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01 事の起こり

「図書館まで自転車で行けるかしら」


 ワンピースの下にこっそりスパッツを履いた格好で、クロエは階段をおりながら言った。


「お嬢様、もし事故に遭ったりしては大変ですから、どうかお車で……」

「いやよ。最近、運動してないもの。久しぶりに自転車に乗りたいの。自転車で思いきり走ると気分がすっとするのよ。お前は知らないでしょ?」


 階段下で待っていた執事のフレディが、しぶしぶといった表情でコートを差し出した。


「お気を付けてください」

「もちろん、わかってるわ」 


 しかし、クロエが外に出た途端、天からぽつりぽつりと雨粒が降ってきた。


「なんてこと!」


 手のひらを前に出してため息をつく。うしろでフレディがほっとしているのを感じる。


「あーあ。せっかくインナーまで履いたのに」

「今、車をお出しします」 

 

 フレディが車を出しに行っている間、クロエはぼんやりと灰色の空を見上げていた。

 晩秋のさびしい庭は静まり返っており、人影はない。

 こんな雨の日は、庭師のマーティンは何をしているのだろう。


 ややあってから、フレディが走って玄関先に戻ってきた。


「お嬢様、申し訳ございません。タイヤがパンクしてしまっていて……私の不注意でした。辻車を呼びますか?」


 不運には不運が重なるらしい。

 クロエは首を横に振った。


「いいわ。なんだか気が削がれちゃった。今日はおとなしく書斎にでもこもって読書するわ」

「ええ、そうなさるのがよろしいかと。お嬢様も貧血のようですし……」

「さすがによく覚えているわね、フレディ」

「毎月のことですから」


 クロエは微笑むと、部屋までローズティーを持ってくるよう彼に言った。 

 

 

◇ 

 

 

 事が露呈したのは、クロエが十四になる春のことだった。 

 

 ……生暖かい新月の夜、彼女はなかなか寝付けずにいた。

 何度水を飲みに行っても喉がかわいて息苦しく、とうとう眠るのをあきらめて、小さなランプを片手に夜の庭へ足を踏み出した。


 誰もいない庭園を裸足で歩く。

 普段なら母に怒られそうなことをこっそりしてみると、新鮮味からうきうきする。


 奥の使用人小屋の前まで行ってみると、ひとつの窓から明かりが漏れていた。

 あそこはたしか、最近雇われた若い庭師──マーティンの部屋だ。

 こんな時間に何をしているのだろう? 

 

 クロエはマーティンが気に入っていた。

 はじめて会ったときから彼は優しくにこやかで、クロエに面白い話をしてくれた。


 外から呼びかけてみようかしら?

 そう思い、窓の下まで行ってみた途端、ふっと電灯が消えた。 

 

 ──きっと寝てしまったんだわ。私も部屋に帰ろう。


 踵を返そうとしたとき、部屋の中から苦しげなうめき声が聞こえてきた。


「あ……うっ……ぁ゛」

「マーティン……?」


 具合でも悪いのだろうか?

 心配になったクロエは、急いで窓を開けようとした。

 しかし、窓の隙間から垣間見えた光景に驚愕して、彼女の手は止まった。 

 

 

 マーティンが、白いネグリジェを着た女の首に喰らいついていた。


 細い首筋に尖った犬歯が埋まり、女は眉根を寄せて、マーティンの肩にしがみついている。

 彼の喉仏が二度大きく動いたあと、歯と肌のわずかな隙間から鮮血が滴り落ちた。


 それを目にした瞬間、熱い衝撃が、クロエの小さな体を荒々しく駆け巡った。

 原始的な声がどこからか低く囁いてくる。

 窓辺に手を伸ばそうとすると、マーティンの影がこちらを振り返った。 

 

