英雄の覚悟②
「着きました」
クレアに言われて、顔を上げると、ひび割れた外壁の小さな家の戸口の前にいた。
屋根から煙が上っている、どうやらクレアの用事の人は中にいるようだ。
クレアは一息入れてから手の甲で扉を数回叩いて、住人が待っても出てこないからもう一回、待って、もう一回と繰り返した。
セオルの村だったらこんな上品なことをする人はいなかった。みんな用事があれば勝手に扉を開ける。
そう言えば、騎士が一回だけ村に泊まったことがあった。
そのときに扉を叩くのを見ていた女達が一時期だけ扉を叩いて入ってこいと言うようになった。セオルも他の男達もうんざりしながら聞いてやった。そのうち女達の方から飽きたからやらなくなったが。
「ああ分かった分かった。出て行ってやるよ待ってろ」
クレアが辛抱強くやったから、だんまりを決め込んでいた住人もとうとう観念して扉を開けた。
「言っただろ、扉を叩いて良いのは一回だけ、余ってたら食い物をやるけど、出てこないなら諦めろって」
不機嫌なその男の顔には見覚えがあった。というより、ぺしゃんこになった片方の服の袖を見れば瞭然だった。
門の前で見た、水呪狼の毒にやられて腕を落とした傭兵だ。
「いいえ、食べ物をせびりに来たのではありません。あなたに用事があって訪ねてきたのです、中で話をしても?」
「お前……、ああ覚えているぞ。一緒に仕事をするのに、挨拶に顔も見せない薄情者だったからな」
ふんっ、と男は鼻を鳴らした。
「見舞いか? 酒は持ってきたのかよ?」
「いいえ、しかし土産は持参していますから。子供が二人です、怖くなんて無いでしょう?」
「生意気なヤツめ、挑発しやがって。ああ、怖くないね、入れよ礼儀知らず」
傭兵は扉をつま先で蹴って開け放った。
立て付けが悪いのか、クレアの後から入って扉を閉めようとするとぎちぎちと音がなった。
「おい壊すなよ? オレの家だぞ」
乱暴に扱っているのはそっちだろうに。
家の中はすかんぴんだ。
酒の瓶が数本、椅子も机も無い。
仕事に使う道具は部屋の隅まとめてあって、木で組んだベッドで部屋のほとんどが埋まっていた。暖炉で燃える焚き火に混じって、汗とも体臭とも違う臭いが一つしか無い部屋に詰まっていた。
肉の臭い。
膿の臭い。
病人特有の胃がむかむかしてくるイヤな臭い。
ベッドの横の桶に突っ込んである茶色に濁った水に浸かった布きれが発生源だろう。
「さあ用件を言え。オレはやることがある。一刻も早くこの腕を治療しなけりゃならん」
無くなった腕は戻らない。
傭兵は魔力を切断部に集めて、傷が完全に塞がるのを待っているのだ。それは迅速に行われなければならない。
早ければ早いほど片腕の生活に慣れることが出来る。片腕でも出来ることを証明しないと仕事が無くなる。仕事が無いと食えない。
クレアは暖炉の前に座った男の前まで歩いて、自分の身体を揺すった。
ぼとり、ぼとり、外套の内側から袋が四つ、男の前に積み上がった。
中身はあの金だ。
いつの間に小分けしたのだろう?
セオルが外套の上から分からなかったのは、こうやって分けた袋を身体のいろんなところにくくりつけて、全体の違和感を少なくしていたからだろう。
「おいてめえ、コイツはどういうつもりだ」
低い声で傭兵が言う。
「コイツはどんな冗談だ、笑えねえ。てめえはどんな理由でオレに金を渡そうってんだ。場合によっちゃぶっ殺すぞ」
傭兵からしたら侮辱もいいところだった。
これだけの金があれば片腕でも食っていける。だけど、よく知りもしないヤツにこれからの生活を面倒みて貰うだと?
それでは屈服だ。
この金を受け取れば矜持も意思も生きることさえも、全部を売り渡したことになるでは無いか。
それは奴隷とどれだけ違うのか。
「答えろクソガキ、できねえならこの目障りを引っ込めて表へ出ろ。それから二度とオレの目にその薄汚ねえ外套をさらすな」
傭兵は本気で激怒している。
さっきからちらちらと視線が商売道具に行っている。
セオルは警戒したが、クレアは動じず、淡々と言った。
「これは報酬です」
「報酬だと? オレは水呪狼も赫獣も狩っちゃいない。仕事は終わらなきゃ報酬にありつけない。それを知らないんだったらてめえに仕事を教えたヤツはクズだ」
「あなたが『白銀の誓い』に忠実だったから、その報いです」
クレアの言葉に傭兵は瞠目した。
さっきから動作の合間に顔が引き攣っていた、腕の痛みが引かないのだろう。今だけは、それを忘れたようだった。
「あの腕輪」
クレアの視線はベッドの上に、置かれた汚れて鈍い輝きを放つ腕輪に向いた。
「『汝、銀の国のためにその力を振るえ』、シルヴェルトの正規兵へ贈られる勲章と薫陶」
厳かに、クレアは亡き国を語った。
「ウォールにはシルヴェルトから流れた人々が数多くいます」
「そのとおりだ、サンクトアに征服され、シルヴェルト民はナレイブ側とサンクトア側に逃れた。そのあとオレたちの母国はナレイブとサンクトアの戦いの土俵にされた」
やりきれないと言った顔で、傭兵は床を睨んだ。
「クソみたいな話だ。オレたちは憎むべき国の兵士にされて自国の地面を踏んだ。ナレイブでクソッたれな『目と太陽』の奴隷刻印で顔を汚された同胞と殺し合ったんだっ!」
シルヴェルトの地は精霊力が濃い。
