第1話:バブルの熱狂と、オムツの中の天才
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」
……うるさい。誰だ、耳元でこんなに騒いでいるのは。 意識が暗闇から引きずり出された瞬間、俺を襲ったのは猛烈な空腹感と、脳を揺らすような高い鳴き声だった。
――待て。俺は死んだはずだ。 2025年、冬。 かつて「投資のプロ」を気取っていた俺は、新NISAだの暗号通貨だのと騒がれる波に乗り遅れ、最後は怪しい未公開株の詐欺に引っかかって全財産を失った。 ワンルームマンションの冷たい床の上、カップ麺の空き容器に囲まれて孤独死した――その記憶は鮮明にある。
だというのに、なんだこの感覚は。 視界がぼやけてよく見えないが、天井はやけに高く、空気は妙に埃っぽい。 そして、自分の体。動かそうとしても、思うように力が入らない。重たい。いや、重いのではなく――短すぎるのだ。
(まさか、転生……それも、過去にか?)
必死に焦点を合わせる。 視界に入ってきたのは、壁に貼られたカレンダーだった。 そこには、筆ペンで力強くこう書かれていた。
【1988年(昭和63年) 11月吉日】
(1988年……!?)
思考が真っ白になった。 1988年といえば、日本中が狂乱の渦の中にいた「バブル絶頂期」ではないか。 日経平均株価が3万円を超え、誰もが「明日はもっと金持ちになれる」と信じて疑わなかった、愚かで、輝かしい時代。
「おっ、蓮。起きたか? パパと遊ぼうなー!」
視界に、だらしない笑みを浮かべた若い男の顔が入り込んできた。 俺の父・藤城健一だ。 記憶の中の親父は、バブル崩壊後に多額の借金を背負い、酒に溺れて消えた情けない男だったが……今のこいつは、安物のネクタイを緩め、いかにも「浮かれたサラリーマン」という顔をしている。
「よしよし、今日もパパは残業代とボーナスで稼いできちゃうぞ。蓮のために、将来はでっかい家を建ててやるからな!」
健一が手に持っているのは、競馬新聞と赤ペンだった。 どうやら、会社からの帰り道に馬券を買い込むのが日課らしい。 2025年の俺なら、鼻で笑っていただろう。「そんなギャンブルで家が建つか」と。
だが、今の俺は、赤ん坊の姿をした「未来を知る投資家」だ。 1988年11月。この時期に何が起きたか、俺の脳内データベースが瞬時に回答を叩き出す。
(1988年の年末……有馬記念か)
競馬の歴史に詳しくない奴でも知っている、伝説のレース。 昭和最後の有馬記念。 人気が集中していたのは、圧倒的な実力を持つ「タマモクロス」。 だが、勝利を掴み取るのは、怪我から復帰したばかりで「もう終わった」と言われていた、あの芦毛の怪物――オグリキャップだ。
(親父の給料袋をそのまま突っ込めば、1000万円単位の金になる……!)
俺の心臓が高鳴った。 今の藤城家は、都内の古ぼけたアパート住まいだ。 バブルの恩恵を受けているとはいえ、庶民の生活はまだ慎ましい。 だが、ここで「最初の種銭」を作れば、その後の投資効率は跳ね上がる。
「あー、うー!」
俺は必死に声を上げ、ぷにぷにとした短い手を伸ばした。 狙いは、健一が持っている競馬新聞だ。
「おっ、どうした蓮? お前も新聞が気になるのか? 将来はパパ似のギャンブラーかな、ハハハ!」
健一が冗談めかして新聞を近づけてくる。 今だ。 俺は奪い取るように赤ペンを掴み(実際には握りしめるのが精一杯だったが)、新聞の出走表に向かって、渾身の力で「点」を打った。
【オグリキャップ】
その文字の真上に、ぐにゃりと赤い線が引かれた。
「お……? オグリか? 蓮、お前……復活にかけるっていうのか。渋いところを突くなぁ」
健一は目を丸くした。 オグリキャップはこの時、直近のレースで大敗しており、世間的には「終わった馬」扱いだったのだ。
「いいだろう。蓮の初めての予想だ。パパ、これにボーナスの半分を突っ込んじゃうぞ!」
(半分じゃ足りない、全部だ! 全部突っ込め、無能な親父!)
俺は心の中で毒づきながら、必死に「あー! あー!」と叫んで、さらに他の馬――2着に入る「タマモクロス」の枠にも線を引こうと暴れた。
「わかった、わかった! 蓮、そんなに暴れるな。よし、パパ信じちゃうぞ。オグリとタマモの馬連、一点勝負だ!」
よし、言質は取った。 この1988年において、オグリキャップの復活劇を確信している赤ん坊など、世界に俺一人しかいない。
一週間後。 我が家のボロアパートは、文字通り「お祭り騒ぎ」になった。
「当たった……当たったぞおおお! 蓮! お前は神様か! 宝くじだ、いや、それ以上だ!」
帰宅した健一が、見たこともないような札束の山を畳の上にぶちまけた。 当時の貨幣価値でいえば、家が一軒買えるような金額ではないが、庶民が一生拝めないような大金がそこにあった。
母の恵美子も腰を抜かして震えている。 その傍らで、俺は静かに笑った。 オムツの中に不快感を覚えながら、心の中では狂喜乱舞していた。
(まずは第一段階完了だ。この金を使って、親父に『ある株』を買わせる……)
1989年。日経平均株価は史上最高値の3万8915円に向かって突き進む。 そしてその直後、バブルは崩壊する。 だが、崩壊するその瞬間に「空売り」を仕掛ければどうなるか? あるいは、暴落したあとの焼け野原で、後の世界を支配する「GAFA」や「ソフトバンク」の株を底値で買い占めたら?
想像するだけで、アドレナリンが止まらない。 2025年、俺をゴミのように切り捨てたあの残酷な経済社会。 今度は俺が、そのルールを根底から書き換えてやる。
(待ってろ、日本。待ってろ、世界。……俺が、すべてを買い取ってやる)
俺は、父が握らせてくれた一万円札を、小さな手でぎゅっと握りしめた。 史上最強の神童。 その伝説の第1ページは、競馬新聞の落書きから始まったのである。




