第95話:最終決算と、泥に塗れた実務労働
すべてを失った人間の顔から、特権という名のメッキが剥がれ落ちる瞬間を、エマ・ルミナスはこれまで幾度となく「業務」として見届けてきた。
適正な計算式によって再構築され、青白く静謐な光で満たされた大議事堂。
その中央に崩れ落ちた元・宰相ギルフォードの顔には、もはや一国の最高権力者としての威厳は欠片も残されていなかった。完全に白髪と化し、落ち窪んだ眼窩の奥で揺れる虚ろな瞳は、自らが二十年という年月をかけて築き上げた絶対的なシステムが、たった一人の少女の手によって完全に解体された事実を、未だに処理できずにいる。
「……エドワードの、娘め……」
ドロドロに溶け固まった大理石の床に這いつくばったまま、ギルフォードは呪詛のように血を吐くような声を絞り出した。周囲にいた貴族たちは、救いの光であるはずの青白い灯火の下で、自らの資産がゼロになった絶望に震え、もはや彼を助けようとする者など一人もいない。
「たかが一人の男の復讐のために、国家の秩序を破壊して満足か……! 私を殺せ! 勝者の権利として、今すぐこの首を刎ねるがいい! 歴史はお前たちを、狂気で国を滅ぼした反逆者として永遠に記録するだろうッ!」
それは、敗北を認めることすらできない老人の、惨めな命乞いにも似た絶叫だった。
華々しい処刑劇の主役として散ることで、せめて己のプライドと悲劇性を後世に残そうとする、権力者特有の醜悪な自己愛。
だが、その歪んだ承認欲求を、エマは極めて冷淡な、一切の温度を持たない声で両断した。
「復讐。……ずいぶんと情緒的な言葉を使いますね。貴方の頭脳は、その程度の非論理的な概念でしか物事を測れないのですか」
「な、に……?」
エマは真鍮の万年筆を指先で弄りながら、銀縁眼鏡の奥の灰青色の瞳で、ただの不要な書類を見下ろすようにギルフォードを見据えた。
「勘違いしないでいただきたい。私は怒りや憎しみといった、不確定な感情で貴方を監査したわけではありません。六年前、当時の首席計数官であった私の父が指摘し、貴方が無理やりもみ消した『帳簿の致命的な不備』。……私はただ、放置されていたその狂った数字を、適正な値へと《《修正》》しただけです」
「バグだと……? ふざけるなッ! 私のシステムこそが、この国を大国たらしめていたのだ!」
ギルフォードが床を叩き、激昂する。その瞳には、今なお自らを正義と信じて疑わない狂信的な光が宿っていた。
「この国は魔力石を産出できない! まともに帝国から輸入し続ければ、国庫は数年で破綻していたはずだ! だから私は、国民の命を『無料の燃料』として代用し、浮いた莫大な予算で王都を飾ったのだ! 帝国に舐められず、国を豊かに見せるためには、見栄えの良い数字が必要だった! 私は、私腹など一ゴールドたりとも肥やしていない! すべては国のため、この国の誇りを守るための粉飾だったのだぞ!」
「ええ、知っています。貴方の個人資産を精査しましたが、驚くほど質素なものでした。美食に耽ることもなく、ただひたすらに数字の辻褄を合わせることだけに人生を捧げてきた。……その点だけは、事務方として一定の評価をしましょう」
国を想う悲痛な叫びを、エマはあっさりと、無感動に肯定した。
「ですが。それはただの《《粉飾決算》》です」
「……何だと?」
「自国民の命という『帳簿外の莫大な負債』を隠蔽し、実体のない利益を計上して、外に向かって国を大きく見せていたに過ぎない。他人の命を費用として使い潰し、見せかけの繁栄を維持する。……そんなものは経営とは呼びません。ただの自転車操業です。それに気づいた私の父を、貴方は防衛機制として物理的に排除した」
エマの言葉は、氷の刃のようにギルフォードの歪んだ正義を切り刻んでいく。
彼女にとってこの戦いは、父の無念を晴らすための英雄譚などではない。ただ「計算が合わないから、合うように直した」という、恐ろしいほど純粋で徹底した『実務』に過ぎないのだ。
「そして、死による逃亡など認めません。貴方の命を一つ絶ったところで、一ゴールドの価値も生み出さないからです。……貴方には、これから一生涯をかけて、この国に負わせた莫大な負債を《《労働》》で返済していただきます」
「ろ、労働……? この私に、平民どものような真似をしろと言うのか!」
エマは手元の分厚い決算書をパラリと捲った。
