第10話:北の森の自作自演と、英雄の刻印
翌日の早朝。シュタール街の北に広がる深い森は、朝露と腐葉土の青臭い匂いに満ちていた。
木漏れ日が細く差し込む獣道を、2つの影が不規則なテンポで進んでいく。
「……肉体労働は、時給換算すると最も効率の悪い業務です。なぜ査定員が、このような未開の地を自らの足で歩かなければならないのでしょうか」
エマ・ルミナスは、ぬかるんだ地面に足を取られながら、恨みがましい声で呟いた。
王都の舗装された石畳か、せいぜいギルドの平坦な廊下しか歩いたことのない彼女にとって、凹凸だらけの獣道は《《最悪の労働環境》》だった。
毎朝丁寧に磨き上げているスレート・グレーの革靴は泥にまみれ、呼吸は完全に乱れ、プラチナブロンドの髪には小さな枯れ葉がいくつも付着している。
「文句を言う暇があるなら足を動かせ。ほら、そこに太い木の根があるぞ。つまづいて顔から転ぶなよ」
数メートル前を歩くヴォルフが、呆れたように振り返った。
彼はかつて『奈落』で生死の境を彷徨った野良犬のように、軽々と急斜面を登っていく。
そして、安定した足場を確保してから、ぜえぜえと肩で息をするエマへ向けて黒い革コートの裾をヒョイと差し出した。
「……ありがとうございます」
エマは一切の躊躇なく、その分厚いコートの裾を両手できゅっと掴み、彼に引っ張り上げてもらう。
ルミナス家の矜持よりも、転倒による体力ロスの回避を優先する、極めて合理的な判断だった。
「お前なぁ……いくらお上品な令嬢上がりだっつっても、本当に体力ないんだな。ギルドの査定員の採用試験に、腕立て伏せとか走り込みの項目はないのか?」
「査定員に必要なのは、筋肉ではなく高度な計算能力です。
……それに、私は今、脳内の糖分を激しく燃やして歩行のバランスを保つという、非常に複雑な演算をリアルタイムで行っています。これ以上話しかけないでください、変数が狂います」
「歩くのを演算とか言うな。ただの運動不足だろ」
エマは息も絶え絶えに理屈っぽい言い訳をしながら、ポケットから銀紙に包まれた氷砂糖を取り出し、乱暴に口に放り込んだ。
ガリッ、と硬い甘みを噛み砕く無作法な音が、静かな森に響く。
「はいはい。お嬢様の護衛は骨が折れるぜ。ほら、もう少しで頂上だ」
ヴォルフは肩をすくめたが、その歩幅は密かに、不健康なエマが無理なくついてこられる限界のペースまで計算して落とされていた。
* * *
やがて、森のさらに奥深く。
不自然に木々が切り開かれた、すり鉢状の盆地が姿を現した。
2人は崖の上の茂みに身を隠し、眼下に広がる光景を静かに見下ろす。
「……なるほど。スラムのルカが言っていた通りですね。ただの山賊ではありません」
エマの視線の先には、屈強な男たちが駐屯する野営地があった。
「テントの数は12。武器の数や焚き火の痕跡から推測して、人員は約30人といったところですか。
彼らの装備の統一感、および野営の規模を維持するための食費を計算すると、1日あたり最低でも金貨5枚の維持費がかかっているはずです」
粗末なテントの周りには規則正しく見張りが配置され、手入れされた武具が整然と並んでいる。
だが、それ以上に異様なのは、野営地をぐるりと囲むように設置された、無数の魔導具の配置だった。
ヴォルフは琥珀色の瞳を細め、戦士としての嗅覚でその陣形が放つ《《不協和音》》を言語化する。
「……おかしいな。防衛用の結界魔導具の数が、どう見ても過剰すぎる。
あいつら、何かから『隠れる』んじゃなくて、何かが『来る』のを待っている陣形だぞ。しかも、相当デカい獲物をな」
「獲物を待つ……?」
エマは眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに宣言した。
「魔導式解析眼、起動」
エマの灰青色の瞳が、青白く発光する。
視界の色彩が消失し、世界が魔力の波長とワイヤーフレームに書き換えられる。
彼女の視線は、野営地の中心に鎮座する、奇妙な機械の塊に釘付けになった。
「あれは……シュタール支部の廃棄物処理台帳から消えていた、旧式の魔導回路です」
エマの目に映ったのは、泥と油に塗れながらも、規格外の魔力を放つジャンク品の山だった。
だが、本来の用途である安定した魔力供給ではなく、わざと回路を暴走させるような、雑でひどく危険な改造が施されている。
