プロローグ 終わりの旅のはじまり
きっと英雄になれると信じていた。
幼い夢想だって、近所のおじさんやばあさんにほほえましく見られたって、信じて疑っていなかった。
丁稚になったあんちゃんからもらった木の剣をいつだって手放さなかった。
やがて夢から覚めなくてはいけない年になっても、セオルの心はいつだって英雄に向いて外れることはなかった。
きっと英雄になるのだと、信じて疑わなかった。
物語に生きづく彼らのように。
御旗の元に多くの人を導いた彼女のように。
きっと、あの人のように。
戦乱に道を拓き、光を示した異世界から召喚された大英雄のように。
心はずっと夢へ向いていた。
英雄になれると思っていた。
じゃらり。
手かせにつながった鎖に引っぱられて、セオルはつんのめった。
があがあと、太った土気色の男が何か言っているが、セオルはまともに聞き取っちゃいなかった。
えへえへと媚びへつらった顔さえしておけばいいと、何度も殴られて憶えた。
ほら。
ぺっと吐きつけられた黄色い唾液がセオルの頬をねっとりと流れる。
これが、セオルの現実だ、夢の果てだ。
戦乱の煽りがセオルの街を焼いたあの日に、セオルの夢も砕け散った。
セオルはそのときなにも出来やしなかったのだ。
がくがくと震えていて、家族が酷い目に遭いそうになってからやっと下っ端の盗賊一人に殴りかかったが、大人の腕力と鉄の武器はセオルの木剣を粉々に砕いた。
セオルはただ見ていた。
全部蹂躙されて、滅ぼされて、最後には殴られて気絶して、気がつけば鎖につながれていた。
一人ずつ知り合いはどこかへ行ってしまい、きっとセオルだっていつかそうなる。それまでただ毎日こうやって鎖で引かれて言われた作業をして、牢屋に戻される。
ここが夢の袋小路。
セオルの末路。
(オレは、オレは……)
「英雄になんてなれない……」
久しぶりに出した言葉は擦れている。
それに、なんてことだろう。
「あっ……」
頬を涙が伝っていた。
もうとっくに枯れたと思っていたのに、こんな風にメソメソするなんてはじめの数日以来だった。
そんなセオルを見て、盗賊達は嗤う。
ニヤニヤして、指を差して、予定外にちょっと摘まめる菓子をもらったみたいに嗤っていた。
余計なことをすればヤツらに目をつけられる。
キマグレでヤツらの遊びに連れてかれることだってあるんだから、みんなそうならないように祈って毎日言われたことだけを粛々とこなしてるというのに。
セオルだってそうやってやり過ごして他の者にルーレットの針を当てて来たのだ。
今さらなにを泣くというのだ。
それほどにヤツらに良いようにされていることが悔しいというのか。
ならどうして甘んじてきた。
今日まで他の人間の影に隠れてきた、どうして今さらだ。
ぐじぐじと目を拭ったって、もう遅いんだ。
ヤツらはセオルを今日の遊びに使うことに決めたらしい。作業を中断させられて、セオルの鎖だけが他の者から切り離された。
そうして、木板を立てかけた壁際にまで引っ張られる。
ぎぃいん ぎぃいん
刃が擦れ合わせる音が、セオルの耳朶を掻いて、顔が引きつる。
ヤツらはこれからセオルに刃物を投げる。
セオルはここに立って声を出さないようにする。
声を出してしまったら順番が回ってきていたヤツの負けという遊びだ。
それがヤツらが飽きるまで何度も繰り返される、合間に負けたヤツの腹いせに殴ったり蹴られたり指を落とされたりしながら、何度もだ。
大抵は、途中で的が死んで終わる。生き残ったって、まともに治療なんてしないから作業に戻されてすぐに死ぬ。
これが、いまからのセオルに起きることだ。
(ああ、死ぬんだ)
大して変わんないだろうに、片目を瞑って狙いをつける痩せぎす男を見ながら、セオルは思った。
(オレは、死ぬんだ)
もう一回思ったとき、ぎゅんとみぞおちの底が抜けたみたいな恐怖を覚えた。
死ぬ、死ぬ、死ぬ!
がたがたと、震える。
それをみて盗賊達が腹を抱えて嗤ってヤジを飛ばす。
でも、止まらなかった。
寿命を縮めるだけと分かっていながら、セオルは自分の身体が震えるのを止められなかった。
気がついたのだ。
どうして自分が泣いたのか。
諦めたくなかったからだ。
(オレは、まだ、英雄を夢見ている――)
幼い頃からひたむきだった。
ただただ、心は英雄を向いていた。
砕け散ったと思ったその夢に、いまでもセオルの心は向いていた。
「お、オレは、えぐ、……えい、英雄に、ひっ、なりたいっ!」
盗賊達は、呆れた顔で肩を竦めた。
これではゲームにならないと、興ざめた顔で刃物に手を伸ばす。
殺されるのだろう。
遊べないおもちゃを大事にメンテナンスするような行儀の良い連中じゃない。
セオルは力の入らない咽で叫いたが、それで容赦する連中でも無い。
だけど、このとき、刃が襲ったのはセオルではなかった。
ズンッ
天地が鳴動する。
立つことさえ許されない、背骨を鷲掴みされて無理矢理に揺さぶられているみたいな屈服を強いられる、暴力的な力。
実際はそうでは無かった、この場にいた人間全員が、揺さぶられたのである。
目視することこそ出来ないが、この世界の人間には大小備わっている魔素が、強すぎる魔力に影響を受けて一斉に律動し、結果、身体に不調を来したという理屈。
つまりは、それほどに力のかけ離れた魔力の使い手がこの場に立ち現れたと言うこと。
抵抗すら許されず、凡夫の彼らはただ首を差しだすことだけを強要される理不尽が、この場を支配したということである。
既に、沙汰は下っていた。
先に揺さぶった魔力こそが、一刀の余波であったのだろう。
盗賊達が余さず真っ二つとなっていた。
いつか彼らの前で切り裂かれたセオルの知人達とは似ても似つかない死に様だった。
精錬された魔力で放たれた一刀は、盗賊達の力任せに振るう不細工なそれとは一線を隔していた。
断面が数秒経たいまになってさえ崩れず、ようやくつぷつぷと赤いシミが臓腑の薄桃肉に浮かんできていた。
かつり、靴音が岩壁に返ってセオルの耳に届いた。
「あ……」
セオルが声を漏らしたのは、そこにあったのが、まさしく物語のページから抜け出してきたかのような光景だったからだ。
鎧を纏い、白地の剣を腰に佩いた黒髪の青年。
額から頬の下まで引っ掻いたみたいな傷がある彼は、セオルをじっと見ていた。
やがて、口を開いて、言ったのだ。
「心はまだ、望んでいるか?」
見定めるようであった。
一切の虚実は、この青年の前では許されない、そう思わせる正厳さがあった。
セオルは立ち上がっていた。
手枷に襤褸、青年とは正反対のみすぼらしい姿で有りながら、堂々と憧れた姿の前に自分を晒し、こくりと頷いたのだ。
「そうか」
青年は、笑ったのだ。
盗賊達とも、幼い頃セオルを見ていた近所の大人とも違う笑顔。
晴れやかに、ほんとうにほんとうに良かったと、ようやく大切なものに辿り着けたとでもいうような笑顔だった。
もう一度夢を望んだ日、少年は英雄と見え、終わりの旅は始まった。