第 8 話 望まれて ここに在る[中篇]
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「夕餉の支度、整いましてございます」
扉の外からの声に、晶貴達は廊下を挟んで向かいの部屋へと移動する。
あまりにも近い距離の為、晶貴が陣での移動を拒み、徒歩で移動することとなる。
扉の前で警備をしていた二人は、晶貴達が廊下を移動する間、彼らに背を向ける形で左右を護衛していた。
廊下のかなり端にちらっと人影が見えたことから、神の一枝たる晶貴の姿をまだ他の誰にも見せない為なのだろうと判る。
さほど離れているわけではないので、移動は短時間だ。
警護していた者たちの手で扉が閉められると、大神官は右手を扉に向け、そのまま天井へと振り上げた。
指先から光の様なものが音もなく出、部屋全体へと広がってゆく。
朝露を浴びた蜘蛛の巣の網目の様に見えるそれを眺めていると、大神官が「おや」と、声をかけてくる。
「シンディン様はこうした結界まで視えなさるのか」
「あ、これ結界なんですか。綺麗な網目ですねー」
「お褒め頂きありがとうございます。さ、こちらへ」
誘われ振り向けば、そこには想像通りというか、それ以上の御馳走が大きなテーブルの上に所狭しと並べられていた。
『……何十人分て量に見えるんだけどなー』
騎士の二人も貴族階級。
国王や太子、大神官まで居るのだから、ある程度は予測していたが、どうやら神の一枝という存在はこの世界でかなりの重さがあるようだ。
想像するに、この目の前の現状は、神の一枝として降臨した者が、どのような嗜好をしているか判らないからと、厨房が腕をふるって必要以上に作りあげてしまった結果なのだろう。
上座へと歩み、椅子に座る前に晶貴は一歩引き、止まる。
きょろきょろと辺りを見渡し「ふむ」と一言。
「どうか、なされましたか?」
大神官が心配げに問いかけると、晶貴は笑みを返してきた。
「いや、流石にこのままで食事はしにくくてね」
そう言うと、首元へ手をやり何かをつまむ動作の後、すっ、と一直線にその手を下げる。
ぱちっ、と小さな音の後、晶貴は着ていた黒の上着を脱いだ。
そして自分が座る椅子の背に、それを掛ける。
「あっちの部屋で上着脱いでくれば良かったんだけど……埃を立てる様で申し訳ない」
苦笑しながらの軽い謝罪を、国王達は耳から耳へと素通りさせてしまう。
上着を脱いだ事で、晶貴の姿がより鮮明に映る事となる。
背はリクサムより少し低めだが、すらりとした細身の身体なので決して低くは見えない。
藍色のパンツとよく合う、目の細かい生地で作られた薄い青色の着衣。
青色の着衣の下にももう一枚着込んでるようで、ボタンを外している首元にも黒い生地が見える。
それら全てが短く刈り込まれた黒髪や金の瞳と合わさって、ひとつの美をかもし出していた。
顔立ちは整ってはいるが、決して際立った美しさではない。
けれども、惹きつけられる甘美な何かに、若い太子や騎士だけでなく、壮年である騎士や国王、果ては神職である者までも、呑み込まれそうになる。
晶貴は王達のそんな視線を感じないまま、椅子へと座った。
上座が埋まった事で国王達も座る。
ダレスとルドルフは立ったままだった。
ダレスが言う。
「本日は他に人手がありませんから、私たちは給仕に回らせて頂きます」
「一緒に食べないの?」
「……給仕の合間に食べる許可を頂けましたら」
苦笑しながら言うダレスに晶貴は吹き出す。
決まり事とは言え、料理がこんなにいい香りを漂わせている中、それを食べられずに給仕だけでは苦行だろう。
「全く、面倒な仕組みだ。……許可するから、しっかり食べて下さい」
「「ありがとうございます」」
