機動部隊は奮闘する
機動部隊は奮闘する
1942年8月頃、オーストラリア東部方面ではFS作戦が進行中だった。
フィジー・ニューカレドニア・サモアを押さえ、米豪遮断を完成させようとしていた。
機動部隊が異世界から持ち帰った艦艇は全て戦力化され、これら戦場で活かされるようになっていた。
しかし、異世界帰りの機動部隊と違い、空母に満載されていた二式艦上戦闘機や二式艦上攻撃機は、米機動部隊等との戦いで相応に損傷し数を減らしていっていた。
二式艦戦や二式艦攻は、やはり他の日本海軍航空機と同様、防弾が一切考慮されておらず、被弾すれば簡単に炎上していた。
機体性能は、零式艦上戦闘機や九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機よりも高かったが、損傷すれば同じであった。
搭乗員達は防弾の強化を求め、海軍もそれを受け入れ改良型が製造され始め、後継機は防弾が十分に考慮されたものが開発されていた。
後継機は、艦上戦闘機烈風、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲であり、いずれも2200馬力のハ43エンジンを搭載し、防弾が考慮された機体になる予定だった。
ちなみに新型機の試作機には、異世界人達が試験飛行士となり飛行試験を行っていた。
技量が高く、飛行中に問題が発生しても必ず脱出し、浮遊魔法で着地を行うため怪我もしない事が分かり、無茶と思える飛行試験もどんどん行われていった。
イギリス東洋艦隊が壊滅し、スエズ運河が枢軸の手に落ち、マルタ島が陥落し、ジブラルタルも失陥した事でイギリスでは政変が起きていた。
その影響も加わりオーストラリアとの講和も見えてきていた。
機動部隊は大西洋に入り、通商破壊を開始した。
直接、米東海岸を攻撃する意見もあったが、まずはイギリスを締め上げるところから開始した。
異世界帰りの機動部隊であれば、米東海岸に攻撃を加える事は可能と考えられていた。魔法により米航空戦力を削っていき、米艦隊を釣り出し仕留め、米本土への空襲を繰り返し、抵抗が弱まった段階で陸戦隊が上陸するという意見だった。
しかし、陸戦隊は米本土では寡兵となるため逆に長引く可能性があり、軍需工場等を破壊して回っても早期講和に繋がるかは不透明だった。
それよりはイギリス連邦を先に戦争から離脱させた方が、確実にアメリカ国民の厭戦気分は高まると考え、機動部隊は大西洋での通商破壊に踏み切ったのだった。
いずれにしろ建前は、あくまで任務である日独の通商路の安定化であった。
9月。イギリス連邦は枢軸と講和し、戦争から離脱した。
後はアメリカと講和できれば、支那事変も解決できるだろうと考えられた。
軍令部から正式に米本土への攻撃許可も下り、機動部隊は米東海岸に二式艦上偵察機を飛ばし挑発を開始した。
二式艦偵に追いつく迎撃機は多数あったが、障壁で防御しつつ魔法で撃墜していった。
米東海岸から米爆撃機の大編隊が機動部隊に殺到し、二式艦上戦闘機と二式艦上攻撃機が魔法で迎え撃ち、悉く撃ち落していった。
機動部隊はさらに東海岸へ接近し、米航空機を削っていった。
機動部隊は燃料の補給を受けつつ、魔法による航空戦を行い続けていった。
米航空戦力が低下し、残存する米艦隊が決戦に出てくる頃、米西海岸に対する連合艦隊による攻撃が開始された。
西海岸に対する砲爆撃が加えられ、飛行場や軍事施設、港湾などを破壊していった。
機動部隊も米艦隊を迎え撃とうとしていたのだが、独伊の艦隊が合流し共同作戦をとることとなった。
独伊の艦隊が米艦隊との艦隊決戦を望み、機動部隊はこれを受け入れ、金剛型戦艦2隻と利根型重巡洋艦2隻が参加した。
機動部隊は、米空母を始めとする航空戦力や護衛の水雷戦隊を排除していき、枢軸艦隊と米戦艦部隊の艦隊決戦をお膳立てしていった。
枢軸艦隊は寄せ集めの艦隊であり、艦隊運動などは望むべくもないため、イタリア艦隊が中核となり、日独の艦隊は遊撃となった。
結果はイタリア艦隊が奮戦し、激しい砲雷撃戦の末に勝利を収めることになった。
今までのイタリアはなんだったのかと言いたくなる様な勇猛な戦いぶりであった。
米艦隊が壊滅した事で、機動部隊は心置きなく米東海岸に対する空襲を開始した。
飛行場や軍事施設、工場などへ爆弾と魔法で攻撃を加えていき、抵抗が弱まった段階で日独伊の戦艦による艦砲射撃も行われた。
機動部隊は陸戦隊を編成し、米本土への上陸に踏み切ろうとした段階で、枢軸国とアメリカの間で停戦が成立したのだった。
1942年12月。アメリカと枢軸国の間で講和が成立した。
続いて日本と中国国民政府との講和も成立し、日本は長らく続いた支那事変を終わらせる事ができたのであった。
機動部隊が日本へ帰還すると、英雄の凱旋とばかりに多くの国民に歓呼の声で迎えられるのだった。
■
異世界帰りの者達は、あまりに強力な個の力を持っていた。
戦争が終わり、この好戦的な者達の扱いに日本政府は苦慮することになった。
機動部隊の者達は皆英雄であり、司令長官にいたっては軍神と称えられていた。
軍は彼らの昇進を決め、社会的地位も与えていった。
同様に異世界人達も海軍の所属とし、異世界帰りの者達と同じ部署に配属となった。
その部隊は、有事の際には海外派兵も行う、即応機動部隊であった。
即応機動部隊は、災害時の救助・救援活動で大活躍をしていった。
海外の災害発生時にも、日本政府から当事国へ派遣を申し入れ、応じられたら派遣を行っていた。
戦地に投入された時などは、その人外の力で大暴れするため、各国からは畏怖されていた。
彼らが異世界帰りである事は戦後公表されており、ある種の抑止力となっていた。
戦後30年程も経てば彼らの肉体も老化し、引退する者も増えてきた。
即応機動部隊は、いつしか国際救助・救援隊とも言うべき物に変容し、世界中の人々から尊敬の目で見られるようになっていた。
引退した彼らは、肉体は衰えたとはいえ力は常人を超えており、その力を活かした社会貢献を行い続けていた。
即応機動部隊は新たな人員を加え、主に災害時の救助・救援活動で活躍していった。
2025年現在、即応機動部隊の異世界帰りの乗員は全て引退していたが、災害発生時の救助・救援活動は今なお主な任務となっており、世界中で奮闘し続けているのであった。
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