第15話:空き巣と暗号帳簿と、削られる砂時計
シュタール街の1等地、中央広場に面した高級宿屋『黄金の獅子亭』の裏口。
深夜の静寂の中、かすかな金属音が鳴り、頑丈なはずの真鍮錠がカチャリと音もなく開いた。
「……信じられねえ。ギルドの制服をきっちり着込んだまま、本気で空き巣に入るとはな。お前のそのお上品な顔の裏には、悪魔でも棲んでるのか?」
ヴォルフはピッキングツールを素早くコートの懐にしまいながら、油断なく周囲を警戒した。
その大きな背中の後ろから、エマ・ルミナスが足音を忍ばせてスッと入り込んでくる。
「《《緊急資産保全》》です。先ほども言いましたが、言葉の定義を間違えないでください。
……それに、家主である『紅蓮の翼』の皆様は、まだ高級酒を浴びるように飲んでいる最中でしょう。彼らが戻るまでに、目的のものを押収します」
「見回りの警備員がいるぞ。どうする」
廊下の奥から、カンテラを持った警備員の足音が近づいてくる。
革靴が絨毯を踏む微かな音を聞き取り、エマは手元の懐中時計を見つめ、微かに目を細めた。
「歩幅と足音の間隔から計算して、彼がこの角を曲がるまであと11.5秒。
……ヴォルフ、7秒以内に彼を無力化し、そこのリネン室へ隠してください。流血は禁止です。絨毯の清掃代が我々の経費から天引きされます」
「無茶苦茶言い上がって……!」
ヴォルフは音もなく床を蹴り、角を曲がってきた警備員の死角へ滑り込んだ。
そして、分厚い手刀で首裏を正確に打ち据える。
声を発する暇すら与えず大男を気絶させ、放り込むようにしてリネン室へと隠した。所要時間、6.5秒。
「……優秀な番犬です。ボーナスとして、後で角砂糖を1つ支給しましょう」
「犬扱いすんな。さっさと行くぞ」
2人は音もなく最上階へ上がり、貸切のスイートルームへと侵入した。
室内には無駄に豪華な装飾品、飲みかけのワインボトル、および手入れの行き届いていない高価な武具が散乱していた。
だがエマは、金目のものには1瞥もくれず、部屋の隅に置かれた頑丈なトランクへと直行した。
「……ありました」
エマの細い指先がトランクの隠し底を的確に探り当て、中から1冊の黒い革手帳を引きずり出す。
それは、表のギルド提出用ではない、英雄たちの『裏の領収書』が束ねられたファイルだった。
「物の隠し場所には、持ち主の知性のアルゴリズムが現れます。
彼らの程度の偽装なら、この程度の《《底の浅さ》》でしょう。
……現在、2日目の深夜2時14分。残り時間、55時間46分。撤収します」
* * *
「……なるほど。彼らが頭の先からつま先まで筋肉でできているという先ほどの評価は、1部撤回しなければならないようですね」
夜明け前。ルカの隠れ家に戻ったエマは、机に広げた革手帳を睨みつけながら、ひどく重いため息を吐いた。
「どうしたのさ、姉さん。ただの領収書じゃなかったのかい?」
毛布にくるまっていたルカが、眠い目をこすりながら覗き込む。
「ええ。取引の日付や金額は正確に記載されていますが、肝心の品名と取引相手の名前が、すべて不規則な文字列で記載されています。……高度な暗号です」
エマは手帳のページをめくりながら、ペン先で文字列を追う。
「単純な文字の置き換えではありません。数字の羅列とアルファベットが不規則に混在している。
おそらく、特定の商会の株価変動や、闇市の相場と連動させた経済暗号ですね。
彼らの入れ知恵をした『黒幕』の仕業でしょう。……これを紐解くには、膨大な『計算』の時間がかかります」
太陽が高く昇り、隠れ家の室温がジワリと上がる。
エマは制服の上着を脱ぎ、ブラウスの袖をまくり上げると、一心不乱にペンを走らせ続けた。
数10枚の計算用紙が床に散らばり、彼女の脳内では猛烈な勢いで変数の代入と消去が繰り返されている。
「……ヴォルフ、11時30分の王都の金相場のデータを」