夕餉が始まる。
正式な晩餐とかではないので、挨拶や乾杯などはしないとの事だった。
「こちらが水、こちらがカリデという甘味を帯びた果物を絞った飲み物です。シンディン様、お酒は?」
「あまり強くないものならイケる」
「そうですか。では見繕って……」
脇に置いてあるワゴンの様な入れ物の中を探すダレス。
その間にルドルフが晶貴に聞く。
「聖天樹閣下、肉と魚、どちらにしましよう?」
「あまり辛くないのはどっち?」
「本日の中ではバルア肉の……野菜がけですかね」
「じゃあそれで」
まずは晶貴の意見を聞き、料理や酒が数品選り出される。
そしてルドルフは同じものを少量、国王の前に用意した。
国王はナイフとフォークで器用に口元へ料理を運び、咀嚼し嚥下する。
そして、少し間をおいて水や酒を口にする。
食事に使う道具類が、元居た世界と殆ど同じなのは、同じ人間の姿をしている以上、この世界でも今に至るまで似た様な生態系が進化退化を繰り返し、それに伴って近い形の文化と歴史があるという事だろう。
ただ、必ず口に合うとは限らない。
人間と聖霊、この二種類以外、まだこの世界の生き物を見た事がないのだ。
水に住む魚と言っても、自分の見知っている魚ではないかもしれない。
鳥だと言う呼び名が同じでも、その姿かたちが同じとは限らない。
けれども。
人体に害なく、滋養があり美味なるものこそ、食用として愛でられるものの筈だから。
きっと、美味しいに違いない。
晶貴は自分の内のドキドキを楽しみながら、待つ。
「よかろう」
国王の一言で晶貴の前に酒と料理が並べられた。
「いい香り」
一言そう言い、晶貴は胸の前で両の掌を合わせる。
「いただきます」
まずは酒。
透明だった器に注がれた酒は、全体的に透明な色合い、けれどもほのかに緑がかっている。
澱はない。けれども酒本来の濃度の所為か、器の底が少しだけ濃く見えるのが美しい。
香りをかぎ、少しだけ舌の上で転がし飲み下す。
「香りは重い。でも、すっきりとした味。甘さはあるけど、果物の甘さに感じない。穀物か何かのお酒?」
味は日本酒に近いけれど、香りが泡盛の様な香りだった。
でもワインの様に呑みやすく、美味しい。
「レマという穀物から造られている酒です。若い方は好んで飲む種類なんですが……如何ですか?」
ダレスの説明に晶貴は笑顔を向ける。
「美味しいです。で、この酒はこれに合うのかな?」
晶貴はバルア肉の野菜がけという料理に、さくりとナイフを入れる。
表面はこんがりと焼き色があるが、中は白みがかった桃色の肉。
その肉に黄色いソースであえられた色とりどりの野菜がからめられている。
まずは肉。そして次は野菜のソースをからめて口に入れる。
「うん。美味しい」
使われている独特の香辛料のせいか、食が進む。
バジルやコリアンダー、ナツメグを混ぜた様な、そんな香り。
「あっさりしてるから鳥の肉かな? 野菜の方は果菜や根菜を混ぜてる感じ。味付けは違うけど、似たような料理を食べた事があるよ」
自分の好みとしては、これに少量のパセリの風味があれば一番。
そう思いつつ、合間にレマ酒をぐいっと呑む。
酒と料理、相性も悪くない。
「それは、一般の家庭でも良く飼われてるバルア鳥の胸肉です。もっと酸味が欲しい場合は、このソランという果実を絞ったものを掛け足す」
果実を示し、その傍にある入れ物の汁を指すルドルフ。
「へー、そうなんだ。今度、この料理があったらやってみよう」
楽しそうに料理を口へと運ぶ晶貴の姿に、大神官たちは安堵の息をついた。
酒が入っているとはいえ、何品か食すと、もうお腹いっぱいになった。
料理はまだまだ残っているが、辺りを見れば国王も太子も、もう殆ど食事に手をつけていない。
