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03 通り魔

 エンシオから血をもらうようになって一月がたった。

 その日、クロエはひとりで街を散策していた。

 昼からエンシオと食事を共にする約束をしている。

 早めに出てきてしまったので、約束の時間まで路面店を眺めて過ごそうと思っていた。


 ふと、軒先に装飾品を並べている小物屋が目にとまる。

 クロエは立ち止まって、レースが付いたリボン形の髪留めを手に取った。


(まあ、かわいいわ。)


 リボンを髪に当てて店の鏡を覗きこんでいると、いきなり横から男の手に腰を抱かれた。


「……!?」

「よくお似合いだが、隣に俺のような紳士を付け加えたほうが絵になるんじゃないか?」

「エンシオ! は、早かったのね」


 スーツ姿で首元のスカーフを少し緩めているエンシオが、鏡の中で笑った。


「商談が早めに終わったんだ。あなたといられる時間がすこし長引いた」

 

 エンシオに手を引かれ、人の行き交う通りを歩きだす。


「今日もあなたはきれいだ。髪を編みこんでいるのか? かわいいな」


 照れもせず褒めてくる彼に、聞いているこちらがおもばゆくなってしまう。 

 はじめて血を吸ってしまったときは大人しかったのに、彼の事態への適応力は凄まじく、クロエも驚かされるばかりだ。

 

「ここからすこし歩いたところにうまい料理屋があるんだ。散歩がてら行こう」 


 見下ろしてくるエンシオの瞳はきらきらと輝いていて楽しげである。 

 人の波にさらわれないようにクロエが腕を絡めると、彼は嬉しそうに微笑んだ。 

 

 

 

 そのとき、突然、人混みのなかから絹を裂くような悲鳴が響いた。 


「きゃあ……っ!」 

「待て! そいつ──通り魔だ! 人を斬りやがった!」


 男の怒声で一瞬にして通りが騒然とし、人の波が方々へ入り乱れる。もう一度遠くで女性の悲鳴があがった。 


「クロエ、来い!」

 

 エンシオに強く腕を引かれて脇道に入ろうとしたところで、正面の人混みから、刃物を持った薄汚い服装の男が現れた。

 男と目が合ってしまい、思わず息をのむ。

 刃物の先端が血で赤く染まっていた。


 エンシオがとっさにクロエをかばうように動く直前、男が刃物を握り直すのが見えた。 


「ダメッ、エンシオ──!」

 

 通り魔の男が足を踏みだすより早く、クロエはエンシオを脇に突き飛ばして前へ出た。


「クロエ……っ!!」


 刃物を突きだす男の手首を、両手でつかまえようと飛びだす。


 ぶすりと嫌な感触がして、腰に何かが突き刺さるのがわかった。

 が、クロエは無我夢中で男のむきだしの腕に食らいついた。


「ッ──!」


 次の瞬間、刺された腰から刃物が抜け落ち、腕を引こうとする男の皮膚がクロエの口の中でえぐれた。


 口を離した途端、男は呻き声をもらしながら走り去っていった。

 

「おい、そっちに行ったぞ!」 

「捕まえろ!」 


 周囲が悲鳴に包まれるなか、エンシオは顔を真っ青にしてクロエに駆け寄ってきた。 


「クロエ、クロエ! しっかりしろ──俺が、俺が助けてやるから──!」 


 エンシオがクロエの体を抱えてしゃがみこむ。 

 彼のグレーの瞳が恐怖に見開かれている。

 衆人からクロエを隠すように覆いかぶさってくる彼の頬に、指先で触れた。 


「……ち……」 

「え? なんだ、クロエ?!」 

「血を、ちょうだい……」 

 

 

 

 

「はっ──はあっ……」 


 クロエを抱えて、エンシオは息を切らしながら路地裏を走った。 

 レンガの軒下が連なる狭い道で、彼は足を止めた。 


「ここなら──ここなら、人も来ないだろう。クロエ……」 


 クロエの体をそっと地面に下ろし、膝をついて、彼女の背を自分の胸にもたれさせる。

 片手で乱暴にスカーフをはずし、シャツのえりぐりを広げた。

 

「ほら、クロエ、飲め──」

 

 呼吸を浅くしているクロエの頭を支え、首元に近づけた。 

 彼女の瞳孔がくっと広がる。

 汗の浮かぶエンシオの首に手をかけ、唇を寄せた。

 おぼろげになっていく意識のなか、なんとか口を開いて牙を立てた。 

 

「っ……ぐぅ……」

 

 彼の首が大きく震える。

 いつもとちがって余裕がなく、相手の苦痛も考慮せずに思いきり歯を立ててしまったから、ひどく痛むのだろう。


 ごくりごくりと飲みくだすと、エンシオの血液が体中に回るのを感じ、それと同時に腰から熱い血が噴き出した。

 

「クロ、エ……!」

 