「お嬢様……?」


 闇の中で彼の瞳が鈍く輝く。

 ──きっと、彼は私と同じだ。


「マーティン、何をしているの? 私にも教えて……」

「お嬢様、だめです。これはその……とにかく、屋敷にお戻りください」


 女を離し、慌ただしく窓辺に寄ってきたマーティンが、クロエの目を見て息を呑んだ。


「お願いよ、マーティン。私、渇いて渇いて仕方がないの。中に入れて」


 彼は眉間をこわばらせると、入り口のほうに回ってドアを開けてくれた。 

 

 

 

 狭い床の上に、女が気を失ったように転がっている。

 さっきは暗くてわからなかったが、よく見ると、屋敷で働いているメイドの一人だった。


「気絶しているの?」

「ええ。少し血をもらいすぎたんです」


 メイドのそばに膝をついたクロエの表情を観察するように、マーティンが覗き込んでくる。


「……お嬢様は、はじめてですね?」

「ええ、そうよ」

「そうですか。……じゃあ、ためしに吸ってみてください」


 マーティンが女の手を取って、クロエに差し出してきた。


「あの……私が血を吸ったら、この人も私たちと同じようになってしまうの?」

「いいえ、なりませんよ。吸血鬼の力を感染させられるのは“始祖の一族”だけです。大丈夫ですよ」


 優しく笑う彼の目を見上げながら、クロエは女の手首にきばを立てた。

 

 甘美な味が口中に広がる。不思議と鉄臭いとは感じなかった。ただ本能をくすぐられる薫りがする。

 新鮮な血が喉を下るたび、全身が潤いに満たされていくのを感じる。その感覚に酔い痴れていると、不意にマーティンの手に引き離された。 

 

「──もういけません。はじめは制御できないかもしれませんが、俺達のほうにも限界があります」

「そうなの?」


 言われてみれば、高揚して体が燃えるように熱い。

 メイドは失神したままぴくりともせず、細面の顔は血を失って青白くなっている。


「お嬢様、あなたのご家族もあなたの仲間でしょう。執事のフレディもご存知です。でも、今日あったことと、俺のことだけはどうか秘密にしていてください」

「ええ……わかったわ、マーティン」 

 

 

 その夜、クロエははじめて自分の正体を知ることになったのだった。

 毎月、新月の宵、両親が少人数の夜会を開き、それを決して覗いてはならないとクロエに言い付けていたことの理由も知った。父と母は、同族のための晩餐会を開いていたのだ。 

 

 その日以降、クロエは成熟した証として、新月の宴への出席を許されることになった。そして、マーティンとともに喰らったメイドの娘は、それ以来目にすることはなかった。 

 

 

◇ 

 

 

「そうか、もう明後日の夜が新月か。毎月毎月、つらいだろうね、クロエ」


 兄のミカエルが隣に座って言った。


「時々、お兄様が羨ましくなるわ」


 ミカエルはめかけの子で、人間の胎から産まれたため、ヴァンパイアとしての能力はない。

 クロエはカップを持ち上げて紅茶を一口飲んだ。


「時々?」

「ええ。だって、人の血を吸っている、あれほどの心地良さは他のことでは味わえないもの」

「昔と同じように、毎月夜会を開けたらいいのにね」


 両親は不慮の事故と失血で、数年前に亡くなってしまった。

 今は、両親が生きていた頃のようには夜会を開けなくなっていた。

 ヴァンパイアの数が減り、さらに、かつての集会所は反政府組織弾圧のために軍によって監視されている。表立って行動できないヴァンパイアは、貴族であっても生活が苦しかった。

 クロエも、フレディが時おり探してきてくれる女達を糧にして生きている。 

 

 


