02 共犯者
夕刻、クロエは歩いて屋敷まで帰ってきた。
「お嬢様……おかえりなさいませ」
玄関で迎えたフレディが、雨土で汚れた彼女の足を見て眉尻を下げた。
「どうぞこちらへ。綺麗にいたしましょう」
俯いてフレディの後についていきながら、クロエは呟いた。
「……エンシオは……?」
「大丈夫でしたよ。しばらくこちらにいらっしゃいましたが、お仕事の予定でお帰りになりました」
クロエを洗面所の椅子に座らせ、たらいに湯を張りながらフレディが言う。
「心配ございませんよ、お嬢様。エンシオ様にはすべてご説明いたしました。噛まれた人間には“感染”の影響などないことも。エンシオ様は秘密を守ってくださるとおっしゃっていました」
「ごめんね……フレディ」
フレディがクロエの前に跪き、くつを脱がせ、素足に湯をかける。
「いいえ、お嬢様。糧となる人間を見つけてこられなかった私にも責任があります。お嬢様がどれほど飢えていたのか気付けませんでした」
「ううん、お前は悪くなんかないわ」
綺麗なくつを履かせてもらっていたそのとき、廊下に人の気配がした。
「……クロエ? 戻ったのか?」
兄のミカエルが、開け放しの洗面所に顔を覗かせた。
「お兄様……」
フレディが会釈して部屋を退く。
ミカエルはそっと妹の背中に手を置いた。
「フレディから話は聞いたよ、クロエ……大丈夫?」
クロエは顔を両手で覆い、手のひらに向かって吐き出すように言った。
「お兄様、わたし、とんでもないことをしてしまったわ。自分を抑えられなかった」
「クロエ……」
「フレディはああ言ったけど、私、飢えてなくても、いつかエンシオに噛み付いたと思う。あの人の血の匂いに魅せられていたの。……ごめんなさい、お兄様。もしも、もしも、彼がこのことを世間にばらしたりしたら──」
「大丈夫だよ、クロエ。万が一そうなったら、ふたりで逃げよう。お前のことは、僕が絶対に守ってみせるから」
ミカエルの腕にしっかりと抱かれ、クロエも兄の背にしがみついた。
その夜、クロエは食欲がないと言って、早い時間に寝室に下がった。
暗闇の中で寝間着に着替え、布団にもぐる。
シーツの上に数滴の血痕があった。エンシオの血だ。
指先でそっとさわってみて生唾を飲み込む。
シーツの表面に舌で触れてみたが、もうほとんど味は感じられなかった。
◇
翌日、正午近くになって一階に下りてきたクロエに、フレディが言った。
「おはようございます、お嬢様。今ちょうどお呼びしようと思っていた所なのですが」
窓の外を見ると、黒塗りの車が停まっていた。
「エンシオね?」
「はい。応接間にいらっしゃいます」
「少し待っていただいて。着替えてくるわ」
部屋着のすそを翻して、クロエは階段を駆け上がった。
急いでワンピースに着替え、応接室の前に立つ。息を整えてドアを開けた。
そこには、いつもと変わらぬ姿で、クロエに優しく微笑むエンシオがいた。
「おはよう、クロエ。気分はどうだ?」
切れ長の灰色の瞳も、高級そうな背広も普段通りだが、その首に巻かれている白い包帯がいやに目を引いた。
いたたまれず、クロエは立ったまま深く頭を下げた。
「……エンシオ……本当に、ごめんなさい……!」
首の静脈を噛まれた時の痛みのほどは、話に聞いている。
昨日のエンシオの様子を思い出す。驚きのあまり身動きすら取れずに、彼はクロエの上でじっとしていて、終わった後も声すら上げなかった。
エンシオが立ち上がる気配がする。
うなだれているクロエの目前に、革靴を履いた足が立ち止まる。
──怒鳴られ、非難されるかもしれない。
しかし、彼はいつもと違うゆっくりとした口調で言った。
「……顔を上げてくれ。俺は謝ってほしくて来たわけじゃない。あなたと話がしたいんだ」
肩に両手を置かれて、クロエは顔を上げた。
エンシオがかがんで真剣な目で見つめてくる。
「あなたとあなたの血筋については執事からおおむね聞いた。昨日あなたの顔色が悪かった理由も。……俺は、もちろん驚きはしたが怒ってはいない。ただ、あなたという人をもっとよく知りたいと思った」
肩に置かれた大きな手のひらが熱い。
「……普通の人間とそんなに違うわけではないの。でも、綺麗には生きられないの。私たちは食べ物や水がなくても生きていけるけど、人の血がないと生きていけない。毎月、新月の夜は体が飢え渇くのよ」
まっすぐに見下ろしてくるエンシオの目を見つめ返せず、視線を逸らした。
「昨日は、自分を制御できずに、気づいたらあんなことをしてしまっていて……ごめんなさい」
