まるで羽毛のような軽さで乗せられている。
だが、その軽さこそが絶望だった。ヴォルフが僅か数パーセントでも体重を移動させれば、ガストンの脊椎は乾いた小枝のように砕け散る。それを、この商人は本能で理解していた。
「化け物とは失礼な。俺はただの、善良で非力な査定員の護衛だぞ。それに、まだ背中の大剣は抜いてもいねえ。鞘で肩をポンと軽く叩いただけだ。……まあ、お前の部下たちが10人ほど、外で動かなくなってるのは不可抗力だがな」
ヴォルフは心底心外だという顔で、ガストンの背中を靴底でグリグリと踏みつけた。その横で、エマ・ルミナスはコートに付着した鉄錆の埃を事務的に払いながら、首元の懐中時計の秒針から1秒たりとも目を離さずに口を開く。
「ガストン氏。貴方が冒険者パーティ『紅蓮の翼』に対し、禁制品である魔獣誘引香炉、および特定の魔獣に対する特効性解毒薬を50本、帳簿外の裏ルートで販売した事実は、暗号帳簿の解読により既に確定しています。
……現在時刻、3日目の午前8時14分。貴方の無意味な沈黙と、その非論理的な命乞いによって、我々の貴重な資産がすでに120秒もドブに捨てられました」
「ち、違う! 俺はあいつらに、『アヴァロン』の名を出されて脅されたんだ! 仕方なく道具を調達しただけで――」
「言い訳は1文字につき、罰金100ゴールドとして加算します。……無駄な抗弁を続けるより、貴方の未来を《《計算》》しましょうか」
エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、感情の欠片もこもっていない灰青色の瞳で、床に這う男を冷酷に見下ろした。その瞳は、もはや人間を人間として見ていない。ただの「清算すべき負債」として認識していた。
「非公認の魔獣誘引具の密売、および生態系への意図的な干渉は、王国法第7章における『重度自然破壊幇助罪』に該当します。貴方の過去3年間の取引履歴と照らし合わせれば、情状酌量の余地なく最低でも14年の懲役刑。
さらに、偽装討伐によって不当に支払われたギルド予算の全額返還、および損害賠償請求額は、およそ200,000ゴールドに上るでしょう。自己破産しても、貴方の孫の代まで負債という名の呪いが残る計算です」
「ひっ……に、200,000ゴールド……!? そんな、店を売っても足りねえ……!」
「ですが、今すぐ取引を証明する『原本』と、彼らからの『依頼書』を提出し、監査に全面的に協力するなら、貴方を『強要された被害者』として処理する司法取引の書類を作成します。
……ギルドの地下牢で14年間の臭い飯を食い、家系を絶やすか。あるいはここで書類を渡し、明日からも商売を続けるか。10秒以内にお答えください。10、9、8……」
「わ、わかった! 出す! 全部出す! 隠し金庫の暗証番号は0914だ! リーダーの署名と、勇者パーティの紹介状もそこにある!」
ガストンは半狂乱で叫んだ。ヴォルフがそれを確実に回収し、エマが手帳の暗号データと照合する。数字に矛盾はない。インクの筆跡も、ルカの集めた情報と一致した。英雄たちの自作自演を決定づける《《完璧な解》》が、今、エマの鞄の中に収まった。
「ご協力感謝します。貴方の賢明な判断により、残りの人生の約122,640時間が牢獄から解放されました。……現在時刻、3日目の朝8時22分。残り時間は25時間と38分。勝利条件は満たされました。行きましょう、ヴォルフ」
エマは証拠の束を鞄にしまい、踵を返した。夜を徹した演算の疲労で足取りはふらついているが、その背中には、すべての変数を支配し、悪党を論理で圧殺した者特有の静かな熱が宿っていた。
* * *
午前10時ちょうど。シュタール支部、正面エントランス。
光を反射する大理石の床を叩く、エマの革靴の音が小気味よく響く。決定的な証拠を手にした彼女に、もはや迷いはなかった。だが、ロビーの中央まで進んだところで、彼女の歩みは物理的に遮られることとなった。
「やあ、エマ君。随分と朝早くから『お仕事』に励んでいたようだね」
待ち構えていたかのように、オズワルド支部長が3人の監査局執行官を引き連れて立ち塞がっていた。オズワルドは完璧な、および底知れない悪意を秘めた笑みを浮かべ、1枚の『青色の書類』を、まるで授与品のように恭しくエマの前に差し出した。
「残念なお知らせがあるんだ。君たちに対して、重大な規約違反の疑いがかかっていてね」