 貴族院へ出かけていくミカエルの背中を見送って、クロエは庭に出た。

 雨に濡れた芝生を踏みしめる。

 ふと、植木の向こうに傘を差した人の姿が見えた。


「マーティン! 買い物でも行くの?」


 駆け寄っていくと、マーティンは振り返り、柔らかく微笑んだ。


「ああ、お嬢様。はい、少し出かけてきます」

「もしかして、いい“餌”がみつかりそうなの?」

「いいえ、それはなかなか……。みつけたら、お嬢様にもお知らせしますよ」

「ヴァンパイア同士で血を吸えたら手っ取り早いのに」

「体を壊しちゃいますよ?」


 人間でないとは思えない、爽やかな笑顔でマーティンが言う。


「もう一月以上も貧血気味よ。血が……ほしいわ」


 兄のミカエルは血縁者だから血が交ざることに問題があるし、長年秘密を守って仕えてくれている執事のフレディから血をもらうのは契約違反だ。


「おみやげに鎮静作用のあるハーブティーを買ってきますから、お嬢様はお屋敷で安静になさっていてください」

「ありがとう、マーティン」 

 

 二人で傘を並べ、マーティンを裏門のほうまで送っていると、屋敷から執事のフレディが小走りで出てきた。


「お嬢様、今、エンシオ様がいらっしゃいました。応接間にお通ししました」

「はぁ……エンシオさんね。今回はずいぶん久しぶりじゃないの」


 車の修理をしていたらしく、フレディの背広の袖が少し汚れていた。

 今はとてもあの男に会いたい気分ではなかったが、外は肌寒くなってきたし、仕方なくクロエは屋敷へ戻った。 

 

 

 

 

「やあ、クロエ、久しぶりだな」


 憂鬱な雨の日でも快活に笑うエンシオ・ウッドは、応接間のソファーに我が物顔で腰かけている。

 彼は一代で成り上がった商人で、経済界ではちょっとした話題になっている人物だ。

 おもに東洋の芸術品や調度品を輸入して生計を立てているらしい。

 くせのある銀髪をうしろで結び、きりりとした眉が印象的な美丈夫だが、自信家で押しが強く、クロエは彼を苦手としていた。

 いっぽうのエンシオは、数ヶ月前に夜会で会って以降、クロエを気に入り、こうしてしょっちゅう押しかけては交際を迫ってくる。


「ごきげんよう、ミスター・ウッド」


 テーブルに積まれた小箱の数々を見て、クロエは首をかしげた。


「この箱の山は……」

「あなたへの土産だ、クロエ。昨日まで仕事で上海に行っていたんだが、あなたに似合いそうなものが沢山あって、つい色々買ってしまった」


 一息遅れてフレディが紅茶と茶菓子を持って入ってくる。

 ふたりのカップに紅茶を注ぎ終えたフレディに、クロエは言った。


「お前、修理工の方を手伝ってあげてたでしょ。ひとりでは大変だと思うから、戻ってあげてちょうだい」

「では、そうさせていただきます」


 フレディはクロエとエンシオに頭を下げて、部屋を出ていった。  

 エンシオが箱を開けると、宝石やら装飾品やらが次々と出てくる。

 クロエは花や宝石にはあまり興味がないのだと、何度言えばこの男は学習するのだろう。

 すみの方にある小箱の中身を上から覗き込んで、クロエが言った。


「これは何かしら?」

「ああ、それか。間違えて持ってきてしまったみたいだな。中国刀の鍔だ」


 楕円形の金鍍金に龍の文様が細かく彫ってある。


「なかなか洒落ているから飾りにしてもいいかと思ったんだが──興味があるか?」


 クロエは鍔を手に乗せてじっと眺めてから、顔を上げた。


「あの、ちょっとこれを貸して」


 クロエは急いで二階の一室に行くと、壁にかけてある日本刀の中から鍔の抜けている一本を手に取った。

 亡き父は外国の古物が好きだったから、古い刀が何本か置いてある。 

 

 