「貴方が見栄を張るためにケチっていた『魔力石の輸入コスト』は、先ほど貴族たちから全額没収した隠匿資産によって、すでに数十年分の最高純度の燃料として適正に買い付けられました。……しかし、ここで一つ、実務的な問題が発生しました」
エマは万年筆の尻で、大議事堂の床――はるか地下にある新魔導炉の方角をコツンと叩いた。
「魔法による自動化という非効率なシステムを廃止したため、輸入された大量の魔力石を、地下三層のボイラー室まで手作業で運び、燃え盛る炉の奥底へ絶え間なく焚べ続けるための『純粋な肉体労働者』が決定的に不足しているのです」
「……あ」
ギルフォードの顔から、一瞬にしてすべての表情が抜け落ちた。自身の犯した罪の報いが、魔法のような不確かな奇跡ではなく、「重い石を運ぶ」というあまりにも卑近で過酷な現実となって突きつけられたからだ。
「貴方が粉飾の代償として二十年間ですり潰してきた数万の命。その重さを、これからは貴方自身が、泥と汗に塗れながら物理的な質量として運び続けるのです。休日も、特権も、逃げ場もありません。国を豊かにしたいという貴方の願い通り、死ぬまで国家のインフラを下支えしていただきます。……これが、粉飾決済を行った経営者に課せられる、最も真っ当な減損処理です」
「ひっ……! い、嫌だ! そんな泥水のような生活、私に耐えられるはずが……!」
かつて涼しい顔で他人の寿命を書類上の数字として消費していた男が、初めて己に降りかかる「実務」の重圧に恐怖し、無様に後退りをする。
逃げようとするその背後を、巨大な黒い影が完全に塞いだ。
「――査定員殿の言葉が聞こえなかったのか」
漆黒のロングレザーコートを纏った長身の男、ヴォルフ。
彼は大剣の柄に腕を乗せ、見下ろすような姿勢で、琥珀色の瞳に獰猛な光を宿していた。
「お前はもう権力者じゃねえ。ただの『負債者』だ。……安心しろ、労働の途中で死にたくなっても、絶対に死なせねえよ。骨が粉になるまで、その命を王国のインフラとして使い潰してやる」
それは、正義の騎士による断罪でもなければ、ギルドの番犬による威嚇でもない。
エマ・ルミナスという少女が下した冷酷な計算式を、現実の世界に物理的に固定化するための、絶対的な《《共犯者》》としての凄みであった。
エマが数字で相手の退路を断ち、ヴォルフがその逃亡を物理的に許さない。二人が並び立った時点で、ギルフォードの運命は一ゴールドの狂いもなく確定していた。
「連れて行きなさい。……これより彼を、地下炉の専属燃料供給係に任命します」
エマの冷徹な指示に従い、議場の入り口で待機していた傭兵たちが無言で進み出る。彼らは抵抗する気力すら失い、絶望に白目を剥く元・宰相の両脇を掴むと、荷物を運ぶような乱暴な手つきで、地下の暗所へと引きずっていった。
王国の闇を支配していた男の最期は、華々しい断頭台でも歴史的な裁判でもなく、ただの「人員配置の変更」という極めて事務的な処理によって幕を閉じた。
「……終わりましたね」
静まり返った議場で、エマは手に持っていた決算書の最終ページに、赤いインクで大きく『清算完了』のスタンプを押し込んだ。
「ああ。これでお前の帳簿を狂わせていた最大の不純物は、すべてゴミ箱行きだ」
背後の共犯者が、低い声で労うように言う。
エマは小さく頷くと、真鍮の万年筆を胸元に仕舞い込み、青白い正当な光に包まれた王宮を静かに背にした。
王国の最も腐敗した負債は、たった今、一人の査定員と漆黒の剣士によって完全に処理されたのである。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【虚飾の粉飾決算】
元・宰相ギルフォードの行動原理です。彼は私利私欲のためではなく、「国を豊かに見せる(帝国への牽制)」という目的のために、国民の命を帳簿に載らない負債として使い潰していました。しかし、どれほど国を想う大義名分があろうと、粉飾は粉飾です。数字のバグは修正されなければなりません。
【輸入魔力石の物理的運搬】
彼に課せられた一生涯にわたる実務制裁です。国を支えるために他人の命を数字として消費してきた男にとって、己の肉体を削って泥臭く国家のインフラ(魔力石の運搬)を下支えし続けることこそが、これ以上なく論理的で相応しい末路と言えます。
【防衛機制によるバグの修正】
私の行動原理のすべてです。私は父の復讐という情緒的な理由で動いているわけではありません。六年間放置されていた国家予算の致命的な不備を、査定員として適正な状態に修正しただけです。感情は、計算の邪魔になるだけのノイズに過ぎません。




