07 終演
「それで、クロエの兄が連行されたという話を聞いて、きみは飛んで帰ってきたというわけか」
エンシオの言葉に、庭師のマーティンがうなずく。
「まさかこんなことになっているとは俺も思いませんでした。協会員が次々に逮捕されているという新聞記事は見ましたが、ミカエル様にまで影響が及んでいるとは……」
応接間のソファーには、この家の者ではないエンシオとマーティンのふたりだけが向かい合って座っている。
紅茶を出す人も、いつもは調子よく横から揶揄してくる人物もいない。
「ところで、エンシオさん、お嬢様はどちらへ? この家の人間がいなくて、俺たちふたりだけというのもおかしな話でしょう」
「クロエは上の寝室にいる」
「どうしてです?」
「その……彼女はまだ体力的に回復していないだろうから」
「回復……」
その言葉の意味を、マーティンははかりかねているようだった。
ヴァンパイアとしての体力の話か、それともふたりの間に何かあったのか、聞きたくても聞けず逡巡している様子だ。
エンシオはなんとなくばつが悪く、咳払いをして言った。
「まあ、その、彼女は疲れているだろうから、すこし寝かせておいて──」
そう言い終えかけたとき、不意に応接間のドアが開いた。
「クロエ」
ドアの隙間から中をうかがって、クロエがおずおずと入ってきた。
「もう動いて平気なのか?」
クロエはこくりとうなずいたが、うつむいて誰とも目を合わせようとしない。
「あの……エンシオ、私、お腹がすいて……喉がかわいて……」
「ああ、そうか、わかった。庭師のきみ、悪いがすこし待っていてくれ」
「はい」
エンシオはクロエの肩を抱いて廊下に出ると、さっと彼女を両腕で抱き上げた。
「ひゃっ!」
驚いた彼女がしがみついてくる。
「落としたりしないから大丈夫だ」
クロエは頬を染めて、目を伏せた。
「さて、ちょうどいいから紅茶でも淹れようか」
キッチンに着いてクロエを降ろすと、彼女は台のそばの椅子に座ってうつむいた。
その隣にエンシオも腰を下ろす。
「本当に大丈夫か、クロエ? 顔が真っ赤だぞ」
頬に触れると、クロエが小さく息を呑む。
その顔を見てエンシオはようやく気が付いた。
彼女は、照れているのだ。
「な、なに笑ってるんです? ──っあ」
エンシオは怯える彼女の頬に軽く口付けると、そのまま唇をふさいだ。
「……っん……」
震える唇を食んで、柔らかい皮膚を舌先で舐める。
唇を離すと、クロエは頬を火照らせて睨み上げてきた。
「本当に愛らしいな、あなたは」
細い小さな体を、そうっと抱き寄せる。
腕の中の彼女を見下ろすと、エンシオの胸に頬を寄せてほほえんでいた。
「クロエ……」
彼は胸が詰まり、ただ優しく抱きしめるしかできなかった。
「そうだ、腹が減ったと言っていたな。何か作ってやろうか?」
「ううん、いいの……それより……」
クロエが気恥ずかしそうに上目遣いで見てくる。
「そうか……わかった」
エンシオは首元のスカーフをゆるめて、クロエを膝に抱き上げた。
「首から吸ってもいいの?」
「もちろんだ。いくらでも吸うといい」
クロエは頬を赤らめたまま、彼の首にそっと唇を寄せた。
彼女の温かい吐息を首筋に感じ、エンシオは目を閉じた。
この瞬間だけは慣れることができない。
柔らかい唇の感触と同時に、鋭いふたつの牙がぶすりと埋め込まれる。
彼のワイシャツの腕を握って、クロエがすうすうと血を吸っている。
血液を持っていかれるのを感じながら瞼を上げる。
はじめは痛いとしか感じなかったのに、いつからか別の感覚をおぼえている自分に気が付いた。
彼女に咬まれているその場所から、全身に甘い痺れが走っている。
「──っ」
息がもれそうになるのをこらえ、エンシオはクロエの腰を抱いて、奥歯を噛みしめた。
そのとき、ふとドアの隙間からこちらを覗いている瞳と目が合った。
いつのまにか応接間から出たらしいマーティンが、驚きの表情で見つめている。
気付かずに血をすするクロエを抱きしめて、エンシオは彼に視線をやる。
マーティンは一瞬立ち尽くしていたが、すぐに気を取り直した様子で音も立てずに踵を返した。
(目の色を見ればわかる……。彼は、俺と同じ感情でクロエを見ている。)
嫉妬に似たものを胸に感じて、彼女の腰から下へと手をすべらせる。
