英雄の道連れ
人生の幸福と不幸とはとんとんになっていて、それでも人間って生き物は他よりよっぽど恵まれているものだからうまく行かないことの方が多いのだと、村に住んでた頃に薬屋の婆は言っていた。
当時、婆のことでセオルの興味が向いていたのは薬になる草や木の見分け方と使い方ばかりだったから、時折婆が漏らしていた教訓じみた言葉はほとんど忘れてしまった。その言葉だって思い出したのは、呪う先が欲しかったからだ。
自分じゃどうしようも出来ない境遇のなかで自責以外の矛の向け先が欲しくて、やっとの事で記憶から引っ張ってきたのだ。
こんなことになってなにがとんとんなもんか、婆の嘘つきめ!
そうやって奴隷という環境から目を背けられた時間は半刻にだって満たなかった。
鎖を外されて近くの街に保護され一晩を経たいま、セオルは婆の言ったとんとんをもう一度思い出していた。
盗賊団に捕まっていたセオルを含めた一団は身元確認のため役人の審査を待つはずだったが、セオルだけは一人離されて宿に部屋を貰っていた。
ガラス張りの窓があり、布団には綿が入っているからきっと値段が高い宿だろう。
『彼』は、そんな部屋をその日出会った子供一人のために借りて寄越したのだ。
どうしてそんなことをするのかまるで心当たりがなかった。
セオルがやんごとない身分でないことは自分で知ってるし、文字通り無一文なことも状態を見れば分かる。
セオルは女でもないし、仮にそうだとしても奴隷生活で痩せたうえに、どんな病気を持ってるか分からな
いやつより綺麗どころが裏通りによりどりみどりだろう。いや、部屋を分けてる時点で邪推甚だしい。
つまるところは、セオルにこんな幸運が舞い込むことに理由をつけられるとするなら婆の言ったとんとんくらいしかないのではないだろうか。
「バカみたいだ」
運命みたいに分からないものに感謝するならセオルは『彼』にこそ感謝すべきなのだ。
呟いて、ベッドから出るとセオルは自分の格好を見下ろした。
古着屋でそろえた解れもない上等な一着もやはり『彼』に与えられた物だ。
ガラスの向こうは既に太陽が差して喧噪が聞こえる。
もし『彼』を待たせていたらなんて思い至ってセオルは慌て足で部屋から出た。
この世界には『英雄』がいる。
絵物語のなかの偉業を為す力を持った超人が実在するのである。
海を割り、雲を裂き、一騎当千さえ踏破する。
宿の一階、受付兼食堂を兼ねるフロアのテーブルに着き、スープを口に運ぶ『彼』もまたその一人だった。
サンクトア王国最大、もしかすれば史上最強とさえ名高い異世界からの来訪者。
「トオミチ キセキ」
黒髪黒瞳、貌の傷跡。
傍らに掛けた柄から切っ先まで純白の片刃の細刀によって振るわれる一撃から『閃の勇者』と呼ばれる大英雄。
「やあ、おはよう」
穏やかな声だった。
歴戦者とは思えない、どこの街や村にだっている変哲のない穏やかな世界を知っている人が言える『おはよう』だった。
盗賊を斬り殺した姿とあまりに乖離していたものだからセオルはその場に固まってしまった。
そんなセオルを見てキセキは困った顔でちょいちょいと、スプーンで自分の前の椅子にセオルを促す。まるで隣町から初めて甥っ子がやって来たみたいな反応だった。
「あの、んとっ……」
真っ先にお礼を言わなくちゃと思っていたのに、実際にしようとすると詰まってしまう。
キセキはセオルが席に着くまでは食事を再開するつもりがないらしく、そのことにも申し訳なくてセオルはそそくさと席に座った。
間も無く、ウエイトレスがキセキと同じスープを運んで来た。
湯気からは香辛料や溶けた肉の脂の香りがして、セオルは昨日も十分喰わせて貰ったクセして卑しく唾を呑み込んだ。
セオルより上背のあるキセキを見上げて覗うと、彼は苦笑してテーブルの端の籠からバゲットをとって食事を再開した。
おそるおそるセオルも倣って籠に手を伸ばす。
せめて行儀良くしようといつか隣町に嫁いだ姉やが帰ってきたときにやってたみたいにバゲットをちぎって食べようとしたら、思ったより弾力があってうまくいかない。今度こそえいやっとやってみたら危うく椅子からひっくり返りそうになった。
最悪だ。
恥ずかしさで泣きそうになる日が来るなんて想像だにしてなかった。
どれだけ見栄を張ろうとしたって、目の前の英雄にはやっぱりお見通しだったのだろう。
「好きに食ったらいいさ」
キセキはそう言うとまるでこうするんだと言わんばかりにスプーンを置いてスープの皿に口をつけて持ち上げる。
それから皿をテーブルに戻して、ぐいっと袖で乱暴に口を拭って大声で呼んだのだ。
「おかみさーん、おかわりください!」
にいと笑う横顔はセオルを挑発するみたいで、だからセオルは手に持ったパンに「んむ!」と大口でかぶりついた。
飲み下せなくなったらスープをかっ込んで、口の中にあるうちからもうバゲットを掴んで、結局セオルはバゲットをまるまる一本平らげてしまった。
キセキの方はとっくに終わってたようで、セオルが落ちつくのを待っていた。
