04 連行
『ロンドンのスカーレット協会元会員が全員逮捕』
兄のミカエルが新聞の見出しを読みあげて、テーブルの上に投げた。
「“スカーレット協会”って、昔ロンドンでやっていたヴァンパイアの集会よね?」
クロエが眉根を寄せて言う。
「そうだよ。どうして今さら……」
クロエが無事退院してしばらくした日のことだった。
朝刊を見て驚いたフレディが、急いでクロエとミカエルを居間に呼び、その新聞記事を見せてきた。
「記事はぼかして書いてあるけど、これは裏があるね。まさかヴァンパイアの存在が軍にばれたか……?」
兄の言葉に、ヒッとクロエが息をのむ。
「最近、政府は地下組織を警戒していますからね。その一種だと勘違いされただけかもしれません」と、執事のフレディが言う。
「おかしいわよ。協会はそんな活動なんてしてないのに」
「貴族院の知り合いをあたってみるか……いや、そんなことをしたらかえって良くない噂を立てられるか」
「ええ、お兄様まで巻きこまれてしまったら大変だわ」
「そうだね……」
心配する妹の視線を感じながら、ミカエルは腕を組んで考えこんだ。
「フレディはどうすればいいと思う?」
いつも思慮深い彼にたずねてみる。
「まだこの事件がヴァンパイア族と関係があるかどうかはわかりません。気になりますが、今は下手に動かず、様子を見るしかないでしょうね」
そう答えるフレディの顔も不安そうで、クロエは余計に怖くなってしまった。
◇
(どうして協会が……。なにも悪いことはしていないはずなのに。)
クロエは庭をうろうろと歩き回りながら考えた。
社会では異端者はつねに迫害される。
今、どこかで自分の同胞たちがひどい尋問を受けているかもしれないと想像して、おもわず身震いした。
マーティンはもうあの記事を読んだのだろうか?
薔薇園のほうまで行ってみるが、彼の姿はなく、クロエは苛々しながら庭中を歩いて探した。
ふと、垣根の下に女性の姿が見えた。
ふたりの子供をかかえながらも通い女中をしてくれている“アン”だ。
手際よく雑草を抜いている彼女に、うしろから声をかけた。
「おはよう、アン」
「まあ、おはようございます、クロエお嬢様」
土で汚れたエプロンをはらってアンがにこりと会釈する。
「ねえ、マーティンを見なかった?」
「マーティンは休暇を取ってますから、今お屋敷にはおりませんよ」
「休暇? まあ、そうなの?」
肝心なときにいないなんて、とクロエはやきもきした。
「マーティンがどうかなさいましたか?」
「いいえ、なんでもないの。ありがとう、アン」
彼女に手を振って、本館のほうへ戻る。
クロエ以外に自分の正体を明かしていないマーティンは、おそらくどの協会にも属していたことはないはずだ。
それにしても、彼は休暇中、一体どこへ行っているのだろう?
