第14話:72時間の砂時計と、英雄の領収書
シュタール街の裏路地にひっそりと佇む、看板の文字すら掠れた古い喫茶店。
深く焙煎された安価な豆の焦げた香りと、長年染み付いた煙草の匂い。
そして、壁に掛けられた古びた振り子時計が「チク、タク」と刻む単調な音だけが、薄暗い店内を満たしていた。
この場所は、情報屋のルカが「絶対にギルドの監査網や、オズワルドの息のかかった連中の目につかない場所」として手配してくれた、彼らの臨時の作戦本部だ。
「……」
一番奥の、擦り切れたビロード張りのボックス席。
エマ・ルミナスは無言のまま、ヴォルフが調達してきた王都直輸入の『糖菓』をかじっていた。
限界ギリギリの低血糖により、彼女の灰青色の瞳は完全に焦点が迷子になっている。
だが、上品な包み紙から覗く黄金色の甘味を、リスのように小刻みに、それでいてひどく《《事務的なペース》》で咀嚼していく。
甘い塊を喉の奥へ流し込むたび、濁っていた彼女の瞳に、カチリ、カチリと冷たい知性の光が戻っていくのがわかった。
「……で、どうするんだ。オズワルドのタヌキ親父、あの証拠の木箱を完全に握り潰す気満々だったぞ」
向かいの席にどっかと腰を下ろしたヴォルフが、腕を組みながら天井を仰ぎ、苛立たしげに長いため息をついた。
「あーあ、せっかくルカがスラムから命がけで回収してきた魔導具の部品も、これじゃあ支部長室の金庫の中で永遠に塩漬けだ。……いっそ、俺がこの大剣で夜中に金庫ごと真っ二つに叩き斬ってやろうか」
物騒な提案を吐き捨てる元・野良犬の騎士に対し、エマは最後の一欠片のヌガーを飲み込み、グラスの冷たい水で口内をゆすいだ。
そして、銀縁眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、容赦のない視線をヴォルフへと向ける。
「ヴォルフ。貴方が今、無意味に天井を仰ぎ、非生産的なため息をつき、野蛮かつ非現実的な提案を口にするまでに消費された時間は、正確に約4.5秒です」
「……あ?」
「オズワルド支部長が我々に与えた猶予は72時間。秒数に換算すれば、259,200秒。
貴方はたった今、我々に残された全資産の約0.0017パーセントを、何の利益も生まない《《ただの愚痴》》によってドブに捨てました」
「お前な……! 人がせっかく心配してやってるのに、その可愛げのねえ呪文みたいな計算をやめろ! 聞いてるだけで頭が痛くなってくる」
顔を引きつらせて大剣の柄から手を離すヴォルフを意に介さず、エマの数字の暴力は止まらない。
「さらに言えば、貴方がギルド支部の金庫を物理的に破壊した場合、器物損壊、窃盗、および国家反逆罪に準ずる容疑で我々の身柄は即座に拘束されます。
その際の想定される裁判費用はおよそ15,000ゴールド。投獄による私の逸失利益、および貴方の身受けローンの残債1,200,000ゴールドを加味すると、現在のシュタール支部の年間予算の約3.5倍の負債を我々が背負う計算になります。
……どうしますか? それでも今夜、金庫を斬りに行きますか? 行くのであれば、私は今すぐここで貴方との雇用契約を解除しますが」
淀みない数字の羅列による、完全なる論破。
ヴォルフは「……悪かったよ。お前が元気になって何よりだ」と、すっかり毒気を抜かれたように両手を挙げた。
「支部長を真っ向から敵に回すなんて、姉さんたちも相当な命知らずだねぇ」
隣の席で安物のエールを啜っていたルカが、面白くてたまらないというようにクスクスと笑う。
「普通なら、適当なところで手を引くぜ? 相手は泣く子も黙るシュタール支部のトップだ。末端の査定員と護衛が勝てる相手じゃない」
「命は惜しいですが、計算が合わない帳簿を目の前にして放置する方が、私にとっては重大なストレスであり、生きる意味の喪失に直結します」
エマは背筋をスッと伸ばした。
乱れていた呼吸も完全に整い、声には先ほどまでの疲労感が嘘のように消え去っている。
致死量すれすれの糖分を補給したことで、完全なる《《理性の怪物》》が再起動を果たしたのだ。
「数字のノイズは、放置すれば必ず全体の数式を腐らせる。……早急に切除しなければなりません」
エマは傍らに置いた鞄から、使い込まれた黒革の手帳を取り出し、真鍮の万年筆のキャップを外した。
「ルカ。依頼していた『紅蓮の翼』の連動は?」
「今頃は、街の中心にある一番デカい高級酒場を貸し切って、どんちゃん騒ぎの真っ最中だよ。取り巻きの商人や地元の有力者たちも集めて、見事な討伐劇の祝賀会さ」
ルカは肩をすくめ、呆れたように鼻を鳴らした。
「一晩の飲み代だけで、平気で金貨50枚は下らないね。……俺のネズミたちも彼らの部屋や酒場の裏口に探りを入れたけど、姉さんの読み通り、あいつらの頭の出来は完全に筋肉レベルだ。あんな複雑なデコイを、自分たちの頭で構築・管理できるような器じゃないぜ」
「ええ。その点は私も同意します。事前のヒアリングの際、リーダーの男の語彙力と論理的思考力は、街角の12歳の子供よりも《《貧困》》でしたから」
エマは手帳の白紙のページに、スラスラと美しい筆致で図形と相関図を描き始めた。
