第9話:路地裏の契約と、情報の換金率
シュタール支部の南側に広がるスラム街は、特有の饐えた臭いが常態化していた。
表通りの経済からこぼれ落ちた者たちが吹き溜まるこの場所では、正規の硬貨よりも、今日を生き延びるための情報と《《暴力》》のほうが、はるかに高い換金率を持っている。
エマ・ルミナスは、ギルドの制服の上に目立たない灰色のコートを羽織っていた。
だが、手入れされたプラチナブロンドの髪と、凛として隙のない歩き方は、薄暗い路地裏ではひどく浮いている。
当然のように、廃材の山を抜けたあたりで、数人の男たちが2人の行く手を塞いだ。
「おいおい、ずいぶんと上等なコートじゃねえか。迷子か、それとも貧民の慰問に来た聖女様か?」
剥き出しの刃物を弄りながらニヤリと笑う男たちに対し、エマは歩みすら止めなかった。
代わりに、半歩後ろを歩いていたヴォルフが前に出る。
黒いロングコートを揺らし、背の大剣に手をかけたわけでもない。
ただ、琥珀色の瞳で男たちを冷酷に一瞥しただけだ。
それだけで、路地裏の空気が凍りついた。
圧倒的な、死線を潜り抜けてきた本物の殺気を前に、男たちの顔から薄ら笑いが消え、後ずさる。
「……用事があるのは、お前らみたいな末端じゃない。散れ」
ヴォルフが低く唸った直後だった。
「やめときなよ。その番犬に噛まれたらタダじゃ済まないし、そっちの姉さんに査定されたら、あんたたちの命なんて《《端数》》も残らないぜ」
頭上の崩れかけた屋根から、軽やかな声が降ってきた。
音もなく飛び降りてきたのは、ボロボロのポンチョを着た少年だった。
年は14、15といったところか。
茶色の髪から覗くエメラルドグリーンの瞳には、年齢に似合わない狡猾な光が宿っている。
「『奈落』帰りの狂犬と、没落したルミナス家の生き残り。こんなドブさらいの場所に、ギルドの査定員殿が何の用だい?」
スラムの情報網は、エマが想定していた以上に彼女の素性を正確に弾き出していた。
ヴォルフが警戒して片足を引くが、エマは動じず、銀縁眼鏡の奥で少年の身なりと立ち振る舞いを観察する。
「情報ギルドの長。年齢14歳。傘下のネズミの数を考えれば、推定年収は銀貨300枚相当といったところですか。……悪くない数字ですね。貴方なら、私の経費を無駄にせずに済みそうだ」
淡々と自らの資産状況を言い当てられ、少年――ルカは驚いたように目を丸くし、やがて肩をすくめた。
「姉さん、人が悪いね。俺はルカだ。で、何を買いたいんだい?」
エマは懐から銀貨を1枚取り出し、親指で弾いた。
銀貨は弧を描き、ルカが片手でパースンと受け止める。
「公式廃棄場から帳簿を通さずに消えた『旧式魔導具』の行方です」
「ああ、あれか。ギルドの小遣い稼ぎだろ?」
「ええ。ですが、私が知りたいのは横領の事実そのものではありません。あの廃棄証明書を書いた『筆跡』です。
……あの書類には、私が探している人間特有の手癖があった。荷の行き先を辿れば、必ずその書類を書いた人間に繋がるはずです」
「さあね。その銀貨1枚じゃ、俺の記憶力は起動しないな。なんせ相手はギルドの役人だ。俺たちにとってもリスクが高い」
ルカが銀貨を指先で弄りながら値上げを要求する。
すると、エマは手帳を開き、無機質な声で告げた。
「では、この銀貨に加えて『事前情報』を付与しましょう。
近々、辺境軍の補給ルートに大規模な監査が入ります。関与している複数の商会の株価は暴落し、一時的に南区の物価が変動するでしょう。……貴方なら、この情報で銀貨100枚以上の利益を出せるはずです」
ルカの目が、楽しげに細められた。
「へえ。ただの真面目な査定員かと思ったら、世界を帳簿のゲームとして見てるんだな。内部情報取引の持ちかけとは、悪党顔負けだ」
2人の歳不相応な、血も涙もない商談を聞いていたヴォルフが、たまらず大きなため息をついた。
「お前らな……路地裏で計算機みたいに喋るんじゃねえよ。聞いてるだけで頭が痛くなってくる」
「図体ばっかで、頭脳労働は苦手かい、お兄さん?」
「黙れクソガキ。お前のその減らず口ごと叩き斬るぞ」