マーティンがそうなのだから、彼の両親も同族なのだろうが、あらためて思い返してみると故郷の話を聞いたことがなかった。
本館に戻る途中、玄関前に黒い高級車が停まっているのが見えた。
きっとあの男だ。
フレディがすたすたと庭に出てきながらクロエに声をかけた。
「お嬢様、」
「聞かなくてもわかってるわ。エンシオが来たんでしょ?」
「その通りでございます」
応接室に入ると、ミカエルとエンシオがテーブルをはさんで笑顔でにらめっこしていた。
「ああ、クロエ、約一週間ぶりだな」
長い足を投げ出して座っていたエンシオが立ち上がる。
「そうね。お仕事が忙しかったの?」
「まあそんなところだ」
クロエは兄の隣に座ると、テーブルの上の箱に気づいた。
またなにか大仰な手土産だろうか。
「ふふ、気になるか? それは最近世話になっている米国人からもらったものでな、あなたが好きそうかと思って持ってきたんだ。開けてみるといい」
クロエはちらとミカエルの顔を見てから、箱を引き寄せた。
ふたを開けると、ビロードの台座に拳銃が横たわっていた。
「まあ、すごいわ! 米国製のリボルバー?」
「ああ、1891年に数本だけ生産された稀少な品だ。弾は入っていないが、本物だから扱いには注意してくれ。あなたの部屋の飾りにでもするといい」
グリップの部分に美麗な彫刻のあるそれを、クロエは手のひらで転がして感嘆した。
「女性に銃を贈るなんて、君のセンスには脱帽するよ」と、ミカエルが満面の笑みで言う。
「兄上はご存知ないかもしれないが、クロエには意外と少年的な趣味があるのですよ」
ふたりが火花を散らしている横で、クロエは目を輝かせて言った。
「見て、お兄様、西部劇に出てきそうでしょ? やっぱり米国製の銃は意匠がすばらしいわ! 本当にありがとう、エンシオ。大事にするわ」
「銃刀法違反になるから、外には持ち出さないでくれよ」
「わ、わかってますっ」
そのとき、フレディが応接間に入ってきた。
「ミカエル様、すこしよろしいでしょうか?」
「うん。悪いね、ちょっと失礼するよ」
ミカエルはクロエに微笑みかけ、フレディとともに部屋を出ていった。
閉まった扉を見て、クロエはぽつりと呟いた。
「大丈夫かしら……」
「何がだ?」
ヴァンパイアの協会のことなど何も知らないエンシオは、きょとんとした顔をしている。
「い、いいえ、なんでもないの」
リボルバーをそっと箱にしまう彼女の隣に、エンシオが移動してきた。
「もう体のほうはすっかりよくなったのか?」
「ええ、もうたくさん動いても問題ないわ。人間より回復力が高いの」
「そうか」
エンシオが自然な流れで腰に腕をまわしてくるが、はじめの頃のように嫌だと感じなくなっていた。
「なあ、クロエ、近々一週間ほど休みを取れそうなんだが、俺と軽く旅行にでも行かないか?」
「旅行?」
「そうだ。きっとあなたを楽しませてみせる」
内心どきどきしながら、目の前にあるエンシオの顔を見上げる。
「旅行は、さすがに……。一応、私にも世間体があるし……」
平民の出身であるエンシオにはピンと来ないかもしれないが、貴族の娘が婚前旅行をするのは禁忌とされている。
エンシオはクロエの考えを察したのか、一瞬無言で彼女を見つめ、そしてそっと頬に触れてきた。
「もう、頷いてくれないか、クロエ。俺と、結婚してくれ」
クロエは息を詰めて彼を見たが、急いでその手をよけ、腰を上げた。
「だめよ。できないわ」
「どうして! 俺が嫌なのか?」
「そうじゃないわ。私はだれとも結婚する気はないの。たとえこの家が困窮したとしても、私は人の血さえあれば、どこでも生きていける生き物なのよ。どんな子が生まれてくるかもわからないのに結婚なんて……新しい家族までつくって面倒を起こしたいなんて思えないわ」
「それならこの俺でいいだろう。俺はそれを面倒などと思わないし、天涯孤独だから親族の目も気にしなくて済む。あなたにとってデメリットはひとつとしてないだろう?」
