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05 一線

 日付が変わる頃になってようやく執事のフレディが帰宅した。


「フレディ、おかえりなさい。どうだった?」


 クロエが駆け寄っていくと、彼はコートを脱ぎながら暗い声で言った。


「今日のところは、どう訴えてもまともに取り合ってもらえませんでした」

「お兄様には会えたの?」

「いいえ」


 あの中性的で美しい兄が、冷たい留置所のような場所にいるのを想像して、胸が痛んだ。


「お兄様は何の取り調べを受けているの?」

「それも教えていただけませんでした。しかし、私たちが警戒されているのはたしかです」

「本当にどうすれば……」

「お嬢様、実は私、ヴァンパイアで弁護士をやっている方がロンドンにいるのを知ってます。なんとかしてその方の居場所を探しだして、助力いただこうと考えたのですが……そのためには、何日かお屋敷に戻れなくなりそうで」

「私のことなら大丈夫よ。メイドのアンも来てくれるでしょう?」

「いえ、彼女は、もう」


 フレディが言葉をにごす。


「……もう、怖がって来てくれないのね?」

「はい」


 クロエは落胆のため息をついた。


「本当は私がお嬢様をお連れしてもいいのですが、今はマーティンも休暇でいませんし、何日もお屋敷が無人になるのはさすがに」

「フレディ、心配しないで。私ももう大人なんだからひとりで生活くらいできるわ。それに、いざとなったら、私には頼りになる支援者がいるじゃない」

「そういえば、エンシオ様はさすがにもう帰られましたか?」

「ええ。仕事で急用が入ったと言って。……だめね。これじゃまるで、エンシオを食糧としか思ってないみたい」


 そう言ってクロエは苦笑した。 


「お嬢様、本当におひとりで大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。いま私ができることと言ったら、ひとりでこの家を守ることくらいだものね。それくらいさせてちょうだい」


