第三話
炬燵の上の携帯をぼうっと見つめる。
時刻は午前零時を示していた。
炬燵の中に両手を入れつつ携帯がスリープモードになるごとに出しては、また電源をつけて時間を確認する。たかが数秒でも、もやもやが募る。眠気もあるが、原因はそれだけではない。
今日一日。正確には昨日一日、なんとなくいろんなことが手につかなかった。
意識や視線がぽわぽわと浮遊して、唯一はっきりと記憶にあるのは、同級生やアルバイト先の先輩からの注意の声だった。
夕月らしくないと言われたのは何度あっただろうか。その度に謝る自分の声が耳の中を回っている。
授業にもアルバイトにも集中できなかった理由が咲万にあることは、夕月もわかりきっていた。どこかで否定しようとする自分がいて、そうすればするほど、あの病的なまで白く透き通った彼女の顔が思い浮かぶ。
自分はそれほどに咲万に魅せられていたのだろうか。
不思議な感覚でいっぱいだった。
携帯の画面が暗転する。電気ストーブと炬燵がフル稼働しているというのに、どこからか隙間風が入ってきているのか、室温はそれほど上がらない。今夜は雲もないので、放射冷却による冷え込みがより厳しくなっていた。
あの日の夜のように道の隅で咲万がうずくまっていたら、今度こそ凍えてしまうだろう。
とはいえ、捜しに出るのも憚られる。
もともと咲万は勝手に一人であの場にいた。そこにいた理由はともかく、たまたま通りかかった夕月が声をかけなかったら、彼女はいつまでそこに居続けたはずだ。
ただの偶然。それをこちらからみつけだす必要はない。
たとえ境遇が似ていたとしても、それは赤の他人だ。目をかける理由も夕月にはなかった。
暗転したままの携帯を持って炬燵を出る。炬燵と電気ストーブの電源を切り、その後玄関へ向かう。扉の鍵が閉まっていることを確認して、部屋の灯りを落とした。
ベッドに潜り込み、少しの間目を瞑る。瞼の裏に、雪の降る暗く寂しい道が映像として流れ始めて、その中に人影を見た。
その瞬間、夕月はパッと目を開いた。暗闇の中で目覚め、数瞬、自分が部屋の電気を消したことを思い出せなかった。夢を見ていた。
あまりにも現実と夢の境界線があいまいで、自分が眠っていたことすら気づかなかった。
手にはまだ携帯が乗っていて、時間を確かめるために電源を点けると、深夜三時になる頃だった。
ぐっと身体を持ち上げ起きる。布団から温まった空気が一気に流れ出て、部屋の冷たい空気の中に消えていく。夕月はぶるっと身震いした。
「いつのまに寝たんだろう――」
ぽつりと呟くと、どこからかガタッと音がした。咄嗟に夕月は音のしたほうを振り向く。音は玄関の向こうから聞こえるようだ。
ぞっと背筋を冷たい何かが流れ、こくんと一つ唾を呑む。
こんな時間に通路に誰かがいるのだろか。新聞配達にはまだ少し早い時間であるから、他に思い当たることがない。
寒さに追い打ちをかけるような恐怖が、部屋中を無音にして、他の情報を克明に夕月の元へ届けてくる。寒風に揺れる窓の振動。カチカチと時を刻む秒針の規則的な動き。そして、自分の呼吸音。
夕月はゆっくりとベッドから足を出した。床は氷のように冷たく、足の指に自然と力が入る。
滑らないように一歩一歩進んで玄関まで向かうと、ドアスコープから外を見た。目の前には誰もいないようだが、右下端に何か黒い影がある。物を置いた記憶はなく、少し考えて、夕月の脳裏に咲万の姿が浮かんだ。
まさかとは思ったが、そう考えると居ても立っても居られなかった。
万が一を考えて、そおっと玄関扉を開ける。扉を全開にしなくとも黒い影がなんなのか確認することができた。
「咲万さん?」
夕月は不意に声を発した。
赤みを帯びた特徴的な巻き毛と有名校のセーラー服。初めて彼女をみつけた雪の日のように、丸くなったそれが咲万であることは、本人確認をしなくても夕月にはわかった。
頭上から声がして、咲万がゆっくりと顔を上げる。真っ白な表情が月光を反射する。
「なんでここに?」
夕月が言った。
しばらく顔を見合わせていた二人だったが、寒さで固まっていそうな腕を動かした咲万は、懐から何かを取り出した。月明りで微かに見えるそれは茶封筒のように見える。咲万は無言で、それを夕月に渡す。
「えっと、なんですかこれは」
不審に思いつつ手に取ると、少し厚みを感じられる。薄闇の中、それをひっくり返して観察していると、ようやく咲万が口を開いた。
「お金」
「え?」
聞き逃して、夕月は咄嗟に訊き返した。
「あなた、お礼はお金がいいって言ってたから」
そう言われて、急いで中身を確認すると、本当にお札が入っている。それも一万円が一枚や二枚だけではなくまとまった量だ。
「お礼ってまさか、昨日わたしが言ったことを本気にしたんですか?」
咲万は小さくうなずいた。
「だからそれあげる」
「あげるって言われても……」
もう一度封筒の中を見る。明らかに十万円くらいはありそうだ。たとえ人助けしたからといって、カレーとココアをごちそうし、一晩泊めたくらいで貰える金額ではないし、ましてや、学生だと思われる咲万が用意できるものなのかも疑問がある。
遠くの方で原付の音がして、夕月の思考は一旦止まった。新聞配達が始まる頃だった。