ルドルフとダレスも、給仕の合間に手際よくしっかりと食べている様子だった。
主賓が終わらないと食事が終われないのは、多分この世界でも同じなのだろう。
「美味しかったです。御馳走様でした」
晶貴は両手を合わせて食事の終了を示すと、国王達も口々に食事を終了してゆく。
全員が食事の終了を述べた所で、大神官が「本来こういう事はしないのですが」と前置きして、椅子以外の品々……皆の食べた後の食器類や、残った料理の乗ったテーブルごと、移動の白の陣で消し去った。
そして消えたと見えたその直後、別のテーブルがその場に転移されてくる。
新しいテーブルの上には焼き菓子のようなものと果物、そして茶器らしいものが置かれていた。
ルドルフとダレスが手際よく茶を淹れ、皆へと配る。
紅茶に似た良い香り。
けれども、まだ熱そうなので暫く香りだけを愉しむことにした。
「普通は宴席場を二手に分けて設えるものなのですが、こちらの部屋ですと少し狭く、設えた別室へと移動するしかありませんでしたので、急遽こういう方法を取りました」
「移動してもよかったのに」
ぽつりと漏らす晶貴に大神官は苦笑を伴いつつ、言う。
「まだ、神の一枝さま降臨のお披露目すら済んでおりませんから、あまり衆目に晒す事はしたくないのです……つまるところ、色々あるんですよ、手順が」
「良く分らないけど、明日、聖天神殿に行くんだったよね?」
食事中に聞いた内容を確認する晶貴。
「ええ、そうです。明日、聖天神殿で聖樹に触れて貰うのが最初という決まり事となっております」
「神の一枝として正式に認められるのがその時だ、って言ってたけど。何か、変わるの?」
「それはまだ、申せません」
笑みの中に真剣さを潜め、大神官は告げる。
「神の一枝さまは、触れれば『理解する』のだそうです。記録にはありませんでしたが、過去、どの神の一枝さまも『聖樹に触れ、理解し、目覚める』とあります」
「……触れるのは分る。理解するってのは良く分らないけど……もっと判らないのが目覚めるってヤツだな」
「うーむ」と唸る晶貴は色々と想像してみる。
「新しい能力に目覚めるとか、何かを間違えてて正しさに目覚めるとか……想像するといろいろ出てくるけど。これまでの記憶が消えて新しい人格になる、とかだったら絶対に嫌なんだけど」
これまでの人生、色々な事があった。
決して人並みとは言えないだろうそれを、晶貴は消したいとは思わない。
生まれ落ち、生きる。
簡単な言葉だけれども、人間として生き抜こうとすると、そう簡単ではない言葉。
これまでの人生が自分の中で消えてしまうと言う事は、これまで行ってきた自分の生き方や努力が全て水の泡……無駄になってしまうという事。
記憶を無くしてしまえば関係ないのだろうが、それでも晶貴にとっては重要なものの一つだった。
世界の中で、国によって違う倫理観の中、わりとまともらしいと感じる国に生を受け。
その中でもごく平均的な一般家庭に生まれ落ちた。
これまで色々と。
本当に色々な事があったけれど。
それを消したいとは、決して思わない。
晶貴の言葉に大神官は言う。
「これまで降臨なされた神の一枝さまの誰一人、それまでの記憶を喪ったり改ざんされた方は居ないと思いますよ」
有り得ない、と。思っているからこその真っ直ぐな言葉。
「聖天神殿には聖天様から賜わった神書以外にも、沢山の書がございます。その中に、これまで降臨なされた神の一枝さま直筆の書も多々あるのです。その直筆の書を読まれた後代の神の一枝さまの説明では、記憶の改ざんなどはなく皆さま御自身の意思で神の一枝たる存在を納得されたのだと」
「直筆……?」
怪訝な顔をした晶貴が、次の瞬間眼を見開く。
「それって、もしかして……この世界の人じゃ読めない文字で、って事?」
