叡山異聞
叡山の南面、森深くに垂れる名もなき滝の畔が、若き学僧、蓮長の瞑想の場であった。
混迷の世に一縷の光を求め遊学に励んで早や幾年、未だ悟りは遠く道は靄霧にかすむ。だが近頃になって一つの標を見出し、より深きを得んと思索に没頭する日々が続いていた。
さる秋の日のこと。
「坊様」
岩上に座する彼の背中に、何者かの声が掛かった。声色から察するに女人らしい。
「客人か、珍しいな」
眼前の滝を見つめたまま、蓮長は穏やかに返す。
声の主はそれには答えず、正面に回ると岩の上に腰を降ろした。
歳は三十を越えていようか。枯れてはいるものの、かつての美貌を忍ばせる面影を備える。ただし額から左の頬にかけて大きな傷跡があり、左眼は閉じている。整った顔立ちが、翻って半面の無惨を際立たせていた。
「岩の淵は危うい。後ろに下がりなさい」
すると女人はくすりと笑う。
「だって、こうしなきゃ坊様の顔が見えないじゃないか」
確かにその通り。だが場所を譲ろうつもりもない。むしろ修行の邪魔をしないで欲しいと願う気持ちの方が大きかった。
「坊様はここで何をしているんだい」
衣は色褪せ煤け、そこかしこが擦り切れている。顔の様も含め、楽とはいえぬ暮らしぶりは容易に見て取れた。
だがこのような民は珍しくもない。戦に病に飢饉、巷には苦しみが溢れ涙を知らぬ者などおらぬ。この女人もおそらく、戦か賊禍に見舞われたのであろう。
斯く苦世であればこそ。
「衆生救済、その道を探っている」
「へえ、どうやって?」
「仏の教えによって」
「だったらこんな山の中で考え事なんかしていないで、街へ出て説法でもしたらいいじゃないか。もっとも、そんなもので救われる奴なんかいやしないがね」
蓮長は言葉を切り、目を伏せぎみに応える。
「未だ悟りを得るに至っておらぬのだ」
「ふん、悟りなんて待ってたら今生が終わっちまうよ」
「そうかも知れぬ、だが求めずにはいられぬのだ。
幾多の文献を漁り、高賢に教えを請うた。だが仏陀の教えはただ一つであるはずなのに、何故にこれほど多くの教があり論が尽きぬのか。私は総宗一切経の勝劣を見極め、唯一無二の教えを得たいと願っているのだ」
「そんなもの、あるもんか」
「いや、ある」
「どこに」
「未だ確証はないが、蓮華経こそ求めるそれではないかと考えている」
「へえ、どんな教えなんだい?」
蓮長は居を正し、滔と語る。
「蓮の華は泥中にこそ大輪を抱き実を結ぶ。醜苦に塗れたこの世に生を受けし人は皆等しく救いを得、仏に至るべし、と」
それを聞いた女人は声を上げて笑った。
「この世に生まれた者は皆救われるだって。じゃあこのあたしも救われるというのかい」
「無論」
「なら、今すぐあんたが救ってくれよ」
「法華の教えに帰依し今生を全うせよ、さすれば救われよう」
「泥の中にこそ華咲くとあんたは言った。泥とは今生のことだろう、ならば生きてる内に救われなければ意味はないよ」
言い掛かりのようで、理は通っている。思いがけず始まってしまった問答に、蓮長は奇妙な可笑しみを憶えた。
「そなたは何をしにここへ」
「死にに来た。生きていても辛いばかりで、何の意味もないから」
「何が辛い」
すると女人は触れんばかりに顔を寄せ、片の眼で睨み付ける。
「あんた、この顔を見て何も思わないのかい」
蓮長は眉を動かすことなく、言を放つ。
「美しいな」
「嘘吐き」
「嘘ではない。傷のことを言っているのなら、そんなものでそなたの美しさは損なわれはせぬぞ」
「口では何とでも言える。ならばあたしを抱けるのかい」
そこで蓮長は初めて笑いを漏らした。
「それは無理だ」
「それみろ嘘吐きめ。坊様こそそんな綺麗な顔してるくせに、あたしが醜いからだろう」
「違う」
「女は不浄だから」
「戯言を申すな」
「戯言なもんか。とある坊様に言われたのさ、股から血を垂らす女は不浄なんだって。笑わせるよね、じゃあその股から生まれたお前は何だってのさ」
「気にする事はない、その者は間違えている」
「気になんかしてないさ。ただ、偉そうな奴は偉そうなだけなんだってね」
「私は仏道を歩む身、不犯の誓いを破るわけにはいかぬのだ」
女人は体を戻し、蓮長に倣うかのごとく居住いを正す。まさしく問答を為す様だった。
「犯とは、己の利の為に他を害すること。このあたしが望む以上、犯には当たらぬはずだよ。あたしが求めているのは、施しさ」
「それでも私が快楽を得ることには変わらぬ。私が目論むは衆生を救うこと、己に歓びを求めるは道を外すことになる」
「それはおかしい」
「何故」
「あんたが衆生を救ったとして、そこにあんた自身の歓びはないのかい」