中心に『紅蓮の翼』、その周囲に『オズワルド』『廃棄された魔導具』といったキーワードが矢印で結ばれていく。
「彼らはあくまで表舞台に立つ『役者』です。彼ら自身に高度な魔導具を設計、あるいは改造する知能はない。
裏で装置を動かしていた傭兵団と彼らを繋ぎ、機材を調達し、巨額の利益を分配している《《仲介者》》が必ずこの街のどこかにいます。そして、役者である以上、彼らには事前に『台本』が渡されているはずです」
「台本、ねぇ」
ヴォルフが眉間を揉みながら口を挟む。
「だが、その台本とやらを証明するための魔導具の部品は、オズワルドの親父が金庫に仕舞い込んじまったんだろう? 残された時間で、どうやってそいつらの尻尾を掴む気だ?」
ヴォルフの真っ当な疑問に対し、エマは万年筆の先で、手帳の余白をトントンとリズミカルに叩いた。
「魔法の痕跡も、目撃証言も必要ありません。冒険者の《《経費》》を洗います」
「……経費?」
「ええ。魔獣がいつ、どこに現れるか分からない『自然発生』の討伐依頼であれば、冒険者は常に汎用的な消耗品を均等に消費し、補充するはずです。……彼らの経費の内訳は、常に一定のバランスを保つのが自然な姿です」
エマの灰青色の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く、冷たく細められた。
「しかし、もし彼らが『今日の午後3時、北の森の廃村に、毒を持つ特定の魔獣が出る』と事前に《《知っていたら》》どうなりますか?
……彼らの直近の『領収書』の山を洗うのです。もし彼らが、昨日の討伐の直前《《だけ》》、特定の魔獣に特化した高価な解毒薬ばかりをピンポイントで大量に購入していたら……それは不自然な経費の偏り、すなわち『予知』ではなく『計画』の動かぬ証明になります」
ヴォルフとルカが、同時にハッと息を呑んだ。
魔法や武力による証明ではない。ただの紙切れである「買い物の記録」から、英雄の自作自演を論理的に、かつ数学的に暴き出すというのだ。
「……なるほどな。嘘つきの口は塞げても、金の流れは誤魔化せねえってわけだ」
ヴォルフが底冷えするような獰猛な笑みを浮かべ、口角を吊り上げた。
「ルカ。貴方は彼らが酒場から出ないよう、適当な騒ぎを起こして足止めをお願いします。予算は銀貨3枚まで許可します」
「了解。任せときな。酔っ払いの財布をすって、店ごと巻き込む派手な乱闘騒ぎにでも発展させてやるよ」
銀貨を受け取ったルカが軽やかな足取りで店を飛び出していくのを見送り、エマは立ち上がってスレート・グレーの制服の埃を払った。
「ヴォルフ。私たちはこれより、彼らが滞在している高級宿屋へ向かい、自室に残された彼らの私的な帳簿と領収書を《《臨時監査》》します。
ここから宿屋までの移動時間は徒歩で約12分、侵入経路の確保に3分を見込みます」
「……おいおい、ちょっと待て、エマ。家主が留守の間に裏口から部屋に押し入る行為を、世間一般では『空き巣』って呼ぶんだぞ」
ヴォルフが顔を引きつらせて常識的なツッコミを入れるが、エマは全く動じる様子を見せなかった。
「言葉の定義を間違えないでください。これはギルド規約第41条に基づく『不正疑義対象者に対する緊急資産保全』です。手続き上、何の問題もありません」
「当事者が不在で、支部長の許可もないのにか!?」
「事後承諾という形を取ります。すべてが終わった後、私が監査書類にそう書き込めば、それは組織にとっての《《真実》》になりますから。
……これ以上くだらない反論に時間を使うなら、貴方の今月の給与から罰金として500ゴールドを天引きしますが、よろしいですか?」
「……ちっ、悪魔め。行くよ、行きゃあいいんだろ」
罰金という最強のカードを切られ、ヴォルフは舌打ちをしながら立ち上がり、漆黒の大剣を背負い直した。
エマは店を出る直前、首から下げた銀の懐中時計の蓋をパチンと弾いて開けた。
盤面を見つめる彼女の瞳に、再び冷酷な光が宿る。
「オズワルド支部長が我々に『72時間』という猶予を宣告したのが、今日の午前10時ちょうど。
……現在時刻、1日目の午後10時17分。彼との約束の期限まで、残り時間は正確に、59時間と43分です。もう1秒も無駄にはできません。行きましょう」
理性の怪物と野良犬の騎士は、英雄たちの虚飾を「数字」で暴き立てるべく、夜のシュタール街へと足を踏み出した。
査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【糖菓】
高濃度の糖分と脂質を含有する、脳の緊急修復材です。今の私には、正義や理想よりも、この暴力的なまでの熱量が必要です。
【経費の偏り】
本来、不確定な冒険において経費は分散されるべきものです。特定の事態に特化した準備がなされている場合、それは「準備が良い」のではなく、事態を「知っていた」とするのが統計学的な正解です。領収書は、魔法よりも雄弁に真実を語ります。
【事後承諾】
手続きを簡略化(あるいは無視)し、結果を出した後に正当性を付与する高度な管理手法です。批判は免れませんが、72時間という極限状態において、私は規約を「守る」のではなく「利用」することを選択しました。




