第5話 月光の下で
アイーシャの兄を正妃が養子にすることが決まった。
アイーシャとカシムは、それは良い案だと歓迎した。
後ろ楯の無い兄には都合良く、王妃の機嫌を取るにも権力の均衡的にも最善策だ。
ルーラが臨月も近くなり、アイーシャとの結婚が後ふた月に迫ると、ルーラは初産の不安から生家での出産を切望した。
「ゆっくりしておいで」
アイーシャは十分な費用と護衛と侍女を付けて許可した。
出産予定日を過ぎても連絡が来ないため、家臣を様子を見にやらせると、ルーラは難産で亡くなり、子も死産だったという。
なぜすぐに知らせてくれなかったのかと憤りを感じたが、ルーラの家族の沈痛な様子に怒りを向ける矛先を失った。
既に葬儀も済ませており、ルーラの死に目にも会えず、子の顔すらも見ることができなかったアイーシャは深い悲嘆と喪失感に苛まれた。
カシムには、かける言葉も見つからなかった。
アイーシャの結婚は振り出しに戻った。
再び喪に服し、アイーシャは自分の妻を持つ気はもうなかった。
そんな中、養子になった兄が隣国の姫を娶ることになった。
そうだ、兄が継げば良いのだ。それで全て丸く収まる。
自分は陰で兄を支えればいいのだとアイーシャは、王になることを拒んだ。
王妃にもその意向を伝えると理解を得て、協力関係を結んだ。
だが、父王が強硬にアイーシャを王に据えようと画策し、執拗に夫をあてがおうとした。
アイーシャ用にハーレムまで作ろうなどという馬鹿げたことまで言い出している。
父と衝突し反発するうちに、父から軟禁状態に追い込まれてしまった。
礼拝の祈りの声が、花の香りと一緒に風に乗って部屋まで届いて来る。
中庭の噴水が月光で煌めいている。窓から見える光塔を眺めながら、アイーシャは深い溜め息を吐いた。
「カシム、わたしはどうすればいいんだ?」
アイーシャは憔悴を隠せない。
「姫様が王になればよいのです」
「なっ······、あなたまでそんなことを!」
カシムはターバンを外して、長い褐色の髪をほどいた。
そして、傍にあった蝋燭を吹き消した。蜜蝋の甘い香りが一瞬濃厚に漂った。
「アイーシャ様、私ならばあなたを王にも女王にもすることができます」
「······カシム?」
「私でしたら、あなたの妻にも夫にもなれるのです」
蝋燭の火が消えた部屋は、窓から差し込む月光に照らされ、飾り窓の透かし模様の影を壁や床に作り出している。
アイーシャはカシムの金色に緑が混ざった瞳から目が離せなかった。
見慣れた筈の美しい瞳に宿る熱に射貫かれる。
カシムの細くしなやかな指先がアイーシャの頬に触れた。
距離を詰めて来る彼から逃れようと後ずさりすると、カシムがアイーシャを抱き上げて寝台へ運んだ。
「待って、カシム、何をするの?!」
狼狽したアイーシャは怯える少女のような表情を浮かべた。
「あなたがアフマドに汚される前に、ルーラと睦む前に、もっと早くこうすれば良かった······」
カシムは掠れ声で絞り出すように自分の後悔を告げた。
今まで見せたことの無い彼の欲望を感じて、アイーシャは戦いた。
カシムはアイーシャの許可を得ずに彼の唇でアイーシャの唇をふさいだ。
抗おうと思うのに、今まで経験したことの無い甘美な感覚に身動きができなかった。
息苦しさに喘ぎながら、やっと唇が離れた。
「どうして···?」
「アイーシャ様、私ではダメですか?」
「······ でも、あなたは宦官でしょ?」
「私はあなたと同じ、ふたなりです」
「?!」
カシムは歴代の宰相を輩出する名家の嫡男だったが、ふたなりで生まれたために宦官の道を選んだ。
彼が去勢を受けていなかったのは、月のものが終わらずにいたため、その出血を既に去勢済みと誤って判断されたからだ。
宰相家からの極秘情報で、生まれたばかりのアイーシャがふたなりの姫と聞かされてから強い興味を覚えた。
同じふたなりならば、わかり合い、王女の力になれるのではないかと期待と希望が芽生えた。
はじめて王女に引き合わされた。五歳のあどけない幼女は愛くるしかった。
銀に黄緑が混ざった幻想的な色彩の瞳に見惚れた。
宦官になることへの迷いはなかった。
従者だけが見ることができる彼女の素の姿をすぐに愛するようになった。
王が固執した予言に翻弄される彼女を、ただ守りたかった。
「アイーシャ様、私をあなたの妻と夫に選んで下さい」
「······本当に······わたしでいいの?」
「私には姫様しかおりません」
自分の身体を支えているカシムの腕に力が込められた。
アイーシャはカシムの膝の上に座らせられたままだったことに気がつき、アイーシャはどぎまぎした。
自分が今までこんな感覚になったことはない。
ルーラを愛した時ですら、これ程のときめきはなかった。
これではまるで恋する少女のようではないか。
······それはどこまでも自分には不似合いで、こんなにも不恰好なのだろう······。
アイーシャは羞恥といたたまれなさから、顔から火が吹きそうだった。
「この体勢、お、重くない? お願いだから、もう降ろして······」
「嫌です」
カシムは更に力を込めてアイーシャを抱き締めた。
幼い頃、淡い思慕を抱いた美しい人の腕の中に自分がいることに、アイーシャは信じられない思いでいる。
「夢では······無いのよね?」
カシムは耳元でクスリと笑った。
「もちろんです」
カシムの声がいつもよりも甘く響いた。
アイーシャの銀の瞳が大粒の涙を溢した。
それをカシムは唇で優しく拭いとると、再びアイーシャに口づけを落とした。
残り1話です。
気がつけば、この作品、笑いどころが全くありませんでした(汗)
なぜこのような作品になったのかは、作者にも謎です。
あと1話、お付き合いくださいませ。