「……何のことでしょうか。私は今、決定的な証拠を持って帰還したところですが」
「昨夜、冒険者パーティ『紅蓮の翼』から、不当な家宅侵入および重要書類の窃盗に関する被害届が提出されたんだよ。彼らが祝賀会から戻ると、部屋が荒らされていたそうだ。……心当たりがあるんじゃないかな?」
オズワルドのサファイアブルーの瞳が、愉快そうに細められる。エマは動じず、鞄を強く抱きしめて言い返した。
「ギルド規約第41条に基づく《《緊急資産保全》》の手続きです。証拠隠滅の蓋然性が極めて高いと判断し、正当な権利を行使しました。手続き上の不備はありません」
「いや、あるよ。大いにある」
オズワルドは大仰にため息をついて首を横に振った。
「支部長である私の承認も、騎士団の立ち会いも得ていない強行調査は、ただの野蛮な犯罪行為だ。よって、エマ・ルミナス。君の査定員としてのすべての権限を、向こう48時間、《《凍結》》する。これは支部長権限による即時発効の命令だ」
「……ッ!」
エマの細い肩が、落雷に打たれたようにビクンと跳ねた。オズワルドの言葉が意味する絶望的な帰結を、彼女の脳が、彼女の意志に反して瞬時に弾き出していく。
「ギルドへの書類提出、立ち入り、および尋問を今この瞬間から禁ずる。執行官諸君、彼女の鞄を一時没収しなさい。君が抱えているその証拠も、君に権限がない以上、正規の窓口では受理できない。……それはただの、インクの染みがついた《《紙くず》》だよ」
完璧な証拠を手に入れながら、それを提出する「資格」そのものを、自らが愛する『ルール』によって奪われた。エマの頭脳は、今や彼女自身を責め苛む拷問具へと変わっていた。
(……現在、3日目の午前10時。オズワルドとの約束のリミットまで、残り24時間。対して、私の権限凍結は48時間。……つまり、私が期限内に報告書を提出できる確率は、完全に《《ゼロパーセント》》……)
オズワルドは、エマの強みである「ルールへの忠実さ」を逆手に取り、盤面そのものを物理的に破壊したのだ。ルールこそが最強の武器だと信じていたエマにとって、これは死よりも残酷な否定だった。
「残念だよ、ヴォルフ君。彼女の書類は受理できない。……それが我々ギルドのルールだろう、エマ君? 72時間後、君の解雇通知と、彼の『奈落』への送還状を用意して待っているよ」
オズワルドは勝利の笑みを残し、エマから鞄を奪い取った執行官たちを引き連れて、奥の廊下へと消えていった。
「……待ち、なさい……私は、まだ、計算を……」
エマは反論しようと手を伸ばしたが、極度の疲労、低血糖、および「数式が崩壊した」という絶望によって、ふつりと糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
冷たい床に叩きつけられる寸前、ヴォルフがその身体を強く、折れそうなほど抱き留める。
「……ヴォルフ……計算が、計算が合いません……私の権限が、凍結されたら……私は、何のために……」
「わかった。喋るな。……ルールの外側があるはずだ。1回戻って立て直すぞ、エマ」
正規手順を完璧に封じられたまま、残された時間は、ついに24時間を切った。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【原本】
武器商人ガストンから差し押さえた、取引の直接的証拠です。リーダーの筆跡が残る依頼書は、裁判における「確定変数」となるはずでした。……私にその変数を代入する権限が残されていれば、の話ですが。
【重度自然破壊幇助罪】
魔獣誘引具の密売に適用される王国法です。14年という懲役期間は、ガストンのような損得勘定で動く人間を屈服させるには、極めて「費用対効果」の高い脅し文句として機能しました。
【魔獣誘引香炉】
魔獣が好む魔力波長を撒き散らす、持ち運び式の《《質の悪い拡声器》》です。これを焚けば、獲物が勝手に歩いてくる。英雄たちにとっては、命の危険を伴う「冒険」を、予定調和な「在庫回収」へと書き換えるための便利な事務用品だったわけです。当然、これを使用した時点で保険金の支払いは《《不承認》》、全額没収となります。
【青色の書類】
業務停止命令書。これを受理した瞬間、私はギルドという巨大な計算機から切り離された《《無効なプログラム》》となります。論理的な整合性ではなく、手続き上の権力によって数式を書き換えられる。……これこそが、組織における最大のノイズです。