エンシオがクスッとかすかに息を漏らした。
「昨日ほどじゃないが、今日も顔色がよくないな。あれだけで血は足りたのか?」
「え?」
信じられないことに、彼は穏やかに笑っている。
「血をくれる人間がいなくて困っていたんだろう? いいさ、俺の血くらい、いくらでもくれてやる」
「何を言ってるの、エンシオ……」
「あなたに血液を提供してやると言っているんだ。吸うといい、俺の血を」
彼はソファーにどさっと腰を下ろし、クロエに手を差し出した。
「対価として、一度血を吸うごとに俺とデートをする。そんなところでどうだ?」
返答に困っていると、急に腕を引かれて隣に座らされた。
彼の指におとがいを持ち上げられる。
「しかし……男の血なんて旨いのか?」
「おいしいわ、あなたの血は」
「そうなのか?」
クロエの瞳を見つめながら、エンシオが首元の包帯をはずそうとする。
「待って、本気なの? エンシオ、ちゃんと考えてください。痛いし、あなたが貧血になってしまうかもしれないのよ」
「考えている。あなたにとって唯一の提供者になれるなんて、これほどいい立場はないだろう? それに、俺は元来体が丈夫だから、これくらい何でもない」
どこまで自信家で前向きなのだろう、この男は。
「……ほんとうに、いいの?」
「いいと言っているだろう」と彼は笑った。
首だと出血量が多く痛みも強いから、手首を出してもらうよう頼んだ。
エンシオはカフスボタンをはずし、そでをまくりあげて、裸の手首をクロエに差し出してきた。
「やっぱりちょっとは痛いのよ? いいの?」
「大丈夫だ」
彼の手首は触れてみると思ったよりも温かく、体温が高そうだった。
手首の内側を撫でて脈の位置を確かめる。
目を上げると真剣な瞳と視線がぶつかった。
手首に唇を付け、彼の大きな手がこぶしを握りしめるのを横目に、ぶつりと歯を立てた。
コロンの香りのする手首をくわえて甘い血を吸う。体が悦んでいるのがわかる。
血がこぼれないように唇を押し当てて、ちゅ、と啜りながら、エンシオの射るような視線を感じる。
見上げると、彼はクロエの様子をじっと見つめていた。
急にとても恥ずかしくなり、エンシオの肌に埋めていた牙を抜いて、傷口を舌でちろちろと舐めた。
「……もういいのか?」
「い、いいです」
唇に付いた血を舐め取るクロエの頬に、エンシオが触れた。
「俺の血があなたの体の中に入ったんだな」
まだエンシオの血の味が舌に残っている。
「今日は時間がないからデートはできないが、また今度俺に付き合ってくれ」
そう言って、唇のすぐ横に口付けられた。
「っ、エンシオ……?!」
慌てるクロエをよそに、エンシオは頬へと接吻を移していく。
肩を掴まれ、耳たぶを甘噛みされて、クロエはひゃあっと悲鳴を上げた。
「今日はこれで勘弁してやる」
満足げに微笑むエンシオから身を離し、クロエは真っ赤になって耳を押さえた。
「また来るよ、クロエ」
この場に不似合いな爽やかな笑顔で彼は言った。
◇
「あ、こんにちは、お嬢様。お散歩ですか?」
「ええ」
午後、クロエは庭をぶらぶらしながら、マーティンが世話している薔薇園の区画までやってきた。
マーティンが作業の手を止めて立ち上がる。
「なんとなく昨日より元気そうですね、お嬢様」
「やっぱり、お前にはわかるの?」
「あのことですか? ……ええ、わかりましたよ。昨日は屋敷からかすかに血の匂いが漏れていました。男性のね」
ふたりのそでが風に揺れる。
「……私、エンシオを噛んでしまったの。ほとんど無意識だった……半人前ね」
「自分を制御できなくなることは大人のヴァンパイアでもあります。俺だって、時々危うくなる時がありますよ」
「彼は、誰にも言わないと約束してくれたわ。それに、今後、時々血を提供してくれるって。……私、あの人の血に溺れてしまいそうよ。あんなにおいしい血は、はじめてだったの」
エンシオの味を思い出して、クロエは唇を指で押さえた。
「羨ましいですよ。定期的に血をくれる人がいるなんて」
「マーティンの分も頼んだら、エンシオが干からびてしまうわね」
「あはは、男の血なんていやですよ、俺は」
マーティンが困ったように笑った。
「でも、あまり血をもらいすぎないよう気をつけたほうがいいですよ。吸血が常習的になってくると、かえって禁断症状がつらくなると言いますからね」
「そうね。でも大丈夫よ。血をもらうのは新月の日だけって決めてるから。心配してくれてありがとうね、マーティン」