「ほらよ。……おい、飯食えよ。買ってきてやったパンがカチカチになってるぞ」
「咀嚼は時間の無駄です。ブドウ糖の塊だけを口に放り込んでください。今は1秒でも惜しい」
昼が過ぎ、夕暮れが訪れても、彼女の計算は終わらない。
次第にエマの顔から完全に血の気が失せ、ペンの動きが微かに震え始める。
時折「……違う、変数が足りない」「……相場の変動率を0.4パーセント修正……」と、熱に浮かされたように呟く姿は、まさに何かに憑かれた怪物のようだった。
「……おい、エマ。いい加減に休め。顔が死人みたいになってるぞ。息、してるか?」
見かねたヴォルフが、エマの手から真鍮の万年筆を強引に奪い取った。
「……私の演算処理を物理的に妨害しないでください。ペナルティとして貴方の給与から……」
「うるせえ。少し脳みそを冷ませ」
文句を言いかけたエマの頭を、ヴォルフが大きな手のひらで掴み、そのまま強引に机の上へ突っ伏しさせた。
「っ……無礼、です……」
温かい手のひらに押し付けられ、強制的に視界を奪われた瞬間。
限界をとうに超えていた彼女の脳は、プツリと糸が切れたように意識を手放した。
3時間後。ハッと目を覚ましたエマは、自分が毛布を掛けられた状態で机に突っ伏していたことに気づいた。
「……何時間、浪費しましたか」
「たったの3時間だよ。寝起きから怖い顔すんなって」
ルカがクスクスと笑いながら、エマの目の前に何気なく1枚の紙切れを置いた。
「姉さんが寝てる間に、ちょっとその暗号の規則性を見てたんだけどさ。
この末尾の『Z-9』って文字、南区の密輸業者が使う『火薬』の隠語だよ。スラムの連中がよく取引で使うんだ」
その1言で、エマの脳内で雷が落ちたように、すべての数式がカチリと音を立てて繋がった。
「……なるほど。王都の相場ではなく、このシュタール街の『闇市レート』を鍵とした《《ローカル暗号》》だったのですね。
外部の人間には絶対に解けないわけです。……変数が確定しました」
そこからのエマの速度は、まさに圧巻だった。
夜の帳が完全に下りた頃。エマは大きく息を吐き、ペンを置いた。
「……解読完了です」
エマの提示した計算用紙には、恐るべき真実が白日の下に晒されていた。
「取引相手は、西区の裏社会を仕切る武器商人ガストン。
彼らが今回の討伐の24時間前に、彼から裏金で購入していたのは……北の森の魔獣にだけ効く『特効性の解毒薬』を50本と、『魔獣誘引香炉』です」
自作自演の決定的な証拠。英雄たちは、あらかじめ香炉で指定の場所に魔獣を呼び寄せ、事前に買っておいた特効薬を大量に持ち込むことで、安全に「狩り」をしていただけだったのだ。
パズルを解き明かしたカタルシス。
だが、エマは懐中時計をそっと持ち上げ、その表情を曇らせた。
「……代償として、時間を消費しすぎました」
時刻は、3日目の深夜0時ちょうど。
暗号解読に、丸1日弱もの時間を費やしてしまったのだ。
「残り時間、34時間。……夜が明けたら、すぐに商人ガストンの元へ向かいます。奴の口を物理的、あるいは経済的に割らせて原本を確保する。1秒の遅れも許されません」
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【緊急資産保全】
証拠隠滅の恐れがある場合、査定員の裁量で行われる強制的な証拠確保です。世間一般では「空き巣」と呼称されますが、ギルド規約という《《聖典》》があれば、それは正当な業務執行へと変換されます。
【暗号】
不都合な真実を隠蔽するための数学的な障壁です。今回のものはシュタール街の「闇市レート」を鍵とした変則的なアルゴリズムでしたが、論理の糸を辿れば必ず「答え」に繋がります。……ただし、解読に必要な熱量は、私の脳を《《物理的に停止》》させるほど過酷なものでした。