「勿論ある」
「なら同じことじゃないか。坊様は歓びを犯とし苦を求めるを道と思い込んでいるようだけど、それは大きな間違いさ。道に己の歓びは関係ない、他を害するのが犯であって他に利するのが徳、それだけの事」
「そなた、何者だ」
「何でもない、ただの女さ」
「名は」
「蓮華」
真の名か、あるいは出まかせか。刹那の戸惑いの後、蓮長は得心した。
名に真も偽もない、名乗ればそれがその者の名なのだ。現に蓮長の名こそ、蓮華経にあやかろうとつい近頃名乗り始めたもの。この女人が同じ考えでたった今名を定めたとしても、それを否とする理由はない。
「成程そなたの言に誤りはない。だが私がそなたを美しいと言ったのも本心だ。故にそなたと交われば、私はそなたの利を越えて我欲に溺れることとなろう。それは犯だ」
蓮華と名乗った女人は、暫し蓮長を見つめた後、小さく息を吐いた。
「そうかい。なら、あたしは待つことにしよう。あんたがその気になるまで、この岩の上にずっと座って」
「待て、何を言っている」
「あんたが私を抱いてくれたらあたしは救われる、つまりあたしの勝ち。抱いてくれなかったらあたしは救われない、救えなかったあんたの負けさ」
「それでは私はどうしても勝てぬではないか」
「それがどうした。あんたは勝ちたいのかい、それは我欲ではないのかい」
蓮長は言葉を失う。彼女の言を是とするなら交わらねばならず、否とするなら彼女を救うことが出来ぬ。だが、それでも。
「出来ぬ」
それ以外の応えはなかった。
果たして夕暮れ時になり。
「私は院に戻らねばならぬ。そなたはどうする」
「あたしはここにいるさ。どうせ帰るとこなんかないんだ」
そう告げて瞑目する。
「そうか」
蓮長は静かに手を合わせ、立ち上がった。
翌朝、再び岩場を訪ねると蓮華は前日と変わらぬ様子で瞑座していた。
「本当にここで夜を過ごしたのか」
すると片の眼を開き、薄く笑う。
「そう言ったじゃないか」
「餉を持って来た。腹が空いただろう」
だが再び眼を閉じ。
「いらぬ」
「意地を張るな」
「いいや張るよ。あたしは坊様じゃないから、勝ち負けに拘って良いのさ」
これは問答ではなく口論だ。蓮長は声を上げそうになるのを辛うじて堪え、再び言葉を投げた。
「では、せめて水だけでも」
するとポツリと。
「露が」
「なに」
「山の露が、潤してくれるから」
見れば、髪も衣も夜露に濡れそぼっている。蓮長はつい悲鳴のような声を漏らした。
「凍えているではないか」
「ならば坊様の体で温めておくれな、さあ早う」
応えは声にならず。自分がどれほど情けない顔をしているかと想うだけで、更に情けなさを憶えた。
向かい合わせに座し、それきり日暮まで過ごした。
蓮長は、このことを他の者に告げてはいない。
告げたら無理やりにでも山を降ろされてしまうだろう。それではこの者の意を無下にすることになろうし、己の意を曲げることにもなる。
相手に意地を張るなと言いながら、己自身が意地の虜になっていることには気付かぬ。若さと未熟の顕れであった。
次の日も、更に明くる日も。
もはや交わす言葉もなく見つめ合うのみにて、既に二十日を越した。
そして遂に。
「頼む、餉を喰ろうてくれ」
根負けした蓮長が、地に手を突く。
真摯な眼を向ける若き僧に、だが蓮華は掠れた笑みを返した。
「欲しくない」
囁く声は風の如く。背の落水に融け消えそうな儚き姿に、涙が零れた。
「何故だ」
「嬉しいから」
「何が嬉しい」
「あんたが側にいてくれるから。今生であたしに優しくしてくれる奴なんか、一人もいなかった。あんただけさ」
「ならば私の願いを聞いてくれ。そなたに死んで欲しくない、失いたくないのだ。私の負けで良いから」
「あはは、坊様がそんなことを言ったら駄目だよ。
あたしはさあ、あんたの子が欲しかった。あんたの綺麗な顔を見て、ああいいなあと思った。この人の子を授かれば、無意味な生に意味を成せるかなあって、そう思ったんだ」
「ああ、成そうとも。今こそそなたを抱こう。故に」
「もういいんだ、あたしは既に救われた。有難う坊様。次は、衆生を救っておくれ」
木漏れ陽が照らす、その笑みに心を奪われた。
「菩薩……」
嫋やかに身を折り、散るように滝壺へと降る。
蓮長はその姿が霧沫のうちに消え去って行くのを見送りながら、彼女の生に蓮の華を重ねていた。
「泥の上に蓮華咲く。なれば今生も来世も区別なく、涅槃もまた等しく泥中にあり。人みな泥上の蓮華たるべし。すなわち理なるか! 妙法たらんか!」
両手を打ち付け、溢涙と共に声を放つ。
「南無!」