英雄の覚悟
通りに戻ると、クレアは屋台まで行ってセオルが夢中になった真っ赤なソースのサンドイッチを買って来た。
「少し歩きます、食べながら行きましょう」
一つをセオルに渡すと、もう一つは自分で囓る。
意外だった。
クレアは食器を使わないと食事はしないと勝手に思っていた。
「それでは旅ができないでしょう」
呆れた声で言われてから、たしかにその通りだと思った。
「どうして買ってくれたの?」
まだ、宿での食事からそれほど時間も経っていない。旅もしていないし仕事もしていないから夜も食わなくてもいいくらいなのに。
「今朝は物足りない様子でしたからね。それに食べていればわたしの胸を見ないでしょう」
「だって気になるんだ、クレアこそどうして平気なんだよ」
あれだけの大金をよくも平然と持ち歩きできるものだ。セオルだったらきっと一生ギルドに預けたままになるだろう。
「懲りませんね、あなた」
忠告したことをもう忘れたのかと、外套の奥からじろりと睨まれる。
もちろん忘れてなんていない。だけど、行きとはまた事情が違うでは無いか。
「それから、言っておきますが胸に金は入っていません」
クレアが自分で突いてもじゃらじゃら鳴らなかった。
そんなバカな!
クレアの外套は全身が見えなくなるくらい大きいが、セオルの顔くらい大きな袋が入れば流石に膨らむ。
セオルの見る限りクレアの身体が盛り上がっているのは胸だけだ。
「いったい、どこにやったの!?」
「教えませんよ。教えたら見るでしょう? それよりもあなたはさっきから女の胸や尻を舐め回すように見ていることを自覚するべきです」
ぐうの音もでなかった。
頬を張られたって文句は言えない。
「ごめんなさい」
行きに通った見るも聞くも騒がしい通りとは違う道を、大人しくサンドイッチを食べながら従いて歩くことにした。
あっちの道は見る者がたくさんあって目をどっちにやるかで忙しいくらいだったが、路地を数本挟んだこっちの通りは退屈だ。
どことなく薄暗く、違う世界のことみたいにあっちの通りの声が聞こえてくる以外は静かだ。
人は見かける。
布に穴を空けただけみたいな粗末な服を引きずる子供に、値踏みするように睨んでくる男。建物の間に木板を架けた細路地には痩せた老人が座ってぼおっと空を見ていた。
盗賊の根城の牢屋に戻された気分だった。
サンドイッチはとっくに食べてしまい、手持ちぶさたになったセオルはなんともなしに足を止めた。
そうすると、さっきの子供がやって来てセオルの服を引いた。
「なんかくれ」
ぶしつけな子供に困っていると、クレアが戻って来てその子供に食べかけのサンドイッチを出してやった。すると子供はひったくるようにサンドイッチを取ってその場にかがんで急いで口に詰め込み始めた。
「こういう道では立ち止まってはいけません。さあ、行きますよ」
さっきよりも早足になったクレアに、セオルは後ろ髪を引かれる思いで従いて行く。振り返ると、さっきの子供が逃げるようにどこかに走って行くのが見えた。
「ここは、やな感じだ」
ドブを嗅いだみたいな顔でセオルが言う。
「英雄になりたいそうですね。彼らを救いたいとは思わないのですか?」
「……?」
ぴんと来なかった。
セオルには彼らが風景にしか見えない。
例えばさっきの子供が大人に殴る蹴るされていれば行ってやって払ってやるだろう。でも、彼らは彼らの生活をしているのだから、それをどうこうしてやらなければという気持ちにはならなかった。
「救うって、なにから?」
「……餓え、生活、暴力――いえ、わたしにもわかりません」
申し訳ありません。
彼女は謝った。その謝罪はセオルじゃない誰かに言っているように聞こえた。
「あなたは、単純ですね」
またバカにした。
「どちらかと言えば褒めています。良いことです、キセキは良い生活を知っている分、どうしてもこの世界に対して敏感でしたから」
心当たりがある。
立ち寄った村で病気の子供を見たとき、キセキはその子供の父親と同じ顔になっていた。
「キセキは本当は殺したりは嫌いなんですよ」
「好きなヤツは頭がおかしいヤツだろう?」
普通の人間なら理由もなしに人を殺したりしない。気軽に食事をする感覚で人殺しなんてされたらたまったもんじゃない。
「……そうですね」
クレアはどこか言い切れなさそうだった。
しばらく黙って歩いていたが、目的地にはなかなか着かない。
「まだ?」と一度聞いたら、「こらえ性がない子ですね」と母親のような口を利かれたからもう絶対に言わない。
退屈が無くなったわけではなかった。それどころか、もう喧噪も聞こえてこなくなったし、ずっと同じ場所を回ってるみたいに景色も変わらない。
セオルの注目はクレアに戻っていた。
「ねえ、クレアってばそんなにきっちり歩いて疲れないの?」
靴の下に滑車でも仕込んでいるのかと疑うくらいクレアは滑らかに歩く。猫背にもならないし、ほとんど肩も上下しない。お手本みたいな歩き方だ。
「もうクセのようなものです。わたしには必要なことでしたから」
綺麗に歩くことが必要になるってどういう場合なのだろう。