太腿から膝までをすっとなぞると、クロエが牙を抜いて文句を言ってきた。
「……っな、なにを、してるんですかっ、エンシオ……」
「なにって、血をくれてやっているんだから、これくらいいいだろう」
「もうっ」
唇に付いている血のしずくを指で拭い去ってやると、彼女は小さく身を震わせた。
「かわいいな。一日中こうして抱きしめていたくなる」
「もう、だめよ……マーティンを待たせているわ」
「すこしくらい待たせておけばいいだろう」
「だめよ。マーティンにはお兄様を助けるために色々手伝ってもらわないといけないし……」
他の人物の名前を口に出されるとだんだん苛立ってくる。
「わかったよ。じゃあ、俺が茶を淹れて持っていくから、あなたは先に応接間に戻ってくれ」
クロエを膝から下ろして立ち上がる。
「あなた、何がどこにあるのかわからないでしょう?」
「適当に探せば見つかりますよ」
「なによ、その言い方……」
クロエがふんと鼻を鳴らして背を向ける。
その小さな背中を見下ろして、エンシオはため息を吐いた。
彼女のこととなると、自分はどうして大人げなくなるのだろう。
「そうすねるな、クロエ」
背中から抱きしめると、彼女はおとなしくじっとしていた。
◇
クロエが銀のトレイに菓子をのせて応接間に戻ると、マーティンの姿が消えていた。
「あら? お手洗いかしら」
「テーブルの上に何か置いてあるな」
うしろからティーセットを持って入ってきたエンシオが言った。
テーブルに置いてある紙切れを取って見てみると、マーティンの書き置きだった。
「マーティンったら、すぐに発って、お兄様のことを調べてきてくれるんですって……そんなに大急ぎで出ていかなくてもいいのに」
クロエは不満を露わにして言いながら、なぜかエンシオが勝ち誇ったような顔をしているのを怪訝に思う。
「なによ、エンシオ」
彼がほほえんでクロエに歩み寄る。
「また夜まであなたとふたりきりか。あとで湯を沸かしてやるから、体を洗ってやろうか。だいぶ疲れているだろう」
「け、結構よ」
クロエがどぎまぎして後ずさる。
「あの、私、悪いけど、今日はもう休みたいの……」
「つれないな。仕方ない。今夜は別々の部屋で寝るか」
「あ、当たり前でしょっ!」
◇◇◇
翌朝、クロエが起きてきたころには、もうエンシオは応接間で煙草を吸いながら朝刊を読んでいた。
「おはよう、クロエ」
くゆる煙の向こうの笑顔を見て、クロエの胸がどき、と鳴る。
「いい知らせがあるぞ」
「え?」
エンシオがよこしてきた新聞を受け取って、紙面に目を落とす。
すぐに一面の記事に視線が吸い寄せられた。
「“取調べを受けていた元協会員、全員解放”──これって!」
クロエが目を輝かせて顔を上げると、エンシオがほっとした声音で言った。
「あなたのお兄さんも自由になるはずだ」
「あぁ……よかった、よかったわ……」
新聞をくしゃくしゃに抱きこんで、力が抜けたようにその場にしゃがみこむクロエのそばにエンシオが寄った。
「──お兄様、いつ家に帰ってくるかしら」
「そんなに心配しなくても、きっとすぐに帰ってくる」
庭に面したティールームにいるクロエへ紅茶を運び、エンシオが笑う。
「お兄様も執事のフレディも、じきにまたみんな戻ってきてくれるのね」
そう言うクロエの瞳は潤んでいて、彼女とふたりきりの生活をもうすこし続けてみたいと思っていたエンシオは複雑な気持ちになった。
しかし、家族の帰還を喜ぶ彼女の気持ちに水を差すわけにはいかない。
優しい口調を努めてエンシオは言った。
「だが、クロエ。あなたは俺の妻になるんだ。いずれはここでなく俺の屋敷があなたの家になるんだからな。わかっておいてくれ」
「そ……そうだったわね」
言われてはじめてピンときたのか、クロエが目を瞬かせている。
「あなたのお兄さんが帰ってきたら、結婚のことを伝えよう」
「ええ、そうね」
「もうあなたは俺のものだし、俺もあなたのものだ。……この意味がわかるな?」
正面から手を伸ばしてクロエの頬をなぞり、その唇の端に指をすべらせる。
急に真剣な表情を見せるエンシオにどきどきして、クロエは顔を赤くした。
「わ、わかってるわよ……」
潤んだ瞳をそらす彼女に、エンシオがフッと笑いかける。