「はい、御察しの通りです。伝え聞いておりますに、各々さま方の生国の文字らしいです」
「…………らしい、という事は、この世界の人は誰もその言葉を読み解いてないって事?」
「過去の神の一枝さまの書を読み解いた者は存在しません。ただ、誰も読めなかったのか? という事になると、そうでもないのです。歴代の神の一枝さまから直接文字を教わった方も居ましたから、その者たちはそれを読み解く事が可能でした。けれどもそれらは『次代へは』伝わらないのです」
「伝わらない?……何で?」
「忘れてしまうのです」
「は?」
首を傾げる晶貴に、大神官は言う。
「神の一枝さまが御逝去なされた後、関わった人々から、余剰な記憶が消えてしまうのです」
「余剰な記憶?」
「そうですね……神の一枝さまの性格や雰囲気とか、日常生活などは皆の記憶に根付き、しっかりと残ります。ですが、先程お伝えした神の一枝さまの生国の言語の知識ですとか、その姿かたちや色彩とかが主に記憶から消えてしまうのです」
大神官は静かに言う。
「何か書物として記録しようとしても、神の一枝さまに関わるそういったものだけが文字に残せません。口伝で残そうとしても、喉から声が出せません」
「理不尽な」
晶貴が大神官の言葉を遮る様に呟く。
「神と呼ばれる存在があり、その体現……代理のような神の一枝を存在させている。ならば、その存在を流布し続ける事こそ大切だろうに。記憶まで改ざんする必要性があるとは思えない」
人の人生において、その記憶は人生そのものと言ってもいいだろう。
その記憶を部分的とはいえ、自分自身の都合ではなく、他者に改ざんされる。
それが、神と呼ばれる者の成す事とはいえ、とてもまともとは思えない。
そう思っての晶貴の意見に、大神官はうっすらと笑みを浮かべ応じる。
「シンディン様は本当に聡明でいらっしゃる。神の御心に相対して真っ直ぐに意見を述べる事が出来るだけの御自身の気概をお持ちだ。けれども、先程の……只人の記憶の改ざんこそ、神の、聖天様の優しさなのです」
大神官は穏やかに語る。
「貴方様がこの世界に降臨されて。それが、その場で神の一枝さまだと……そう皆が理解できるだけの知識があったとしたら。先程の様な場所に移送されると御考えなさりますか?」
その言葉に晶貴は暫く思案する。
神の一枝が神の代理人たる存在なのだと知っている者たちが、晶貴をそれと知らずに牢へといれたという事実。
それが何を意味するものなのか、考えてみる。
食事の間に聞いた、もうひとつの話。
それは、自分がこの世界へと降り立った時の話。
民間人との謁見の最中、予測もしなかった魔法攻撃が太子へと向けられた。
その時、突如として攻撃と太子の間へ人が現出した。
その人物は背中に浮き出た魔法陣で攻撃を全て呑み込むように受け止め、さらにその攻撃を倍返しにして相手の魔法陣へと叩き返したのだという。
自分はすぐに気を失ってしまい、記憶は僅かしかなかった為、その話は非常に興味をひくものだった。
現出してきた人物によって、周囲への被害もなく、失われた生命もない。
あるのは多大なる感謝くらいのものだろう。
けれども、立場を逆転して考えれば、これほど怪しい人物も居ない。
どのような術かは判らないが、初めて見る術。
助けてやったんだから感謝しろ、と言わんばかりの局面。
恩を売った後、何かしでかすのではないかという疑念。
だが本当に疑念が深ければ、枷など付けずに置いておかれるなど有り得ない。
その人物の人となりと正体がはっきりするまで牢へ置く、と。
国王と太子がとった牢への移送は、真に妥当だと思える。
では。
その現出した人物が、最初から神の一枝だと一目で判っていたとしたら。