「回路を暴走させてる? なんだそりゃ、自爆でもする気か?」
「いいえ。……あれは発信機です」
エマの脳内で、これまでバラバラだった数字と事象が、1つの明確でグロテスクな数式に組み上がっていく。
「旧式回路が発する不快な魔力波長を利用して、森の奥から凶暴な魔獣を意図的に呼び寄せているのです。擬似的な獲物の匂いを撒き散らす、巨大なルアーのようなものです」
「わざと魔獣を呼ぶだと? 何のために……いや、待てよ」
「討伐するためです」
エマの声は、崖を吹き抜ける風よりも冷たかった。
「魔獣を呼び寄せ、自分たちのテリトリーで安全に討伐する。
そうすれば、地元の村からは『防衛報酬』を巻き上げられ、ギルドには『想定外の魔獣被害』を偽装して保険金を請求し、さらに素材を闇市場に流して利益を得る。
……1つの嘘をつくだけで、3度の利益が確定する。完全な自作自演のビジネスモデルです」
普通なら人の命を脅かす恐ろしい魔獣すらも、彼らにとっては安全に管理された《《在庫》》であり、巨額の利益を生み出すための《《商材》》に過ぎないのだ。
「……随分と、悪辣で手慣れたやり口だ。ただの山賊が思いつく規模じゃねえぞ」
「ええ。これほど大規模な野営を維持し、ギルドの目を誤魔化し続けるだけの資金を持った出資者が……」
エマがそこまで言いかけた時だった。
青白いワイヤーフレームの視界が、野営地の片隅に積まれた真新しい木箱の山を捉えた。
その側面に、小さく、しかしはっきりと見覚えのある焼き印が押されている。
――『天秤と聖剣』。
それは現在、王都で最も熱狂的に支持されている勇者パーティ『アヴァロン』の公式紋章だった。
その瞬間、エマの心臓が、氷のように冷たい音を立てた。
6年前。名門ルミナス家の全てを奪い、誇り高き父に売国奴の汚名を着せて笑っていた者たちの影が、こんな辺境の森の奥底にまで伸びていたのだ。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、絶対零度の《《計算》》だけが、エマの脳内を支配していく。
「……見つけました」
エマの声音から、先ほどまでの人間らしさが完全に消失した。
彼女はゆっくりと立ち上がり、スレート・グレー의 制服の埃を事務的に払う。
「どうする、エマ。証拠の裏は取れた。1度支部に戻って応援を……」
「いいえ。このまま放置すれば、彼らは今日にでも魔獣を呼び寄せ、不正な《《在庫》》をさらに増やすでしょう。
……この場で物理的監査を実行します」
「……おいおい、正気か? 相手は約30人の武装集団だぞ」
「安心してください、ヴォルフ。私はただの査定員です。彼らの『資産』を根本から差し押さえる方法なら、いくらでもあります。
まずは、彼らの『餌』を没収します。……ヴォルフ、門を開けてください。監査の時間です」
野良犬の騎士は、主の冷徹な宣告に短く鼻で笑い、漆黒の大剣をゆっくりと引き抜いた。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【発信機】
旧式の魔導回路を意図的に暴走させ、特定の魔獣が好む魔力波長を増幅・放射する装置です。自然界ではあり得ない魔力濃度を偽造することで、生態系という名の「帳簿」を強制的に書き換える装置と言えます。
【自作自演】
自ら火を放ち(魔獣を呼び)、自らポンプで消火する(討伐する)ことで、周囲から不当な報酬や同情を買い取る行為です。リスクを完全にコントロール下に置いた上での「被害者」の演技は、保険金詐欺の極致とも言える醜悪な数式です。
【在庫】
ここでは傭兵団が呼び寄せた魔獣を指します。彼らにとって魔獣は恐怖の対象ではなく、解体して素材を売るための「換金待ちの資産」でしかありません。命に対する敬意の欠片もない、極めて効率的な計算です。
【天秤と聖剣】
勇者パーティ『アヴァロン』の公式紋章です。6年前に私の父、名門ルミナス家の当主を陥れた不当な「査定」に関与している、この物語における最大の不整合点です。彼らの影がこの森にあるということは、ここが巨大な不正の「末端」であることを示しています。
【門】
監査という名の戦いへの入り口、あるいはヴォルフが「実力行使」を開始する際の合図です。ここから先は、規約の言葉ではなく、物理的なエネルギー保存の法則によって不整合を修正することになります。