 震えるエンシオの大きな手に背を抱かれ、クロエは意識を手放した。



◇◇◇



 気づいたときには固いベッドに寝かせられていた。

 クリーム色の天井が目に入ったかと思うと、同時に焦ったような声が聞こえてきた。


「──クロエ、気がついたか?」

「クロエ、大丈夫か?!」


 ぼんやりとした視界に兄のミカエルとエンシオの姿が映る。

 二人とも青い顔をしていて、クロエの右手はミカエルに、左手はエンシオの手に握られていた。 

 腰がコルセットや包帯で固定されているのを感じる。

 なんとか周囲の様子を確認しようと視線を動かすと、「病院ですよ、お嬢様」と足元に立っていたフレディが答えた。


「気分はどう、クロエ? ほかに痛むところは……?」

「だいじょうぶよ、お兄様」


 ため息をつく兄の横で、エンシオが涙を浮かべていた。


「今回ばかりはエンシオくんがいてくれて助かったよ。きみのおかげでクロエの回復も早そうだ」


 兄がはじめて彼に対して友好的なことを言う。


「なぜ……なぜあんなことをしたんだ、クロエ! どうして俺をかばおうとなどしたんだ!」


 エンシオが低く唸るように言って、クロエの手を握りしめてくる。


「だって……あなたが死んじゃうと思ったんだもの……私なら血さえあればなんとかなるけど、あなたは……」


 クロエの目をじっと見つめ、エンシオは唇を引き結んだ。

 ふたりの顔をながめながら兄が言う。


「とにかく……助かってよかった。お前はいま弱ってるんだから、血がほしくなったらすぐ僕に相談するんだよ。なんとかするから」

「その心配は必要ないだろう。お嬢さんには俺がついていますから」

「エンシオくん……」


 ミカエルが何か言いかけたそのとき、病室の入り口からスーツ姿の痩せた男が入ってきて、エンシオに頭を下げた。


「失礼いたします。社長、そろそろオフィスに戻るお時間です」

「そうか……仕方ないな、車を回しておいてくれ。クロエ、申し訳ないが、今日は一旦帰らせてもらう。時間ができ次第、またすぐ見舞いに来るから」


 そう言ってエンシオが立ち上がる。

 そして、皆の見ている前で当然のように頬を撫でてきたので、クロエは真っ赤になった。




 エンシオが去ったあとも、まだその甘い香りが部屋に残っているような感覚をおぼえる。

 クロエがぼうっとしていると、ミカエルが嘆息しながら言った。 


「まったく……クロエもクロエだ。お前はお人好しすぎるんだよ。ヴァンパイアとはいえ女性なんだから、もっと自分の身を大切に考えるべきだ」

「そんな、お兄様、彼が死ぬかもしれなかったのよ。そう思ったら、とっさに手が出てしまったの」

「クロエ……」


 ミカエルが意外そうな顔で彼女を見る。 

 

「先生は三週間安静にしていれば大丈夫だと言っていました。……しかし、お嬢様の身の上であれば、もっと早くに退院できるでしょう」とフレディが言う。


「ベッドのなかでじっとしてなきゃいけないなんて、退屈だわ」 

「僕らがしょっちゅう見舞いにくるから、どうかじっとしてておくれよ。それに、あの男も頻繁に来るだろうし──そう暇にはならないだろう」

「たしかに。それもそれで大変ね」


 クロエは目をぐるりとまわしておどけてみせた。




 

 深夜、消灯時間になり誰もいなくなった個室で、クロエは物思いにふけっていた。

 今日起こったことを頭の中で何度も反芻してみるが、一向に眠気は訪れない。 


 廊下に看護婦がいないのを確認すると、起き上がって窓辺に寄ってみた。

 この二階の病室からは中庭の低木が見下ろせる。

 夜闇に佇む木々をながめながら窓枠に頬杖をついていると、不意にドアの外からざわめきが聞こえた。 

 なんだろうと思っていると、やがて男女の話し声が途絶え、一人分の靴音がこちらに向かってきた。


 コンコンとドアをノックされる。


「どなたですか……?」

「俺だ、お嬢さん」

「エンシオ……?!」


 ドアが開き、昼間の背広姿のままのエンシオが入ってきた。


「な、なにかあったんですか? こんな夜更けに……」

「こんな時間によくないとは思ったんだが、どうしてもあなたの様子が気になって。仕事が終わったらまたすぐに来ようと思っていたんだが、ずいぶん遅くなってしまってすまない。さすがに看護婦に怒られたよ」

「よく入れてもらえたわね」


 エンシオはクロエの顔を見てほっとしたように笑い、枕元の花瓶に持ってきた花を挿した。


「寂しくて眠れずに泣いているんじゃないかと思ったが、やっぱり寝ていなかったようだな」 

「なっ、泣いてなんかいません!」 


 クロエが頬をふくらませ、どさっと寝台に座る。その瞬間、腰に鋭い痛みが走った。


「あ、痛っ……!」 

「ああ、ほら、安静にしていないとだめだろう」

 

 エンシオが寄ってきて、クロエを横たわらせ、寝台のわきの椅子に腰かけた。


「俺はまだ昼間のことは怒っているからな」

「なによ、怒ってるって」

「もう一度でもあんなことをしたら、一生あなたを許さない」

「!」


 布団の端から出ていた右手をエンシオに握られ、どきっとして手を引きかけたが、離してもらえなかった。


「あなたが眠るまでここにいる」 


 暗闇に浮かぶエンシオの顔を見上げていると、なんだか胸が落ち着かない。 


「エンシオもお仕事で疲れているでしょうし、早く帰って休んだほうがいいわ」

「あなたは優しいな。俺のことは心配いらない」


 そうは言ってもその顔色はあまり優れない。今日、たくさん血をもらいすぎたせいもあるはずだ。


 エンシオの大きな両手に手を包みこまれ、ほっと息を吐く。


「……ちゃんと帰って、寝てね」

「わかっている」


 次第に意識が薄れていくなか、優しい唇の感触を額に感じた。

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