初めて見る術だとしても。
[神の一枝さまだから、そういった事が出来ても不思議ではなかろう]と、納得してしまう。
国王太子以下、皆の生命が助けられた事に対しても。
[この国はそれほどまでに聖天様に愛されている国なのだ]と、歪んだ解釈がまかり通る事となる。
神の一枝という存在が、只人よりも遥か上に置かれるこの世界で。
神の一枝の意思に沿わぬものは、全て排除しかねないその中で。
そういった想いと感情が引き起こすもの。
晶貴はゆっくりと口を開く。
「もし、最初から神の一枝だと認識されていたら。品物を持ってきた民間の拝謁者は取り調べされる暇もなく瞬殺されていた可能性が高いな。……例え後で本来の犯人と違うと判っても『神の一枝さまを傷つける様な原因を持ってきた者なのだから、殺されて当然』と、名誉回復もされない筈だ」
視線を大神官へと向ける。
「聖天の優しさとは、厳しさの事。考える事を放棄するな、という教えか?」
「その通りにございます」
大神官は晶貴に頭を下げ礼を成す。
「聖天様は我ら只人に常に前進を望まれておられます。慈悲深き聖天様の体現である神の一枝さまをお迎えするのは只人にとって至上の喜び。けれども、神の一枝さまに縋り甘えるだけでは……只人は皆、赤子の様に脆い存在となってしまうでしょう」
「だからこその記憶の改ざん、か。なるほど」
理解した晶貴は軽く息をつく。
「で、確認しておきたいんだけど。皆の記憶から神の一枝の姿かたちや色彩とかが消える。そんな中で、貴方はどうやって私を神の一枝だと認識できたんだ?」
大神官がその頭を上げる。
その瞳に憂いは無い。
「聖天様より授かりしものに、神書というものがございます。聖天神殿に務める神官の中でも、高位神官のみが神書を読む事が可能なのですが、神書には聖天様の御心の内や我ら只人への想い等、様々な事が書かれており、水に落としても濡れず、火にくべても燃えません。神本人が書かれたという書なものですから、我ら只人はその書に文字一つ書き加える事すら不可能なのです。その中に、神の一枝さまについての記述もございます。神書に書かれている神の一枝さまの大きな特徴として、神気と神眼がございます。聖樹と同じ性質の神気は、計り知れないほどの壮大さを持ち、神の吐息たる聖霊の力は神の一枝さまに追従する。そして神の一枝さまの持つ金の神眼は、その感情を現し様々に色彩を変化させる。……神書にはそうあります」
真っ直ぐ晶貴を見つめる大神官。
「そのどちらも兼ね備えておられるシンディン様は、確かに神の一枝さまに相違ないと存じます」
晶貴は大神官の話を脳内でまとめようとして「ん?」とその両眼を見開いた。
「……神眼というのは、金眼、なの?」
「はい。今現在シンディン様の双眼にて光り輝く金色でございます」
「金色か…………へー」
どうやら肌の白さに拍車が係っただけでなく、瞳の色まで変わっている様子に、晶貴は苦笑する。
「神の一枝の特徴が金眼だというのなら、この世界の人々に金色の瞳は生まれ出無い、という事かな?」
「金色の瞳は神の一枝さま特有のもの。それ故、只人がその色で生まれ落ちる事はございません」
「…………了解した」
先程一度あったように、晶貴の瞳が一瞬だけ黒に染まり、金に戻る。
会話の終了を告げる代わりに、晶貴はそっと茶器に口をつけた。
すっかり冷めてしまってはいたが、薄甘く、飲みやすい味だ。
「只今湯あみと寝台の用意をさせております。支度が出来次第、先程の部屋へと戻りますので、宜しければ就寝前に奥の間にあります湯殿で湯をお使い下さい」
ダレスが晶貴にそう告げると、晶貴は思い出した様に訊いた。
「そういえばあの部屋、鏡が一枚も無い様に思えたけど……鏡ってある?」