ふと寒風が頬にかかり、身体が震えた。寒さが身体を軋ませる。突然の出来事でそこまで気を配れなかったが、咲万は夕月と違い完全な屋外にいた。
とりあえず、と思い、夕月は玄関扉を押し開ける。
「ひとまず中に入ってください。咲万さん寒いでしょうし、色々と訊きたいことがあるので」
咲万は夕月の顔をじっと見つめ、その後ゆっくり立ち上がり、素直に部屋の中に入った。
それは彼女の自然な行動のはずだったが、夕月は自分の心の中で温かい感情が芽生えるのを感じていた。
★
前日のようにマシュマロの乗ったココアを咲万にふるまう。コップを包む彼女の細く白い指に、目が奪われる。はっとして、夕月は頭を振った。
咲万の斜め前から炬燵に入り、彼女から渡された封筒をちょうど机上の中央に置いた。
ココアを啜る咲万を待って、夕月が言う。
「それで、忽然と姿を消した咲万さんはどこに行ってたんですか?」
「ちょっとそこまで。人と会いに」
「人?」
小さくうなずく咲万を見て、夕月は眉をひそめた。
「だけど、咲万さんがわたしの部屋を出たのは四時過ぎ――明け方ですよね。玄関の鍵が開いたままだったとかは、まあ、この際不問にしますけど、そんな時間に出て朝早くから誰かと会ってたんですか?」
「そう」
と咲万は短く答えた。
夕月が続けて、いったい何をしてたんですか、と訊くと、咲万の視線は炬燵の上の封筒に向いた。正確には、封筒の中のお金に向いていた。
「これを受け取りに人と会ってたんですか?」
「そういう約束になってたからね」
「まさか……、怪しいお金じゃないでしょうね」
夕月は封筒を注視した。
咲万はきょとんとした顔になり、少しの間の後、ははは、と目を細めて笑った。
「違うよ、そんなじゃない。まあ、出所は言えないけど」
「なんですか、それ……」
ますます怪しくて、夕月はその封筒を自分から遠ざけた。そして、できるだけ怖い顔をして咲万を睨みつけた。
「なに?」
と少し戸惑った様子で咲万が口からコップを離す。
「咲万さん、何か怪しい事とかしてないですよね」
「え? なに? 怪しい事って」
「いろいろあります。そもそも、わたしと同じくらいの年頃の女の子がこんな暗い時間に外に出てるなんて、自分で危ないと思わないんですか?」
「それは思うけど、そんなに物騒でもないし」
そう言うことじゃなくて、と夕月は自分でも自分らしくないなと思いながら、つい説教ぽい言葉が口を衝いて出る。
「いくら自分に自信がなくてもその子が女の子ってだけで、危険はつきまとうものなんです。現に、そういう犯罪は年々増えているわけで、わたしたちが自分で身を守らなくてはいけないんです。咲万さんなんて特に綺麗な見た目をしてるんですから」
早口でまくしたてる夕月の隣で咲万はコップを手にしたままぼんやりしていた。
出会った時からそうだが、咲万は人の話をちゃんと聞いているのか聞いていないのかわからないところがある。意識が他に飛んでいってしまっているのか何なのかわからないが、固まったままの咲万を見て、訝しげに夕月は訊いた。
「あの、聞いてます?」
夕月が睨みつけると、目をしばたかせた咲万は、ちょっとして相好を崩し、
「聞いてたよ」
と小さな白い花でもまくように嬉しそうに言った。
不意に現れた笑顔に、夕月はドキッとした。瞬間的ではあったが不思議な感覚が強まったのをはっきりと感じて、少し戸惑う。なんとなく身体が火照るようで、無意識に唾を呑み込んだ。乾いた唇を引き結ぶと、昨日、口移しされ重なった咲万の唇の感触が鮮明に思い出された。
茹で上がるように顔が熱くなり、夕月は頬に手を添えた。まるで制御がきかない。自分ではないようだった。
「どうかした? 急に顔背けて」
不思議そうな声色で咲万が身を乗り出して訊いてくる。
夕月は咳払いをすると、なんとか平静を保とうと小さく呼吸を繰り返した。
ようやく咲万と対面できた夕月であったが、その顔がほのかに朱を帯びていることを咲万は気づいていた。
「わかってくれたらそれでいいです。本当に気をつけてください」
夕月は念を押すように言って立ち上がる。
クエスチョンマークを頭に浮かべる咲万の顔をちらっと見て、正常から幾分崩れた調子で居心地が悪そうに口を開いた。
「もう寝ます。朝が着ちゃいますし。連日で悪いですけど咲万さんもここで寝てください。言った傍から家を出てなんて危ないことは言えませんから」
「あ、うん、ありがとう」
「それから――」
夕月は言おうとしたことを途中で区切り、何かをぐるぐると思案して、それから続けた。
「わたしが起きるまで家を出ないでください。ちゃんと話してほしいです。咲万さんがあの日、道端で座り込んでいた理由を」
窺うような夕月の視線を咲万はじっと見つめ、自分の中にほんの少し湧き上がる高揚に気がつくと、夕月にわからないように苦笑した。
「わかった。約束するよ」
と笑顔で答える。早朝の澄んだ空気が身体の中にすっと入ってくるようなそんな感じだった。
「それじゃあ電気は適当に消してください」
そう言い置いて夕月は自分のベッドに潜り込んだ。
見送った咲万はココアを手に取って、浮かんだマシュマロごと口の中に流し込む。科学的な甘さは、咲万には少し重たく感じた。