 何も力になれない自分が歯痒かったが、下手に行動したらかえって兄とフレディの迷惑になることは目に見えていた。


「承知しました。くれぐれもお気をつけて、ご無理はなさらないよう。何かあったらすぐに電報をくださいね」



◇◇◇



 翌日、クロエ以外のだれもいなくなった家を、エンシオが訪れた。


「なるほど。それで今はあなたひとりきりだというわけか」


 クロエから事の流れを聞いたエンシオがうんうんと頷く。

 そして、彼女が出した紅茶を一口飲んで、軽く咳きこんだ。


「だ、大丈夫? 淹れ方がまずかったかしら」

「いや、ちょっと渋かっただけだ」


 クロエも一口飲んでみて、たちまち顔をしかめた。

 味が濃く、同じ種類の茶葉でもフレディが淹れたものとではこんなに差が出るのかと思う。


「心配するな、クロエ。この俺に任せておけ。俺も昔は貧しかったから、料理、洗濯、風呂の準備くらいは一通りできる。もちろん、紅茶を淹れるのもな」


 悪戯っぽく笑うエンシオに、クロエは嘆息した。


「あなたを家政夫にするわけにはいかないわ」

「問題ない。一週間ほど休みを取れると前に言っただろう?」

「え?」

「部下に連絡するから、今日からでも休暇を取る。それで、この屋敷に住みこみで働かせてもらおう」

「あの、ここに泊まるの?」

「夜、あなたひとりじゃ心細いだろう?」

「それは……そうだけど」


 エンシオは勝手に盛り上がって、グレーの瞳を輝かせている。


「近場に小旅行に行くのもいいかと思っていたが、広い屋敷にふたりきりというのも悪くない。新婚生活の予行演習にもなるしな」

「新婚生活……って」


 赤くなるクロエをからかうように笑ったあと、エンシオがふと真剣な表情になる。


「兄上の身に何かあったら、俺も全力を尽くす。だから、そう不安そうな顔をするな、クロエ」


 彼に頬を触られて、自分の顔がこわばっていたことに気づいた。

 知らず知らずのうちに緊張で力が入ってしまっていたのだろう。


 エンシオのことをはじめはただ強引な男だと思っていたが、こうして長く付き合ってみると頼りになる人なのだとよくわかる。


 クロエがお願いしますと頭を下げると、エンシオははりきって「まずは昼食の仕込みだな」と膝を打った。





 エンシオは本人が言った通りよく働き、広い屋敷の掃除から洗濯まで難なくこなしていった。

 元来仕事のできる男なので、家事に関しても要領がよく、お嬢様育ちで何もできないクロエが嫉妬するほどだった。


 せめて風呂洗いくらいはさせてくれと彼に頼み、クロエはなんとか自分の仕事を確保した。

 汗だくになってバスルームを清め、ひとりぶんの湯を張ってみる。

 普段はフレディやアンがやってくれているから、湯加減を調整するだけでも一苦労だ。


 客人がいるのに勝手に先に風呂を使うのはすこし気が咎めたが、汗をかいた体が気持ち悪く、このままさっさと入ってしまおうと思う。

 クロエは脱衣所で衣服を脱ぎ捨てると、泡の入浴剤でいっぱいのバスタブに身を沈めた。


「彼は本当に今日うちに泊まるのかしら……」


 夕食なんて作ってくれなくてもいいから、正直すこしでも血が欲しかった。

 痛みを与える行為なのでクロエから気軽には頼めないが、最近血を分けてもらっていないせいで、かなり飢えている。


 きれいに磨かれた白いバスタブを眺めながら、いなくなってしまった両親や兄のことを思い浮かべる。

 今夜はエンシオがそばにいてくれるとはいえ、やっぱり心細かった。


 そんなことを考えながら湯船に浸かっていると、ふんわりと気が遠くなってきた。


 ──なんだろう、この感覚。なんとなくだけど、このままじっとしているとまずい気がするわ。


 血液不足だろうか。

 昏倒の予感を感じ、クロエは急いで風呂から出ると、バスタオルを体に巻きつけた。


「まずいわ。一旦外に出て、それから──」


 だんだん視野が狭くなってくる。

 裸の姿をエンシオに見られたくはない。

 でも、このまま廊下で失神したらそっちのほうが迷惑な気もする。


「どうしよ、う……」


 逡巡しているうちに視界が完全にブラックアウトし、クロエは脱衣所の床に倒れこんだ。

 その拍子に洗面台にあったヘアブラシなどを倒して大きな音を立ててしまう。


「クロエ……? 大丈夫か? 大きな音がしたが──クロエ……?」


 ドアの向こうの廊下から、エンシオの声が聞こえてくる。

 最後に目にしたのは、ドアを開けて慌てた様子で駆け寄ってくる彼の姿だった。





 気づいたときには、自室のベッドに寝かされていた。

 薄ぼんやりとした視界に心配そうなエンシオの顔が浮かび上がる。


「クロエ、気がついたか。気分はどうだ?」


 ぱちぱちとまばたきをする。

 窓から見える外はすっかり暗くなっていた。


 クロエの体は丁寧にバスローブでくるまれており、寒くないよう肩までしっかり布団をかけられていた。


「エンシオ……ありがとう。ここまで運んでくれたのね」

「礼には及ばない。あなたの体はあまり見ないようにしたから安心してくれ」


 布団の端から腕を出すと、彼がぎゅっと両手で握ってくれた。


「……まだ、手が震えているな。大丈夫か、クロエ?」


 クロエは何も言わずに、彼の手を握り返した。


「あなたを見ていると、俺はしょっちゅう心臓が止まりそうになる。今日も、このまえ怪我した時も」 

 

 彼に触れていると安心する。両親も誰もいなくなってしまったこの家で、今、クロエに寄り添っていてくれるのは彼だけなのだ。 

 エンシオが、ちゅっとクロエの額に口付けを落とした。 


「……愛している、クロエ。俺はあなたを守って、幸せにしたいんだ」 


 思わずクロエは泣きそうになり、彼の胸にしがみついた。

 バスローブが肩から落ちそうになるが、エンシオになら見られてもいいと思った。 

 

「クロエ」 


 エンシオが彼女を胸に抱き締める。

 

「ねえ、エンシオ……寒いわ」 


 クロエがそう呟くと、彼は横から布団の中へ入ってきて、クロエをシーツの上に押し倒した。 

 覆いかぶさってくるエンシオに真剣な眼差しで見下ろされる。

 クロエが腕を伸ばして首に抱きつくと、エンシオは優しく頭を掻き抱いて、口付けた。 

 

 ぬるりとエンシオの舌が入り込んできて、クロエの口の中を支配する。熱い唇に息を止められ、下唇を啄まれる。 


「ん……っ」 


 ちゅ、と音を立ててクロエの舌を吸う。彼は小さな咥内をさんざん蹂躙すると、ふたりの唾液に濡れた唇を離した。 


「……クロエ、もう俺の妻になってくれるか……?」 


 妻になる。それがどういう意味を持つのか、クロエにはもうわかっていた。 


「ええ」 


 彼の下で小さく頷いた。

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