第13話:権力の盾と、72時間の猶予
シュタール支部長、オズワルドの登場により、執務室を満たしていた一触即発の熱気は、瞬時にして底冷えするような緊張へと塗り替えられた。
「支部長……! この査定員、俺たちを犯罪者扱いしやがったんです!」
『紅蓮の翼』のリーダーが、すがるような、しかし怒りを孕んだ声で訴え出る。
オズワルドは彼を制するように、純白の手袋に包まれた手で穏やかに空を撫ぜた。
「わかっているよ。君たちが自らの危険を顧みず、身を挺して村を救ってくれたことは、この私が保証しよう。……エマ君。少しばかり、机上の数字に毒されすぎているのではないかな?」
オズワルドは柔和な笑みを浮かべたまま、エマのデスクへとゆっくり近づいてきた。
プラチナブロンドの髪を完璧に撫でつけ、仕立ての良い高級なスーツを隙なく着こなしている。
しかし、片眼鏡の奥にあるサファイアブルーの瞳は、微塵も笑っていない。
絶対的な権力者として、自らの盤面を荒らす《《異物》》を排除しようとする冷酷な光が宿っていた。
「私は事実を指摘したまでです。討伐時刻と、北の森で稼働していた発信機の稼働時間が、分単位で完全に一致している。これは統計学的に見て、決して無視できない異常値です」
「君の熱心さは評価するがね。今は、彼らが村を救ったという『結果』が何より優先される。
恐怖に震える民衆は、冷たい論理や数字よりも、分かりやすく安心できる『英雄』を求めているんだ。……無用な混乱を避けるためにも、その木箱は、私が一時的に預かろう」
オズワルドが、ヴォルフの足元に置かれた重厚な30キロの木箱へ手を伸ばす。
それは「大人の対応」を装った、明白な《《証拠隠滅》》の提案だった。
周囲で息を潜めている数十人の事務官たちが一斉に息を呑み、圧倒的な権力に押し潰されるエマの姿を予感した、その時。
「――お断りします」
エマの細く、しかしよく通る凛とした声が、静まり返った執務室に響いた。
木箱へ伸ばしかけていたオズワルドの手が、ピタリと止まる。
「ギルド規約第22条『重要証拠の保全義務』。……監査対象と利害関係、あるいは交友関係にある者は、当該証拠品の単独管理を厳格に禁じられています。
このルールは、支部長であっても例外ではありません」
「……おや。私が、彼らと利害関係にあると?」
オズワルドは楽しげに肩を揺らしたが、声の温度は明らかに氷点下まで下がっていた。
「少なくとも、貴方は今、彼らの不審な先行承認の書類に無条件で署名しようとしている。客観的な中立性は担保されません。
証拠は、規定通り地下の金庫室に『二重ロック』で封印すべきです。……それとも、支部長ご自身の権限で、この場で強引に規約を書き換えますか?」
エマは真鍮の万年筆を置き、真っ直ぐに支部長を見据えた。
その灰青色の瞳には、一切の妥協がない。1ミリの隙も見せない、完璧な《《ルールの盾》》。
オズワルドの顔から、一瞬だけ柔和な笑みが剥がれ落ちた。
重苦しい静寂が落ちる。
ヴォルフが密かに重心を落とし、いかなる事態にも即座に動けるよう、背中の大剣の柄に意識を向けた。
だが、すぐにオズワルドは小さく息を吐き、再び完璧な「上司の顔」を作り直す。
「……なるほど。規約を持ち出されては、私も引き下がるしかないな。よかろう、証拠品は地下金庫に封印しよう。鍵は私が1つ、君が1つ持つことで同意する」
「賢明なご判断です」
「ただし」
オズワルドの声が、周囲の空気を物理的に圧迫するほど重くなった。
「英雄を疑う以上、それ相応の責任は取ってもらう。……君に『72時間』の猶予を与えよう。
その間に、彼らが自作自演に関与したという、言い逃れのできない『直接的証拠』を持ってき給え。状況証拠や、君の得意な確率論の計算式ではなく、だ」
「72時間……」
「そう。もし証明できなければ、君は査定員資格を即刻剥奪。
虚偽報告のペナルティとして、そこの不気味な番犬には再び最下層の『奈落』へ戻ってもらう。……異存はないね?」
あまりに不平等な賭けだった。
しかし、エマは一瞬の逡巡も見せずに、静かに頷いた。
「承知いたしました。……1秒たりとも、無駄にはしません」
* * *
不気味な勝利の笑みを浮かべる『紅蓮の翼』の青年と、冷酷な目で見送るオズワルドを背に、2人はシュタール支部を後にした。
重厚な扉が背後で閉まり、冷たい夕暮れの外気に触れた瞬間。
エマの足が、プツリと糸が切れたようにガクッと崩れそうになる。
「おっと」
ヴォルフが咄嗟に腕を伸ばし、彼女の華奢な肩を支えた。
「……随分な無茶を飲んだな。まさか俺まで『奈落』へのUターン行きの手形を切られるとは思わなかったぜ」
「……計算上、72時間……正確には259,200秒あれば、立証は十分に可能です。ですが」
「ですが?」
「今のままでは、脳のエネルギー残量が推定0.1パーセントを切っています。ヴォルフ、至急、糖分を。……いつもの氷砂糖では計算が追いつきません。もっとこう、《《暴力的な甘味》》が欲しいです」
エマはヴォルフの腕に寄りかかったまま、ひどく真剣な顔で要求した。
「王都から輸入されている、最高級の蜂蜜とローストナッツが詰まった糖菓か、カカオ成分の極めて高い分厚い板チョコレートがいいです。
カロリー換算で、最低でも3,000カロリーは今すぐ摂取しないと、私の生命活動が停止します」
「……はぁ。わかったよ、俺の少ない小遣いから立て替えてやる。どうせ首の皮1枚繋がってるだけの命だ、甘いもんくらい腹一杯奢ってやるよ」
ヴォルフが苦笑しながら、エマの背中を押して歩き出そうとした時だった。
「――姉さんたち、随分と面白い賭けに乗ったみたいだね」
頭上のガス灯の上から、軽やかな声が降ってきた。
音もなく石畳に飛び降りてきたのは、灰色のポンチョを羽織ったスラムの少年――情報屋のルカだった。
「ルカ……。話が早くて助かります」
エマは崩れかけていた姿勢をすっと正し、乱れた眼鏡の位置を中指で正確に直した。
その灰青色の瞳には再び、獲物を狙う理性の怪物の、絶対度の光が灯る。
「72時間で、あの醜い英雄たちのメッキを完全に剥がし、《《破産》》させます。……貴方の情報網を、最高値で買い取りましょう。変数の収集を開始します」
査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【糖菓】
高濃度の糖分と脂質を含有する、脳の緊急修復材です。今の私には、正義や理想よりも、この暴力的なまでの熱量が必要です。
【変数の収集】
反撃のための下準備です。72時間という制約の中で勝つためには、推測ではなく、相手が「ぐうの音も出ない」物理的な証拠を揃える必要があります。そのために、私はスラムのドブネズミ(情報屋)への支出すら惜しみません。