「まあ、ぴったりだわ!」


 応接間に戻ってきて、刀の柄を抜き、鍔をはめてみると、刀身とかちりと合った。


「東洋風ですごく格好いいわ」


 膝の上で刀を転がして感嘆しているクロエを見て、エンシオはくすりと笑った。


「気に入ったのなら差し上げるよ」

「いいんですか?」

「もちろん。装身具より鍔に興味を示すとは、あなたはやはり変わったご令嬢だ」

「変わっていて結構です」


 クロエが少し頬を膨らませると、エンシオが腰を上げてクロエの隣に移動してきた。


「しかし、あなたにはやっぱりこういうものが似合うと、俺は思うがね」


 そう言って、翡翠の付いたかんざしをクロエの栗色の髪にさした。

 耳の横で揺れている金糸のタッセルに手で触れる。

 愛おしげにこちらを見つめてくるエンシオの、常にない優しい笑みを見てどきりとする。

 シャツの襟からのぞく彼の首筋に、視線が吸い寄せられる。

 だから、今この人と会いたくなかったのだ。 

 

 ヴァンパイアと人間にも相性がある。

 嗅覚が敏感なクロエにとって、香水の下から漂うエンシオ自身の香りは、ひどく惹きつけられるものだった。 

 

「クロエ、大丈夫か? 顔色が悪いな」


 彼から目を引き離して頷く。


「ええ、だいじょうぶ……少し貧血気味なだけです」


 かんざしをはずして置こうとするが、めまいがして手が震えた。


「とても平気そうじゃないな」


 エンシオに抱き寄せられると、抵抗もできずにその胸に倒れ込んだ。


「寝室まで運んでやるから、場所を教えてくれ」 

 

 

 

 

 

 抱きかかえられ、二階の寝室へ連れて行かれる。

 真上にあるエンシオの顔をなるべく見ないようにクロエは目を瞑っていた。

 フレディはまだ外にいるようで、屋敷の中にひとけはない。

 両親が死に、この家もずいぶん寂しくなってしまった。 


「着いたぞ」


 エンシオは寝台にクロエを寝かせ、心配そうな顔で見下ろした。


「汗をかいているな……気分はどうだ?」

「さむい……」


 エンシオがクロエの前髪をかきあげ、自分の額を寄せる。


「熱はなさそうだが」


 そう呟く彼の伏せられた睫毛を見て、クロエは体中の血が沸き立つのを感じた。

 喉が渇き、焼けるように熱していく。 

 

 額を離したエンシオが間近から見下ろして言う。


「いま執事を呼んでくる。少し待っていろ」

「だめ……」


 クロエはおぼろげな意識の中、起き上がろうとする彼の首に腕を巻きつけた。

 体勢を崩したエンシオが覆いかぶさってくる。


「クロエ……?」


 目の前に男らしい太い首が見える。 

 朦朧として何が何だかわからぬまま、エンシオの重みを全身に感じながら、そのシャツのえりを指先でよけ、首筋に口付ける。


「っ!」


 彼の肩がびくりと震える。

 クロエは位置をさだめるように舌で触れ、本能に突き動かされるままに、牙を立てた。 

 

 

 

 

 生温かい血液がのどを潤していく。

 飲み下すたびに、官能的な香りが部屋中に満ち溢れた。

 男性の血を吸うのは初めてだった。

 味わったことのない美味を口に含み、心ゆくまで啜り、溺れていきそうになる。

 しかし、不意に、クロエの手の下で硬直していたエンシオの肩が震え、身を離そうとうごめいた。


「ぅ……っぐ……」


 彼の呻き声を聞いて、クロエはやっと我に返った。

 慌てて牙を抜き、口を離して、彼の顔を見上げる。 

 エンシオは声を飲み込み、驚愕の表情でクロエを見下ろしていた。

 首筋には牙の痕があり、シャツには血糊がついている。 

 

 その時、遠くから階段をあがってくる足音が聞こえた。

 クロエははっとして、呆然としているエンシオの下から抜け出て、廊下へ飛びだした。 

 

 階段を駆けおりていくと、踊り場でフレディにぶつかりそうになった。


「お嬢様?!」


 フレディがこちらを見て目を丸くするが、クロエは立ち止まらずに玄関ホールを駆け抜けた。


(私は、なんてことをしてしまったのだろう! なんてことを──!)

 

 大きく目を見開いていたエンシオの顔を思い出す。

 何も知らない人間を傷付けてしまった。もう、彼に合わせる顔がない。

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