「ヴォルフ。彼の挑発に乗るという項目は、今回の経費に含まれていません。無駄なカロリー消費は控えてください」
「……へいへい」
エマに理詰めでたしなめられ、ヴォルフが引き下がる。
ルカはそれを見て、クスクスと笑い声を漏らした。
「面白いコンビだ。いいよ、取引成立だ。……消えた旧式魔導具は、闇市じゃなく、北の森に拠点を構える『傭兵団』に直接運び込まれてる」
「傭兵団……? 彼らが古い魔導具を何に使うというのですか。兵器として転用するには魔力変換効率が悪すぎるはずですが」
「そこから先は別の経費になるね。気をつけてな、連中、ただの山賊よりずっと装備がいいぜ」
ルカは銀貨をポンチョのポケットに放り込むと、再び屋根の上へと軽やかに跳び上がり、路地の奥へと消えていった。
エマは手帳に『北の森・傭兵団』と書き込み、パタンと閉じた。
ただの小悪党の横領事件が、武装組織を巻き込んだ事案へと姿を変えた。
傭兵団の目的、魔導具の改造費、そしてあの筆跡の主との繋がり。
彼女の脳内で新たな数式と変数が猛烈な勢いで組み上げられていく。
「……魔力回路のバイパス手術……いや、意図的な暴走を誘発させるつもりなら……」
ブツブツと呟きながら歩き出したエマだったが、不意にその歩みがピタリと止まった。
「……どうした。誰かにつけられてるか?」
ヴォルフが油断なく周囲を警戒し、大剣の柄に手をかける。
しかし、振り返ったエマの顔面は、月明かりの下で蝋人形のように真っ白になっていた。
「いえ。……脳のカロリーを急激に消費しすぎました。ヴォルフ、早急に、糖分を要求します」
「は?」
「1歩も動けません。私のバッテリーは今、完全に底を突きました。あと10秒で強制停止します」
「お前、またかよ……!」
先ほどまで冷徹にスラムの長とインサイダー取引をしていた女が、道端で彫像のように固まり、僅かにプルプルと震えている。
ヴォルフは天を仰ぎ、深く、深くため息をついた。
「……ちっ。さっきの広場の手前に、安物の焼き菓子を売ってる屋台があったな。王都のケーキみたいに上品な味じゃねえぞ。油も古いし、甘ったるいだけだ」
「効率よくブドウ糖に変換されれば、形状と味は問いません。……至急、行きましょう」
「お前が動けねえんだろ。ほら、背負ってやるから乗れ」
「……他人に背を預けるのは、ルミナス家の矜持が許しません」
エマは真顔のまま、限界を迎えているはずの腕をどうにか持ち上げ、ヴォルフのロングコートの裾をきゅっと掴んだ。
牽引を要求するその無言の圧力に、ヴォルフは呆れ果てて肩を落とす。
「……勝手にしろ」
凶悪な大剣を背負った大男が、コートの裾を小柄で不健康な査定員に引かれながら、焼き菓子の屋台へと歩き出す。
スラムの淀んだ空気の中で、2人の後ろ姿だけが、ひどく不釣り合いで滑稽な日常を漂わせていた。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【スラム街】
支部の南側に広がる、法の帳簿から漏れた《《負債》》の吹き溜まりです。ここでは正規の通貨よりも「即時性の高い情報」が価値を持ちます。居住者の平均寿命の短さは、栄養不足ではなく、物理的な監査不足によるものです。
【内部情報取引】
未公開の監査情報などを利用して不当に利益を得る行為です。本来は規約違反ですが、今回のような「情報の等価交換」においては、極めて有効な《《チーズ》》(ネズミを動かす餌)として機能します。帳簿には「必要経費」として記載しておきます。
【強制停止】
私の脳が高度な並列演算を行った結果、急激な低血糖により機能停止することです。10秒の猶予があるうちに糖分という名の投資を行わない場合、私はただの「物理的な障害物」へと成り下がります。
【矜持】
没落したとはいえ、ルミナス家としての誇りです。他人の背に負われることは、自らの演算能力の欠欠を認めることと同義であり、たとえ膝が笑っていても受け入れがたい譲歩です。……コートの裾を掴むのは、単なる補助的な接続に過ぎません。




