第6話:ランドセルと取締役会
1994年。 世間では『Jリーグ』が熱狂を巻き起こし、野茂英雄がメジャーリーグへ渡る準備を始めていた頃。 俺こと藤城蓮は、人生二度目の「小学校入学」という苦行に直面していた。
「蓮くん、これ、お友達と半分こして遊ぶのよ?」 「……分かっているよ、母さん。分配の重要性は理解している」
母・恵美子が持たせてくれたキャラクターものの弁当箱を抱え、俺は区立小学校の門をくぐった。 周囲には、新品のランドセルを背負って無邪気に騒ぐ子供たち。 だが、俺のランドセルの中に入っているのは、教科書ではない。九条舞が開発した、世界最先端の超小型携帯端末と、冴島財閥の再建計画書だ。
(退屈だ。あまりにも退屈すぎる……)
教室の隅に座り、俺は「あいうえお」を復唱する教師の声をBGMに、端末の画面を凝視していた。 現在の俺の総資産は、フューチャー・ゲート社の含み益を含め、実質的に3000億円を超えている。 3歳で冴島財閥を救った「謎の幼子」の噂は財界の最上層部で都市伝説化しており、今や俺の元には、時の首相ですら「意見を伺いたい」と極秘の接触を試みてくる始末だ。
「ちょっと、そこの君。さっきから何を見てるの?」
声をかけてきたのは、クラスの担任である若い女教師だった。 彼女は俺の手元にある「得体の知れない機械」を没収しようと手を伸ばす。
「学校に玩具を持ってきちゃダメでしょ。先生が預かります」 「これは玩具ではない。……今の日本で、この端末一台がどれだけの雇用を生み出し、どれだけの国益を左右するか、君には想像もつかないだろうね」
俺は冷めた瞳で教師を見上げた。
「……はぁ? 何を言って――」 「君の給料を払っている地方自治体の税収が、今年度どれだけ落ち込むか知っているか? 震災の予兆、景気の更なる後退。……先生、君が来月もその教壇に立っていられる保証は、どこにもないんだよ」
3,500文字の「論破」の序曲。 俺は、彼女が持っていた出席簿を指差した。
「その出席簿にある子供たちの親、そのうち3割は僕が実質的に経営する関連会社の従業員だ。僕が『NO』と言えば、この地域の経済は明日にも止まる。……さて、それでも僕の私物を没収するかい?」
教師の顔から血の気が引いていく。 子供の言葉ではない。それは、数万人の運命を握る「支配者」の重圧だった。
放課後。 校門の前に、一台の黒塗りのセンチュリーが停まっていた。 中から出てきたのは、中学生になり、一層凛々しさを増した冴島凛だ。
「蓮、お迎えに来たわよ。今日の取締役会、あなたがいないと始まらないってパパが泣きついているわ」 「ふん、相変わらず情けないな。……凛、舞の様子はどうだ?」
俺はランドセルを凛に預け、当然のように後部座席に乗り込んだ。
「舞さんは六本木のラボに引きこもりきりよ。あなたが指示した『ウィンドウズに対抗する純国産OS』のα版が完成したそうよ。名前は……『REN-OS』にするって張り切ってたわ」
「そうか。ビル・ゲイツに挨拶状を送っておく必要があるな。……『日本市場は、僕が買い取った』とね」
車が滑り出す。 小学校という「日常」を背後に、俺は再び夜の財界という「戦場」へと向かう。
その日の夜、フューチャー・ゲート本社の会議室。 並み居る老経営者たちの中心に、ランドセルを置いた俺が座った。 「さて、諸君。失われた10年を終わらせる準備はできているか?」
小学生の支配者による、第二次バブルへの布石。 それは、既存の権威をすべて破壊し、新たな「日本の王」を戴冠させるための儀式でもあった。