「ご馳走さま」
聞き慣れない言葉だ。
貴族や坊主は食事にいちいち儀式めいたことを持ち込むらしいが田舎者のセオルには縁が無いことだった。
とはいえ、食わせて貰ったなら相手に合わせるべきだろう。
「ごちそさま」
ややぎこちなくマネして言ったらキセキはくつくつと笑った。
「俺のはクセだからやんなくたっていいよ。言ったろ? 好きに食ったらいいんだ」
「でも……」
「いいんだよ」とひらひら手を振るキセキはセオルの想像していた『英雄』よりも、なんというか、気安かった。
英雄というものはもっと厳粛に振る舞うものだとセオルは思っていた。
頑強な鎧や宝杖、名剣よろしく、英雄は威厳を装備していて当然なのだと。比べてキセキは飄々としている。
不思議なもので、その姿はセオルの期待を裏切っているというわけではなくて、むしろ、あたらしい英雄像をセオルに植え付けていた。
「あのっ!」
弾かれたようにセオルは立ち上がる。
目の前の人は英雄で、恩人だ。
胃袋に飯が入れば思い切りも出てくる。
「ありがとうございましたっ! いっぱい、いろいろ……」
ようやく、ほんとに今さらだが言えた。
それから思い出して取って付けたみたいに、深々と頭を下げた。
「ああ、いや、いいから。お礼を言ったりする必要なんてないから」
「でも、オレ!」
「それより、これからの話をしよう。俺にも、……君にも必要だろう」
キセキはセオルの呼び方で言い淀んだ。
昨日、役所から引き取るときに名乗ったから名前を知っているはずだ。忘れてしまったのだろうかと思うと、セオルはおもしろくなかった。
それはもちろん大英雄からすればセオルなんて木っ端にもならない存在だろう。しかしキマグレだとしても引き取ったのだから、それはヒドイのではないだろうか。
「あの、オレ、セオルです」
ムキになって名乗ると、キセキはまるで自分に言い聞かせるように言ったのだ。
「そう、だよな。君は、セオルだ。名前を忘れたわけじゃなかったんだ。たださ……」
歯切れが悪い言葉の続きをじっと待つ時間は、夏の日照りみたいにじりじりとした緊張感があった。
なにをこんな思いをする必要があったのだろう。
そもそも恩人にづけづけとした物言いをして、無礼じゃないか。
衝動的にそんなことをしてしまった理由にもすぐに見当がついた。
セオルはキセキにとっての『どうでもいい』であることを認めたくなかったのだ。
それは頼る先がキセキしかいないということもあったが、こんなにも近くにいる英雄を手放したくないという、ワガママこそが正体だろう。
だったら、これはやっちゃいけないことだ。
「ごめんなさい、キセキさん」
「えっと、なんで謝ったんだ?」
「オレはいま、あなたに縋ろうとしたから、自分の道をあなたに押しつけようとしたから」
キセキはセオルに施してくれた、未来と、活力を与えてくれた。だけど、それを勘違いしてはいけない。それに寄生することを受け入れたとき、セオルは今度は自分で『夢』を曇らせて失うことだろう。
「……俺のことは知ってるんだよな」
「知ってる」
『閃の勇者』、大英雄トオミチ・キセキ。
数多の奇跡をおこした大衆と国の希望の象徴的人物。
「それでも頼ることを良しとしないか、どうしてだ?」
彼が尋ねる。
答に迷いはなく、セオルは彼を向く。
「オレは、『英雄』を目指しているから」
手を伸ばし続けると決めたから。
絶望の底から見上げた『夢』、そこから目を離さないと決意したのだ。
「なるほど、これが、『本物』か」
セオルの見上げる頂にいるはずのキセキは、しかし、どうしてか憧憬のまなざしでセオルを見下ろしていた。
それも一瞬。
「くっくっくっ! はっはっハーッ! よし、分かった。踏ん切り着いたし得心いった。お前はセオルだっ! ああ、お前はセオル。なあ、セオル! お前も俺をキセキって呼べよ? そうじゃ無いといけないぜ?」
「うわっ!? ちょっ!」
キセキは忍び笑いを振り切ったみたいな悪童のような大笑いに変えて距離を詰め、セオルの頭をぐしゃぐしゃにした。
「や、やめてくれよっ!」
「んじゃあ言ってみろ! キセキだぞ、キ・セ・キっ!」
「き、キセキっ!」
ぐわんぐわんになった頭で言われるがままに吐き出したら「オウッ!」と威勢良くキセキは返してきた。
やっと解放されたと思うと、目の前に手が差し出された。
「従いて来いよセオル。手伝ってやるよ、俺の旅が終わるまでの間だけどな!」
出来るものならなと吊り上がった口角の隙間から漏れ聞こえてくるようだ。
セオルの決意を試すつもりだというのだろうか、ならば喜んでその挑発に乗らせて貰おう。なにせ、セオルの『夢』から直々の挑戦なのだから。
少し震える手で一度ぎゅうと拳を握ってからセオルはキセキの手を取った。
「よろしくお願いしますッ!」
弟子入りは威勢の良さがいの一番。
いつか婆に強請りに言ったときにもそう言われたからセオルは腹の底から声を出した。
……直後にキッチンから怖い顔した旦那が出てきたのはご愛敬だ。