「だから、あなたにこれ以上苦労をかけたくないのよ……! あなたならいくらでも普通の貴族令嬢と結婚できるでしょうに、私みたいな人間があなたの重荷になりたくないの……!」
唇を噛んでたたずむクロエの前に、エンシオが立つ。
「……あなたが嫌がるなら、子供などつくらなくていい。俺はただ、あなたにずっと俺のそばにいてほしいんだ」
「だめよ……どうしてっ…………私の、何がいいのよ……」
「答えが必要か?」
その手にあごを掴まれたかと思うと、目の前にエンシオの顔が迫ってきた。
気づいたときには、唇を奪われていた。
口付けなどしたことのないクロエは、驚いて声も上げられなかった。
熱い唇に唇をふさがれ、ただ眼前にあるエンシオの長い睫毛を見つめることしかできなかった。
彼女の下唇を軽く啄んで、エンシオは唇を離した。
「クロエ、目を瞑れ」
「え……?」
「ほら」
クロエは茫然としたまま、ゆっくりまぶたを閉じた。
肩を抱きしめられながら接吻された。
エンシオが口付けを深くし、クロエの唇の間に舌を割りこませてくる。
「……!」
驚いて身を引こうとするが、大きな腕にとらわれていて動けない。
口の中に入ってきた分厚い舌が、ぬるりと口内を舐め回す。
「っん……ふ……!」
彼の胸につかまり、肩を震わせる。
舌を絡み取られながら、あふれてくる唾液をごくりと飲みこんだ。
「……っ、は……ぁ……」
舌で愛撫されながら、エンシオの手が腰のほうに下りてくるのを感じて、クロエは体の奥がぞくぞくするのを覚えた。
「……クロエ……」
ようやく唇を離したエンシオに、射るような目で見下ろされる。
「これが俺の答えだ」
はじめての感覚を受け止めきれずにクロエが腰を抜かすと、すぐさま力強い腕に抱きとめられた。
オーデ・コロンの香りに鼻孔をくすぐられ、目を閉じる。
胸元へ寄せた頬に、彼の心臓の鼓動を感じる。
驚きが勝っていまだに頭が混乱しているが、彼にこうされるのは悪くはないかもしれない、と思いはじめていた。
──そのとき。
突然、遠くで乱暴にドアが開かれる音がし、クロエは飛び上がって彼から離れた。
にわかに玄関ホールのほうが騒がしくなり、はじめて聞く男たちの怒鳴り声が響く。
「な、なにごと──……?」
「クロエ!」
エンシオが止めるより先に、クロエはドアを開けて廊下に飛び出した。
果たして、玄関には数人の警察官が立ち並び、ミカエルの腕を掴んでいた。
その横でフレディが右往左往している。
「ちょっと! あなたたち、突然何ですか?!」
クロエが駆け寄っていくと、警官のひとりが逮捕状をつきつけてきた。
「以前、この家の者が不審な協会に入会していたという告発を受けた。署で取り調べを受けていただく」
エンシオが背後に近寄ってくる。
警察官の言葉にクロエは驚いて、一瞬声も出せなかった。
「ど、どうして? お兄様は何もしていないわ!」
そう、兄は普通の人間なのだ。
「そういうことなら、兄じゃなく私が──」
「クロエ!」
めったに聞かないミカエルの大声に、クロエはびくりとして言葉を切った。
「心配いらない。お前はうちにいるんだ」
「お兄様……!」
警官に囲まれて玄関を出ていく兄を追いかけようとして、エンシオにうしろから押さえられた。
「は、離してよっ、エンシオ!」
「だめだ」
「いけません、お嬢様はここにいらしてください。わたくしが署まで行って話をしてきますから」
フレディに前に立ちはだかれ、クロエは抵抗をあきらめた。
「それでどうにかなるの……?」
「わかりません。しかし、とりあえず今はわたくしに任せてください。お嬢様を危険にさらすわけにはいきません。エンシオ様、すみませんが、お嬢様をよろしくお願いします」
「フレディ……!」
そのまま急いで玄関を出ていく執事の背中を見送って、クロエはしゃがみこんだ。
「どうして──どうしてよ。あの人たち、私のお兄様に何をしようというのよ」
「とりあえず落ち着け、クロエ。一旦部屋に戻ろう」
ひとり残ったエンシオに腕を引かれ、応接室のソファーに座らされた。
「まさか……」
「ん?」
「……本当にばれてしまったのかしら。うちの一族のことが」