2011年3月15日(火)
今日こそ確実に、我々の居住エリアでも計画停電が実施されるとのことだった。
予定時刻は15:20~。職場にて、それまでは通常通りに業務を行うように通達された。
ところが、15:20になっても停電の起きる様子はない。本日もまた中止だろうか。
しかし、その後の15:50頃。
清掃に使用されていた掃除機をはじめ、周囲の照明が突如として一斉に落ちた。
室内の非常灯が点灯し、非常警報の電子音が鳴り響いていた。
予定通り、計画停電が開始されたようだ。(その後、予定より30分遅れの計画停電がデフォルトとなる)
停電中は工場現場へは立入禁止とされていたため、みんな社員食堂に集まって手持無沙汰に待機していた。それぞれ携帯電話をいじったり、話をしたり、読書をしたりしていて、まるで休憩時間のようだ。テーブルに伏せて仮眠をとっている人もいた。
私は、地震の時に中断したままだった保存試験の検品の続きをすることにした。現場と違い、電気を使わない仕事は結構あるものだ。
とはいえ、かつて経験したことのないこの状況下では、なかなか落着いて仕事に没頭できるものではなかった。そわそわしてしまい、何度となく席を立って照明の落ちた社内を見回ってみた。我ながら、だいぶ子供じみている。結局のところ、業務の進捗はいまいちだった。
停電はその後定時まで続き、現場の連中は作業を再開することのないまま、退社となった。大量に業務が残っている部署のみ、停電終了まで待機するそうだ。
タイムカード機も停電で停止していたため、総務部が懐中電灯で照らしながら皆のタイムカードに手書きで退社時刻を記入していた。
先に行われた管理職会議で、停電によって勤務時間が定時を回っても、超過勤務代や残業手当が支給されないことが決定していた。仕事はまだ残っていたのだが、残業がつかない以上早く帰るように、と部長に言われた。よって私も退社することにした。
外はまだ明るかったが、信号機やコンビニの灯りが全て落ちていて、何とも言えず不思議な印象を受けた。大きな交差点に出るのは大変そうだと思っていたが、思ったよりお互いに譲り合っているらしい。特に問題もなく無事に帰寮。
その頃には既に陽が落ちかけていて、室内はいくらか薄暗くなりつつあった。
ふと、以前クリスマスケーキについてきたローソクをいくつか保管していたことを思い出した。持ち出して来て、それに火を点けてみる。さらに押入れの中に、長年使用する機会もなくしまい込まれていたアロマキャンドルや液体キャンドルなどがあったことを連動的に思い出し、それら全部を引っ張り出してきた。まさか、こんな形で役立つ日が来るとは考えてもみなかったが。
2~3個のローソクに同時に火を灯すと、室内は意外と明るくなった。ぼんやりと座って炎を見つめていると、部屋に寮の先輩が訪ねてきた。灯されたローソクと、その前に座る私を見るなり、
「何これ。何の儀式?」
と訊かれた。何と答えるのが正解だったのか。
その後、特にすることもないので布団の中に潜り込んでしまった。結局のところ、電気が全く使えない停電中は寝るのがいちばん有効な気がする。携帯電話をいじることくらいはできるのだが、停電中の万が一を考えると、バッテリーの無駄遣いは控えるべきであろう。
思ったより深く眠りこんでしまい、起きた時には23時を回っていた。
停電はとうに解除されていた。TVを点けると、地震情報が放送されていた。どうやら、寝ている間にまた地震があったらしい。
今度は静岡県が震源地で、富士宮で震度6強を観測とのこと。それだけの規模ならこの群馬でもだいぶ揺れたはずなのだが、全く目を醒まさなかった自分に呆れる。
それにしても先日の地震以来、震度5を超える地震が当たり前のように頻発し、多少のことでは誰も驚かなくなってしまっている。少し前なら、震度5を超えただけでもちょっとした騒ぎになっていたはずなのだが。
夕食がまだだったことを思い出し、食事をとりに社員寮の食堂に向かった。
遅い時間なので、既に食堂に人の姿はなかった。電力不足で節電が叫ばれているというのに、誰もいない食堂は煌々と灯りがついていて、エアコンもフル稼働になっていた。
食事を済ませた後、私が全てスイッチを切って回った。
こんな時くらい、誰か節電を意識すればいいのに。
余談ではあるが、この時のアロマキャンドルの香りは、その後長年にわたって私に震災の記憶を刻み込んだ。
同じ香りを嗅ぐ度に、あの計画停電の時の記憶が、そして気持ちが、私の中にまざまざとよみがえってくるのであった。