この世界の文化様式がまだ今いち良く分らないが、これまで居た世界と近くみえるのだから、水鏡に始まり銅鏡に銀鏡と変化してゆく道具の中、近いものがある筈だと晶貴は考えていた。
ダレスは頷く。
「御客様の中には鏡を嫌う方もおられますので、部屋に常には置いてないのです。御必要であれば設えますが」
「室内に手鏡と置き鏡。あれば、脱衣所に大鏡。湯殿にも置き鏡が一つ欲しい」
「承知いたしました。すぐに手配させます」
ダレスは一礼し、部屋から出て行く。
暫くして湯殿と寝台の用意が整ったと連絡が入ったので、晶貴達は再び元の貴賓室へと戻る。
つい先程までこの部屋に人が居たのだという気配が、仄かな温かさとして残っている。
壁を見れば置き鏡が、寝台の近くのチェストには手鏡が用意されていた。
昨夜は結局入浴などできずに寝た形になるので、少し肌着が気持ち悪い。
晶貴は湯を使いたいという事を告げると。
「まだ、シンディン様付きの者が決まっておりませんので、私どもが湯あみの介添えをしたいと思いますが」
と、ダレスとルドルフが足を踏み出しつつ申し出た。
晶貴はくすくすと笑う。
「や、一人で入れるから大丈夫。考えたい事もあるしね」
『流石に、それはちょっと、ご遠慮申し上げたい』
内心でも苦笑いが止まらない。
そんな笑みの晶貴に、大神官が言う。
「では、シンディン様が湯をお使いになられる間、こちらの部屋にて私どもは控えさせていただきましょう。何用かあればお呼び付け下さい」
「是非、そうして下さい」
ハダカのお付き合いに至るまでは、まだ越えねばならない関門があるのだ。
晶貴はダレスに脱衣所へと案内され、トイレや湯殿の位置関係や各場所の説明を受ける。
「お脱ぎになられた着衣はこちらへお願いします」
「脱いだ服を勝手に持っていったり、水洗いとかしないで欲しいんだけど」
「承知しました。では、後ほどシンディン様の御前で水なしにて洗浄致しましょう」
「へー、そんな事できるんだ」
「聖霊を扱う方法ですので、シンディン様もお出来になれると思いますよ?」
「そうなの? 後でやり方ゆっくり見せて貰おう」
新しい事ばかりで好奇心が尽きる暇もない。
楽しそうに晶貴は微笑む。
「御身体を洗う為の織布や手布、濡れた御身体を拭く浴布類はこちらに。あと、こちらに、勝手ながら新しき肌着と夜着とを御用意させていただきました。寸法も何種類か御用意いたしましたが、何か御不自由があれば、何なりとおっしゃられて下さい」
「うん。ありがとう」
一礼をして脱衣所から出て行くダレス。
晶貴は再度、脱衣所の中を見分した。
今説明して貰った物の置き場を再確認し、設置されている大鏡を見る。
『ほぉぉ―――――――――――』
溜息と共にもう一度、じっくりと鏡に近付き見つめる。
『うわー、ほんとに金色だよ! 何かガラスと金属の中間みたいな色あいだねぇ……おお! 虹彩がビミョーに色変わりするのか! なるほど。これが先刻言ってた感情で変わるという事か』
ひとしきり眺めた後、晶貴は服を脱ぎ、いつものように自分の身体を上から下まで見る。
『何か白っぽいと思ったら、火傷の痕とかシミとか小さなほくろとか全部無くなってるし!』
異世界へ移動するにあたって、どのような等価交換があったのかは知らないが、大した美白効果である。
『身体は……いつも通り。髪の色は黒のままなのか』
ひと通り確認して満足したのか、晶貴は浴室へと向かう。
湯船にはたっぷりの湯が張られていた。
一つだと思っていた湯船は横にもう一つあり、先程見落としたらしいそれの深さは足首が浸るくらい。その上の方に何か動物を模った彫像がありそこから湯が吹き出ている。
自由落下で下方へと落ちる湯は、シャワーの代わりなのだろう。