「かわいい反応だ。写真に残しておきたいくらいに」
「……エンシオ、写真なんて撮るの?」
おずおずと視線を上げて、彼女が聞く。
「ああ。一時期写真にこっていた時期があってな。写真機の発明が進んでいるというドイツから、最新の写真機まで取り寄せたくらいだ。今はほとんど家で眠っているが」
「ええっ、見てみたいわ! しまったままじゃもったいないじゃない」
目の前の男の意外な趣味に、クロエが食いついてくる。
「じゃあ、これから俺の家に行くか? 写真機なんていくらでも触らせてやるぞ」
◇◇◇
いつ戻るかわからない兄の帰りを待つべきだろうかと躊躇うクロエを説得して、エンシオは彼女を自宅へと連れ帰った。
エンシオの屋敷に着き、大勢の使用人たちに出迎えられても彼女はどこか上の空で、まだ兄のことを考えているようだった。
しかし、ぼんやりしていたクロエも、書斎の奥にある写真機を見ると、一気に瞳を輝かせて歓声をあげた。
「すごいわ! 写真館にあるのより立派だわ」
ドイツ製のそれをぐるりと回って観察している。
「一枚撮ってみるか?」
「……いいえ、今はいいわ。こういうのは、大事なときに撮るものよ」
「たとえば、俺たちの結婚式のときとか?」
“結婚式”。
その言葉を聞いて、クロエは黙って目をしばたいた。
彼女の表情が読みとれず、一瞬エンシオは不安な気持ちになる。
「俺との結婚を受け入れてくれるだろうか、クロエ。俺はまだあなたから明確な答えを聞いていない」
ややあって、クロエは目を伏せたまま、呟いた。
「ええ、もちろんよ」
その彼女の姿が儚げなものに見えて、エンシオはたまらずに手を握った。
「俺の部屋へ行こう、クロエ」
「あ、」
どこか茫然としている彼女の腕を、すこし強引にひっぱった。
◇
廊下の先にあるエンシオの寝室に通されたクロエは、所在なさげにあたりを見回した。
キャビネットの上にある東洋風の陶器が、大きな窓から射す陽光に照らされて床に暗い影を落としている。
背後でエンシオが扉を閉め、ジャケットを脱ぐ音がした。
──男の人の部屋に入るのなんてはじめてだ。
濃紺の天幕がかかった寝台に目が行き、クロエはこっそりと深呼吸した。
そのとき、不意に背中から抱きしめられて息を詰めた。
「なんだ、クロエ、緊張しているのか?」
「き、緊張なんかしていませんっ」
エンシオの体温を背中に感じる。
ジャケットを脱いだシャツ越しだと、ほどよく鍛えられた胸元の柔らかさが伝わってきた。
「息が浅いな」
彼の指に首筋の髪を掻き分けられ、うなじに唇を押し当てられる。
「な……な、な、なにを……!」
クロエは飛び上がってエンシオから離れ、彼に口付けられた首元を押さえた。
「いつも咬まれているお返しだ」
クロエが涙目になって睨むと、彼はにこりと笑って近付いてきた。
「あなたはいつもなんだか曖昧だな。本当に俺の妻になる覚悟はできているんだろうな?」
「と、当然よ」
「本当に?」
「……ええ」
「自信がなさそうだな。じゃあ、本当だと言うなら、あなたから俺にキスをしてくれ」
「な、なによそれ……っ」
「ほら」
彼の腕に力強く抱き寄せられ、間近から見下ろされた。
その銀灰色の瞳に一瞬浮かんだ不安の色を感じ取って、クロエは動揺した。
……彼も私と同じで不安なのだ。
きっと、彼は私にどれほど好かれているのか、わかっていない。
クロエは覚悟を決め、エンシオの顎を両手で包みこみ、その頬にそうっと唇を寄せた。
──そのまま抱きこまれたかと思うと、急に唇を奪われた。
彼の思いにこたえようとして、クロエも必死に受け入れる。
愛しさがあふれて、背の高い彼の首に腕をまわした。
「クロエ……」
唇を離したエンシオがため息まじりに囁く。
急に横抱きにされて、寝台の上に降ろされた。
「あ、あの、エンシオ?」
「いやか?」
「いや、じゃ、ないけど、あの……」
彼は、またそういうことがしたいのだろうか?
はじめてのときの緊張と痛みを思い出すと、体が小さく震えた。
「怖いか?」
一瞬迷った末、クロエが小さくうなずくと、エンシオは頬をゆるめて頭を撫でてきた。
「痛むようなら無理に最後まではしないから……それでもいやか?」
一昨日の夜を思い出して、クロエは恥ずかしさに頬を染めた。
「……いいわ、エンシオ」