第0話:優しい計数官の願いと、曲解された死神
この世界には、2種類の人間がいる。
剣を振るう者と、祈りを捧げる者だ。
「……いいえ。世界を支えているのは『数える者』だよ、エマ」
王国の首席計数官であった父は、いつも優しく笑う人だった。
国家の予算を監視する独立監査のトップであり、由緒正しきルミナス侯爵家の当主。
当時のエマは、計算よりも甘い焼き菓子を好む、年相応に子供っぽい令嬢だった。
父の書斎に忍び込んでは、街のパンの値段や、孤児院に配られる毛布の数を数える父の背中を、ただ誇らしく眺めているだけの、普通の女の子だったのだ。
だが、その誠実さが、彼を殺した。
6年前。
王国の「勇者」と「神殿」が引き起こしている、おぞましい命の隠し負債に気づいてしまった父は、それを告発しようとして、ルミナス侯爵家ごと一夜にして強制決済された。
燃え盛る屋敷の書庫。
崩れ落ちる梁の下で、血を流す父は、泣きじゃくる12歳の娘に1本の「真鍮の万年筆」を託した。
『エマ……。人は嘘をつくが、数字は決して嘘をつかない。……正しい帳簿は、いつか必ず誰かの明日を救う盾になる』
『父様……っ、嫌、いやだ……!』
『泣かないでおくれ。……お前は、この万年筆で、どうか正しく数えられる……優しい大人に……』
それが、優しかった父の最後の言葉だった。
普通なら、ここで愛と正義に目覚めるか、剣を取って復讐の鬼と化すだろう。
だが、パニックに陥った12歳のエマの脳は、あまりにも巨大な悲しみから精神を守るため、極端な防衛機制を発動させてしまった。
(――なるほど。つまり、この世界にはびこる不正な数字を、すべて計算式に基づいて《《物理的に排除》》すれば、父様の言っていた『正しい世界』になるのですね)
かくして、子供だったエマの感情は凍結され、父の「優しい願い」は彼女の脳内で致命的な曲解を起こした。
* * *
それから、彼女は「人間」であることを半分ほど返上した。
食事は脳への「糖分補給」であり、睡眠はプロセッサの「強制冷却」。
没落令嬢は、王立保険ギルドの最底辺からペン1本で這い上がり、今や書類の山に埋もれる「辺境の死神」となった。
「……お嬢様。またエクレアを食いながら徹夜で帳簿を睨んでんのか。少しは休めよ」
「ヴォルフ。私の機能を停止させるメリットを数字で提示してください。できないなら、黙って次のエクレアを私の口に納品しなさい」
呆れたようにため息をつく大男は、エマが拾い上げた最強の不良債権、ヴォルフだ。
彼女の目的は、血生臭い暗殺ではない。
数字による完全な「《《社会的抹殺》》」である。
各地の街で横行する悪徳商人や、私腹を肥やす腐敗した領主たち。
エマは赴く先々で、彼らの隠蔽を帳簿という名の真実で次々と暴き、計算式の刃で完膚なきまでに追い詰めていく。
その地道な実地監査のすべては、たった一つの目的のため。
国家最大の不良資産である「勇者」を、逃げ場のない破産へと追い込むという、巨大な清算の積み重ねなのだ。
「お前さ、親父さんの『正しく数えろ』って遺言、絶対そういう意味じゃなかったと思うぜ?」
「心外ですね。私は父様の教え通り、1ゴールドの誤差もなく世界を数え直し、不良資産を全損処理しているだけです」
エマの銀縁眼鏡の奥で、青白い数式が走り、世界がワイヤーフレームのデータへと解体される。
英雄の武勲は、本当にその「命」に見合う配当を出しているのか?
救世主という名のバブルは、一体誰の血を証拠金に積み上げられているのか?
怒りに任せて剣は振るわない。ただ、冷徹な計算式で追い詰めるだけだ。
これは、亡き父の優しい願いを「完全に履き違えた」1人の査定員が、奇跡という名の粉飾に塗れた世界を容赦なく強制清算していく、痛快な業務記録。
「……さあ、清算を始めましょう。1ゴールドの誤差も……私は、決して見逃しませんから」
■査定員エマの業務日誌:プロローグ用語解説
【強制決済】
損失が拡大し続ける前に、取引を強制的に終了させること。エマにとって「悪人」とは「社会に損害を与え続ける不良債権」であり、彼らを計算式を用いて市場から退場(破産)させることが彼女なりの「人助け」です。
【追加融資】
ヴォルフがエマの口にエクレアなどの甘味をねじ込む行為の総称。エマの知性は異常なカロリーを消費するため、物理的な燃料補給が不可欠です。
【実地監査】
現場に直接赴き、不正の証拠を自らの足と目で収集する業務のこと。エマはこの業務を通じて、地方の小悪党から王都の大悪党まで、世界の不備を一つずつ確実に潰していきます。