晶貴はそちらへ足を踏み出し、丁度良い温度の湯を頭から浴びた。
軽く全身を湯で流し、深い方の湯船へと身体を沈める。
こちらの湯加減も丁度良い。
湯船の深さは、立ち湯も出来る深さから腰下の深さまでと、何段かに分かれているものだった。
一度、肩の辺りまでつかった後、腰の深さの部分へと移動して足をのばし、半身浴の形を取る。
温まったら身体を洗おう、と。そう思った時。
「シンディン様、申し訳ございません。少々、入っても宜しいでしょうか」
脱衣所の扉の奥からダレスの声が聞こえる。
「御身体を洗う石鹸の置き場をお伝えするのを失念しておりました」
「どの辺り?」
「それが、口頭で説明するのが難しいものなので」
口ごもるダレスに、晶貴は溜息をついた。
幸い、浴室は湯気だらけで視界が良くない。
半身浴状態でもあるし、はっきりと全身が見える事もないだろう。
万が一の時は湯に沈めばいい。
晶貴はそう考え、応じた。
「どうぞ」
晶貴の了承に、ダレスが入ってくる。
視線を晶貴の居る湯船には向けずに、湯船の向かいの壁へと向けていた。
「こちらの壁にある、この模様がお分かりいただけますか?」
「んー、どれ?」
「私の指先にある、花の様な輪郭と、何かの顔の様な模様がある部分です」
ダレスの指し示す場所が、湯気とダレス本人の身体で隠れ、少しばかり見づらい。
晶貴は少し自分の場所を移動した。
「この模様の、花の様な輪郭の中の突端を触ると下の部分が開き、固形の石鹸が出ます」
見れば、ひまわりの花弁のように見える一箇所だけが飛び出ている。
確かに何も言われなければ、ただの飾り彫りにしか見えない場所だった。
ダレスはその突端へ触れ、かぱりと開いた壁から石鹸を取り出す。
石鹸が取り出された後も壁はその一部分だけが開いたままだった。
「使用後、もう一度この場に石鹸を置くと再び壁が閉じます。ゆっくりとした閉じ方なので大丈夫だとは思いますが、御手を挟まれません様、お気を付け下さい」
そう言うと、ダレスは再び石鹸を取り出した場へ置く。
言われたようにゆっくりと壁が閉じられてゆく。
「石鹸は出したままでも構いませんが、湯に溶けやすいものなので濡れた床に直に置きますと無くなりますし、何より床が滑って危ないです。もし一つの石鹸が無くなりましても、壁には何箇所かこの仕組みがありますから、そちらをお使いになって下さい」
確かに言われないと判らないものだったので感謝しつつ、晶貴は声をかける。
「わかった、ありがとう」
「いえ、こちらの不手際にございま」
説明の為下げていた頭を上げながらの、ダレスの言葉が途切れた。
「? どうかした?」
「っ……ああああああああ!!! し、失礼しましたっっ!!!」
入ってきた時の静かさとは逆に、叫び声を上げつつ猛スピードで浴室から出てゆくダレス。
「?………………あ」
晶貴はようやく気がついた。
先程の石鹸の取り出し口のある少し上に、少し大きめの置き鏡が見える。
鏡は湯気の立ち上る中、少しも曇らずに辺りの景色を映し込んでいる。
角度から考えると、移動した晶貴の姿は頭を上げたダレスにも、鏡を通して十分に見える位置だった。
晶貴もその鏡に映った自分の姿……小さくも形よく膨らむ双胸を見て、不思議そうに「ありゃ?」と首をかしげ、何かを納得して苦笑した。
『こういう場合、叫び声を上げるのは私の方だと思うんだけどな……ま、とりあえず。説明は入浴後まで待ってもらおう』
人差指で頬をかりかりと掻きながら、晶貴は身体を洗う為に湯船から出る。
やっぱり長くなっちゃった(´・ω・`)
こんな所で切るな! とか言われそうだけど、これ以上長いと読みにくくなりそうなので、ぷちり。
後編では、晶貴さんの落ち着きの理由を。