英雄と黒い嵐
ウォール旧関所街には、全部で三日滞在した。
キセキは寝てばかりだった。
クレアと二人で出掛けた日だって、キセキは目をこすって寝癖頭で「おふぁーり」なんて欠伸混じりに出迎えたのだから。
いくらベッドで寝られるからと言って、これから寝る分が貯金できるわけじゃ無いのに。
クレアだって呆れたようで、なにも言わないで夕食の注文を取りに行ってしまった。
キセキはウォールでは特に人気があるようで、出掛ける朝には聞きつけた街の人達が『キセキが来ている』とストリートから門を出るまで色めき立っていた。だから三人は空き巣みたいにこそこそと街を出なくちゃならなかった。
本当はセオルはキセキはここに居るんだと自慢してやりたかったが、もちろんそんなことはしなかった。
黙って下を向いて、けど、引き結んだ唇が何度も解れるくらい誇らしかった。
セオルはキセキと一緒に居ることしかしていないのに、自分こそが特別になった気さえしていた。
ウォール旧関所街を出たら旧シルヴェルト国領まではすぐだ。
獣も土地もこれまでよりも目に見えて強くなった。セオルの《魔力貫通弾》を直前に察知して避ける獣も現れた。
草木も強いから均してない道を行こうとすると衣服が破れてしまう。クレアがいなければ旅を続けられたかも怪しい。
クレアは旅をよく心得ていた。
風に強い薪の組み方や、太陽の位置と影から距離を計測する方法を知っていたし。面倒な獣や魔獣の痕跡を見つけるのも上手だった。なにより、毎日の食事がずっと美味くなった。
塩はキセキも持ち歩いていたが、クレアは歩きながら花や草を採っては乾かして保存しているのだ。おかげで単調になりがちな旅の料理に味のレパートリーが出来た。
セオルは大喜びで一人だけ大食いしている。
二人も美味いのだからもっと食えばいいのだ。
おかげでセオルだけ藪に駆け込むことが増えた。
不思議なことに、クレアはセオルほどじゃ無いが毎日食って飲んでいるのに、出すものを出しに行かない。
どうなっているのか気になって、クレアの目を盗んでキセキに聞くと、おもしろがるような顔で「そいつはな……」と教えてくれようとしたが、戻ってきたクレアに睨まれて分からず仕舞いだ。ときどき、木の根元に掘った穴に手をかざしているのを見るが、まさか手からクソが出るはずも無いだろう。
「そういうときは『女の神秘』ってことで納得しとけ」とキセキに言われて、女様は秘密の宝石箱を持っているのだと、村の大人に教えられて家の中を探し回ったことを思い出した。どこに行っても同じような言葉があるものだ。
クレアに言われた『一ヶ月』を忘れたわけではなかった。ただ、どこかでセオルは言葉で聞いた一ヶ月と一年を同じ感覚でしか捉えていなかった。
一ヶ月はまだずっと先、旅はまだまだ終わらない。
キセキは暢気に寝坊を繰り返しているし、三度休憩をする日もあり、セオルの剣を振る時間も増えた。これではさすがのクレアも予想を外して旅はもっと続くかも知れない。教えられたことをやりながら、セオルはそんな風に期待もしていた。
だけど、終わりは着々と近づいていたのだ。
ままならないことはいつだって姿を隠してやってくる。
木の後ろに隠れてこっちを窺っていたみたいに、気を抜いたときに限って襲ってくる。
ソレは、唐突にセオルの前で現実になった。
霧が濃い日だった。
旧シルヴェルト国領に入ってからはずっと野宿をしている。遠くに煙が見えることがあったから、迂回路をとれば集落で休めたのに、キセキは最短路を歩き続け、クレアもそれに従うからセオルも言い出せず、不満を溜め続けていた。
どうしてそんなに早く行かなければならないのだ。
今日だって、布が水滴を吸うからすっかり濡れ鼠になって歩き続けていた。
身体が冷えてひりつく頬を手で押さえるが、指先の感覚が鈍くなっていて触ってるのかよく分からなかった。
無茶な歩き方をしているせいだろう、最近はキセキも黙ってることが多くなり、ときどき思い出したようにセオルにレッスンだと言って、前にやったことの復習をさせる。
前よりもスムーズに、そして強力に出来るようになった魔法をみせると、キセキは口では『よくやった』と褒めるクセして、セオルが見ていなくなると険しい顔になる。
なんだか変だ。
死霊の行軍に参列したみたいなこの頃に比べて、充実していた旅路が懐かしかった。
「妙ですね」
クレアがしゃがんで草を撫でる。
「獣たちの気配がまるでありません。そしてこれは大きな獣が走った痕跡です。霧に紛れてやっかいな魔獣が潜んでいるかもしれません。森を迂回したほうが良いでしょう」
地元の獣が逃げるとなればウォールのときみたいにはぐれの可能性もある。霧に隠れて近づかれたら危険だ。
妥当な判断だし、クレアが言い出すならキセキだって納得するだろう。
セオルはすっかりそのつもりになった。
キセキは急ぎすぎている、ちょっと寄り道して気を紛らわせばマシになって、また笑うようになるかもしれない、とも考えていた。
「ダメだ、森は通る。先に洞穴があっただろう、何かあればそこで整えたらいい」
なにを言っているのだ?
