英雄と黒い嵐②
「さあ、行きなさい」
間に割って入ったクレアに睨まれ、セオルは後ずさる。
約束の一ヶ月までには、あと数日あるはずだったのに。
「すまなかった、セオル。でも俺はお前を見つけられて本当に嬉しかったんだ。セオルを知って、そしたらもっと、セオルだからって思えたんだ」
耳を塞ぎたかった。
別れの言葉なんて聞きたくない。
キセキが言ったら『旅の終わり』は本物になってしまう。
「セオル、ありが――」
「あらら、やっぱりだわ、姉さまにまちがいないと思ったの!」
場違いに陽気な声が霧の向こうから響いた。
一番敏感に反応したのはクレアだった。
金眼を皿のように開いてから、声に振り返る間には既に手に短剣を構えていた。
「アリス……ッ!」
「ええ、そうよ! あははっ、待っていたのよ、ずぅっとっ!」
ああ、姉様。
長手袋みたいに真っ赤に染まった両手を広げ、その少女は現れた。
金髪に爛々とした紅眼。
童女のようにあどけない相貌を台無しにするように、右の額に太陽と目玉を合わせたような烙印があった。
ぞくりと、おぞましいものを感じた。
同じだ。
クレアと出会った山の上で、『赫い獣』にセオルが恐怖したものだ。
苛烈で貪欲な意思。
防衛本能で、セオルは身体の中に魔力が巡らせていた。
そこへ、声がもう一つ。
「俺にもわかったぞ! いるな、ちゃんと来やがったなッ! なあおい、親友ッ!」
黒い、突風が吹いた。
魔力が宿った風。
人為的に起こした神風。
信じられるだろうか、どのような力任せをすれば、あれだけ濃かった霧を払ってしまえるというのだろう。
それだけに飽き足らず、声の主は邪魔だとばかりに大木をまとめて数本へし折ったのだ。
キセキと同じ黒い髪に黒い瞳の青年だった。
逆立った髪にはバンダナを巻いていて、右耳がネズミに囓られたみたいに欠けていた。
ガントレットにグリーブ、それから背負ったバカげた大きさのクレイモアも揃って真っ黒だった。
「とっ、うお、あっぶねえ!」
自分で切り落とした木に潰されそうになり、大剣の青年は慌てて横に跳ぶ。
「くすくす、おっちょこちょいさん、でもそこがかわいいおマヌケさん」
唄うように金髪の少女に笑われて、大剣の青年が「うっせ―バカ」と悪態を吐いた。
暢気なやりとりだ。
だけど、セオルにはそれを見て呆れる余裕なんて無かった。
苦しい。
さっきの突風に乗っていた凶悪な意思による魔力の残滓が、いまだ重い。
これに似た感覚は、過去にたったの一回だけ。
キセキが盗賊を斬ったときの、一閃。
なら、あの大剣の青年はキセキと同じだけの力を持っていると言うことになる。
次の瞬間だった。
談笑する二人目掛けて、刃が奔った。
「おお、おお、なんだよコラ、待てったらキセキ。ここでやったら勿体ねえだろうがよ。やるなら、アンフィルだ。その方が燃えるだろ?」
「勝手にやってろ死に損ない。てめえは大人しくナレイブで死んでたら良かったんだ!」
「姉さま、クレア姉さま、あのね、アクツはデリカシーが無いのよ? わたくしがペットにしたくて捕まえたウサギを食べてしまったの、どお思う?」
「あなたに弄ばれるくらいならそっちの方がよっぽど自然です」
「でもわたくしはアクツのそういうところもかわいくて好きなのっ!」
「……ほんとうに、昔から人の話を聞かない」
黒色の大剣は白地の細刀と、短剣は紅い腕と組合っていた。
キセキがこの旅路で始めて戦いのために刀剣を抜いた。
セオルが身動きすら取れない内から、もう戦いは始まっていたのだ。
目の前の光景こそは、今代の屈指によって行われるまさしく天上戦。
余波で罅が入ったみたいに空気が犇めいた。
濃密な魔力同士のぶつかり合いによる摩擦音だ。
次第に二組の戦いは距離を離していく。
『閃の勇者』と『黒鉄の勇者』――キセキとアクツの戦いは幾度も刃をぶつけ合った。
互いの得物がどちらも勇者の武器に相応しい逸品であるからこそ出来る所行だ。
キセキは細刀の鋭利さと折れず曲がらない芯を信じて振るい、アクツは見た目通りの堅固さで守って重量と面積の圧力で潰そうとする。
「ははははははっ! 楽しいなあ、やっぱりキセキだ。獣やら魔物やらに絡んでも、ちっともダメだ。あいつらすぐどうにかして逃げようとするんだぜ? アリスにやらせてからやっとやる気を出しやがるんだ」
「クソッタレめっ、そうやっててめえはとっ散らかしていくんだ。思い通りやるだけやって他の全部は知らんぷりだっ!」
カッ、カカカッ
打ち合う音が早くなる。
キセキの細刀が加速していく。
「そうやって不幸にしたヤツのことなんて、見向きもしないんだ!」
「なに言ったってダメだ! お前だって楽しんでるんだろ? 俺と遊びたくって仕方なかったんだ。だって、……よっ!」
身体にぴたりと大剣を寄せてキセキの細刀を凌いでいたアクツが、キセキが振り下ろしたのに合わせて思いっきり大剣を振った。
ごおうと、魔力が臭う暴風が吹き荒れ、煽られたキセキが後ろに飛ばされる。
地面に細刀を突き立てて着地したキセキに、アクツは言うのだ。
「軽いじゃんか、ぜんぜん本気じゃねえ。ナレイブでやったときは、生真面目に練り上げた魔力の刃を防いだって飛ばしてきたくせに」
「あれは、マジでズルな」と批難しながらも、楽しそうな顔は引っ込まない。
余裕をひけらかすアクツに対し、
「はあ、はあ、はあ……」
青息で細刀を握るキセキが、アクツが俺には分かってるんだとばかりに宣っていた、余力を残した姿には到底思えなかった。