その環境に慣れていない者にとっては常に魔力酔いの様な症状に見舞われ、酷ければ身体が精霊力に耐えきれず腐り出す。
現地の人間を使おうと二大国が考えるのは当然の流れだった。
「あなたは戦い続けた」
戦争が終わってもなお、ウォールに逃れたシルヴェルト民のために、誓いに従って。
クレアは傭兵に語りかけ続ける。
「行いには報いが無ければならない。そうじゃなければ誠実な者は不幸になるばかりです。だから、あなたの行いには報酬があるべきです。……その行いに報いる者がいるとするならきっと、わたしこそが一番相応しい」
「そいつはいったい……」
困惑の視線を受け止め、クレアは膝を着き、いつの間にか握っていた短剣を外套に入れて、自分の髪を一房切って金の横に置いた。
「ああ、ああ、そんな、あなたはっ!」
傭兵の変化は劇的だった。
さっきまでの脅しを引っ込め、驚愕と歓喜に打ち震え、ついに滂沱さえ流し始めた。
「ああ、ああ、そんな、そんなっ! オレたちのために勇者召喚で全ての魔力と生命を使ってしまわれたと、そう聞いていたのにっ! そんな、あなたはっ!」
「いいえ、わたしは何者でもありません。何者であってもなりません。サンクトアと戦い、ナレイブとサンクトアの戦争でも戦い、あなたも、たくさんの人もいい加減うんざりでしょうから」
全てはセオルの頭の上で交わされていた。
セオルに分かったのはクレアと傭兵の間でがかけがえのないやり取りが行われているということだけだった。
「あなたは、しかしあなたが不幸だ、あなたのためならオレはッ!」
「なら金を使いなさい。出来れば今までと同じようにあなたを訪ねる人を食わせてやりながら暮らしてください」
それだけ言うとクレアは立ち上がった。
傭兵はもう、言葉を無くしたか。暫しの躊躇いの後に床に勢いよく頭をぶつけると、金の入った袋をかき集め、鶏が大事な我が子を暖めるように腹の下に入れた。そして、何度も嗚咽混じりに礼を繰り返した。
クレアが歩き始めても傭兵は神仏を目の当たりにしたように平伏したままだった。
「用事は終わりました、行きますよ」
一番近くで疎遠の場所にいたセオルはクレアに言われてやっと自分を取り戻した。
立て付けの悪い扉は押しただけでは開かなかったのだろう。クレアはノブを持って一回止まってから、扉を開けた。
セオルは顔を上げない傭兵を一瞥してからクレアの後ろを追いかけたのだった。
クレアは外周を回る帰り道を選んだ。
セオルが退屈しないように違う道を選んだのだと思うのは、考えすぎかも知れない。
「あの人の家、どうして知ってたの?」
「前に扉を叩く子供達に食べ物をやっていたのを見ました」
あんな外れの方、散策でもしてなければ見つけられないだろうに。
いつの間にか、セオルはクレアの隣を歩けるようになっていた。彼女の心の内を一片でも覗けたからだろう。
「あんな大金、なんにも思わないの?」
「金はそれ自体に価値を見いだすか、それによって出来ることに価値を見いだすかの二通りの満足の仕方が出来ます。わたしの場合、使い方に金の価値があったというだけです」
傭兵の家を訪ねたときよりも一回り小さくなったクレアは淡々と言う。
彼女はやっぱりエトルが理解するには難解だ。
「あなたは金より肉でしょ、そういうことです」
「それならわかりやすいや」
冗談のつもりだろうか、だとしたら随分打ち解けたものだ。
「一つだけ、大事なことについてヒントを差し上げましょうか」
きっと彼女も今日一日で多少なりとも絆されたに違いない、こんな言わなくても良かったようなことを自分から言い出したのだから。
「『勇者』の約束された『力』の根拠はどこにあると思いますか?」
召還されし強力な力を持つ者、それが『勇者』だ。
では、その力の源は、いったいどこにあるというのだろう。
「降参って言ったら答えをくれる?」
「もちろん、ただしよく考えた後にです」
「それじゃあ、いつになるか分からないや」
曖昧な裁定だ。
クレアが納得するまでずっと待たなきゃいけないということだから。
「いいえ、期限は限られていますよ」
クレアの言葉に、セオルは軽い調子で「なんでさ」なんて言ったのだ。
「一ヶ月」
「えっ?」
「あのひと月のうちにキセキの旅はおわります」
クレアは足を止めて、隣で歩いていたセオルも三歩進んでから「え?」と振り返った。
「そんな、だって、そんな急に……」
「だとしてもです。あなたは重大な決断をしなければならない。もう時間は多くありません。覚悟はきっと間に合わない、だけれど、決めなければならない」
金眼が暮れていく日に不気味に光っていた。
「英雄の道は思い通りにならない、キセキが戦いを強要されたように。英雄の道を歩めばたくさんの不幸を見なければならない、この街に光と影があるように。英雄の道は決断を繰り返す、傷が癒えていなくても立たなくてはならない」
「それでも」と、彼女は再び歩き出し、セオルとすれ違ったのだ。
「――それでも、心が望む限りは進むのです」
言葉は、セオルの真ん中にずしりと刺さった。
「置いていきますよ」
自分の中に湧いたたくさんの感情を処理しきれず凍ってしまったセオルはクレアに言われてからようやく我に返った。彼女が角を曲がる前に追いつけなきゃ見失ってしまう、セオルは走って遠い背中を追いかけた。