詮索してもいいものだろうか。
聞こうか迷っていると、おきまりのクレアの罵倒が飛んできた。
「あなたは一生を使っても上手なスリにはなれませんね。ボールを咥えて尻尾を振る仔犬をみているようです」
「また犬扱いしたっ!」
大きなお世話だ、セオルの人生にスリになる予定なんか無い。
「いっそ本当に犬になればわたしだって相手が楽しいでしょうに」
「犬が好きなの?」
「慕ってくるのなら面倒を見てやらなければならないでしょう。面倒を見てたら愛情も湧くものです」
もしかしたらクレアはかなり面倒見が良いのではないだろうか。
今朝のテーブルでだって、セオルが取ろうとしたらなにも言わなくても料理を取り分けてくれたし、キセキに押しつけられたセオルのこともよく見てくれている。
「それで、わたしの歩き方でしたね」
こうやって聞いたことにも答えられることなら、ちゃんと教えてくれる。
「知っているでしょうが、わたしは魔力をほとんど持っていません。市井の人々の半分も無いでしょう。全身を魔力で強化なんてすればすぐに枯渇してしまう。だからわたしは全身の必要な箇所だけを魔力で強化し、瞬発的に力を引き上げる術を見い出しました。わたしの歩き方はその過程で身についたものです」
山の上で消えたように見えたアレはそういう理屈だった。
クレアは少量の魔力を使ってなにも考えずに潤沢な魔力で全身を強化したセオルを圧倒したのだ。
「わたしは動作に使われる力の動きを知る必要がありました。歩くという行為は意識をすれば全身を使っていることがわかります。右足を出したときには、つま先からはじまり左肩の一直線までの全てが連動し、身体を支える左足から出来る軸は各所で微妙なバランスを調整する」
それらの動きを把握しやすくするために、クレアは歩行を矯正したのだという。
聞くだけで途方も無い話だ。
試しにやってみようとしたが、クレアとの距離があっという間に開いてしまったから止めた。
クレアはセオルが遅れたのに当然のように気がついていて、追いつくのを待ってから話を続けたのだ。
「覚えたいのならまずは普段の動きを理解しなさい。手を伸ばしたときにどこに負荷が掛かっているのか、椅子に座ったらどこに体幹があるのか。あなたはわたしと違って急ぐ必要が無いのですから」
裏を返せば、昔のクレアはこの術を早急に身につける必要があったと言うことだ。
「クレアはどうして強くなりたかったの?」
セオルは夢のためにどうしても強くならりたい。そこに迷いは無く、だからこそクレアとの共通点があると知って嬉しくなって尋ねてた。
「義務です」
「ぎむ?」
クレアの答えは、セオルが期待したものよりずっと固い言葉だった。
「わたしはキセキに対して責任があります。だから戦うキセキの隣に立つための力がどうしても必要でした。しかし、当時のわたしは魔力を失い、人を動かす力もありませんでした。彼を支えるならわたしが強くなるほかに無かったのです」
当たり前のように言うクレアだが、その覚悟はどんな戦士にも劣らない信念で固められている。
彼女の言う義務が、クレアに自分はキセキの奴隷だと主張させるのだろう。
忠実で裏切らない、キセキを純粋に支えるための道具だと。そうあろうとして、努力をした彼女だからキセキのパートナーを主張し、裏切り憤った。
これはキセキも頭を下げるほか無いはずだ。
クレアはキセキに対して献身的だ。
だったら、
「オレを殺そうとしたのは、やっぱりキセキのため?」
朝食の場で、クレアは嫉妬でセオルを殺そうとしたと言った。
さすがに鵜呑みにするほど、セオルだってバカじゃ無い。
だって、彼女は頭のおかしいヤツじゃ無いのだから。
クレアはセオルを殺そうとしたときに自分の大事なものを踏みにじろうとしていた。そして、それをさせるものが彼女の中にあるなら、『義務』しかない。
「……」
クレアはなにも言わなかった。
答えられない質問だと言うことだ。
そんな気がしてたから、セオルも黙って従いて歩いた。
(キセキのためなら、オレは死ねるのかな?)
命を助けられて、世話になりっぱなしの大恩人。
そんな彼のためにセオルは自分の命を捨てられるのだろうか。
死ぬのはイヤだ。
英雄になれないし、自分が死ぬって考えただけで気分が悪くなる。
盗賊に捕まっていたときだって、セオルは一度だって死にたいなんて思わなかった。ずっと生きて生きたいと思っていた。そのためなら他の奴隷の影に隠れたし、惨めだと知っていながら、からかいもやり過ごした。
キセキが不幸になるのもイヤだ。
セオルはキセキが好きだ。
恩人と英雄を差し引いてもやっぱり好きな人間だ。
ぐるぐるぐるぐる、考えたってどっちもイヤだった。
結局セオルの下した決断は、『見送り』だった。
全ては旅の終わりを待つしか無い。
そのときにはきっと全部分かっているだろうから。どっちかしか選べないとして、どっちの方が大事かはっきりしたらそれに従ったら良い。
もやもやした気持ちを首を振ってあっちへやろうとしたが、上手にはいかなくて、セオルは自分の靴先をじぃと見て歩いたのだった。