整えたらいいって、なんだ?
それが取り返しがつかないものだったらどうするつもりだ。シルヴェルトの屈強な獣が逃げる魔獣だとしたら、十分にありえることだ。
「わかりました」
これにも愕然とした。
クレアは必要だと判断したから言ったはずだ。それが理由もちゃんとしてないのに『それではダメです』と言わないなんてらしくない。
「待ってよ、なんで針のむしろに裸足で踏み込むようなことしなくちゃいけないんだよ。それは旅のルールじゃ無い。そうやって教えてくれたじゃないか」
旅は継続性を重視しなくちゃいけない。そのために頭で損得勘定を働かせて道を選べ。そうやって言ったのはキセキだ。
わざわざセオルに選ばせて損な道を一緒に歩き、向こうのが『楽だったんだぜ?』と種明かしして笑ったでは無いか。
「わたしが退ければそれで問題ないでしょう」
「そうさ! 戦うのはオレとクレアだ。キセキは今回だって剣を抜かないんだろ!」
それにだって腹が立つ。
キセキがルールを破ろうとしているのに、その取り決めだけは守らされてツケはこっちが払うのだ。
「悪い、でも、道はこのまま真っ直ぐだ」
言って、問答無用とばかりに歩き出したキセキを見て、セオルはかっとなって食ってかかった。
「そんなにオレとの旅を終わらせたいのかよっ! オレと一緒にいるのはそんなにイヤんなったのかよ。だったらそう言えったら!」
言い切ってから気づいた。
これこそがセオルの本音だ。
キセキが行くって言うならセオルは従いて行けば良かった。ずっとそうしてきた。
だけど、最近のキセキはとにかく旅を終わらせようと躍起になっているように思えて、それがセオルの不満とストレスの根っこだったのだ。
セオルはまだ、キセキといたいのに。
「セオル、俺はそんなんじゃ……」
セオルの不満の爆発を見て、キセキは顔を水で打たれたみたいな顔をしていた。
「いい加減になさい」
遮ったのはクレアだった。
「そうですね、そうするのが一番良いでしょう。セオル、あなたは森を避けなさい、そして煙が見えたらそこを目指すのです。集落で身体を休めたらウォールに戻って傭兵ギルドを訪ねなさい。ダリフはあなたの価値を知っている。よくしてくれるでしょう」
「待ってくれクレア、だけど俺は、大事なことを言ってない」
「甘えるのも甘やかすのも終わりにしなければいけません。話せないのでしょう? キセキにとってこの子が大事になりすぎたから」
――なら、これが最善です。全部をダメにしないために。
セオルは狼狽した。
とんでもないことをしてしまった。
「あ、あの、オレ、あやまるから……」
「いいえ、あなたは行くんです。ここが旅の終わりです。もう、自分で何でも出来るでしょう。だから一人で行くんです」
こんなにあっさりと、恐れていた日はやって来た。
「キセキ……」
縋るように呼んでも、キセキは目を合わせようとはしてくれなかった。




