009 「魔法使い、階層ボスらしきものと戦う」
僕は、一度だけ通常のトロルを見たことがある。
その時はまだ、パーティーとしてそこまで強くなかったときだった。
それでも、ノルンに回復してもらいながらなんとか中層までたどり着き、ゆっくりと足を休めながら進んでいた。
が、なにかをむさぼるそいつがいたんだ。
僕たちは、トロルのいる一つ上の階層にいた。
だけど、目の前を歩いていたパーティーの一人が突如現れたそいつに食われた。
当然、下半身のみが消失したその人は、重力に従って地面へと落ちる。
それを待っていました、と言うようにトロルは再び口を開け、一飲みにした。
あの瞬間は――――悲劇は、忘れることができない。
「なんでここにトロルが……くそおっ!」
トロルだけには二度と会いたくなかったけど、ここで会ったのはなにかの運命なのかな。
今目にしている下半身の上には、あのとき見た恐ろしい顔があるのだろう。
太く鋭利な牙が乱立した口内。
あのときよりも筋骨粒々としたその巨体。
そのどれもに敵うはずがなく、ただ僕は恐怖に支配されている。
膝が笑って脚は動かず、心臓は破裂しそうなほどに速く鼓動を繰り返し、息を吸う度にどんどん力が体から抜けていく。
「僕が……弱いから。僕が魔法が使えたらこんな風になんてッ!」
とてつもなく悔しい。
抗うことさえも許されないだなんて、そんなのおかしいだろ。
せめて、あらがって、あらがって、あらがって……それでもダメだったら、諦めるしかないけど。
でも、僕はまだなにもしていない、なにもできていない。
どうにかできるはずもないけど、なにかをしなければどうにもならない!
「――――ティニアス、逃げろ!」
僕は、ブルブルと震える体からなんとか声を絞り出す。
立つことさえもままならなくなってきたから、僕はもうだめかもしれない。
それでも、動ける内は精一杯やってやる。
「アルクさん、それは不可能ですわ! 噂に聞いた通りなら、トロルからは逃げることはできませんの! とても鼻が利くそうで、ダンジョンから出るまでしつこく追いかけて来るんですわ!」
「そんな、じゃあどうすればいいんだ? 二人ともここで終わるだなんて、そんな馬鹿げた話……」
ティニアスの言うとおり、もうなにをしても無理なのかな。
そんなこと、言わせたくないし、思わせたくない。
僕は、あらがうんだ。
「トロル、僕はここにいるぞ!」
少しずつティニアスのいる方向から体をずらしてきたので、トロルがこちらを向いたところで彼女が見つかることはない。
だから、あとは僕がなんとかしないといけない。
せめて魔法が使えれば…………ああっ、できないことを考えたって仕方がないだろう。
「GRAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
トロルは、その声で僕に気づき、両手を組んで上の階層の地面に叩きつけて見事に破壊する。
すると、その懐かしさをおぼえる恐ろしい表情が露になる。
僕は、パラパラと層の崩れた欠片が落ちる度、心が抉られていく。
これが、戦意喪失ってやつなのか。
トロルの顔を目にした瞬間、僕の思考は止まったように動くのを止めた。
負けたのを本能的に認めたのか、僕は認めていないというのに。
なんて勝手なんだ、そう文句をたれる気力さえなく、ただうちひしがれる。
「……だけど、ティニアスが逃げれるんならいいか。僕は父さんのようになることができなかった、それだけのことじゃないか」
僕が言うと、トロルはこちらに手を伸ばしてきた。
もうできることはやった、あとは父さんに謝りに行くだけなんだ。
そうだ、トロルは父さんに会わせてくれようとしてるのかもしれない。
そうか、じゃあ僕はこのまま――――
「ハアァッ!」
――――キィンッ、ギチッギチギチッ。
僕は目を閉じたっていうのに、トロルの手がのびてこない。
ああ、父さんが僕に会うのに準備をしてるのか。
ならしょうがないな、少しだけ待ってあげよう。
そういえば、ティニアスは逃げられたのかな。
少しだけ様子を――――
「よかった、無事に戦って…………る? なんで……なんで、ティニアスがここにいるんだよ。逃げてって、僕は逃げてって君に言ったじゃないか! これじゃあ全部台無しだ。君が逃げてくれないと――」
「でもアルクさん、泣いている人を置いていくなど、私にできるとお思いですの?」
ティニアスは、トロルの拳を受け止めながら酷く悲しそうに僕に言う。
まさか、僕の他にも逃げれない人がいたなんて。
でも、彼女だけでも生きていてくれればいいんだ。
「ティニアス、そのプライドを捨てないと死んでしまうよ! 生きている間なら、いくらでもやり直せるんだよ! だから、生きてほしいんだ。僕とここまで来てくれた君に、一緒に怒ってくれた君に、感謝してるんだ」
「その言葉、綺麗にお返ししますわ」
「え?」
理解できない、なんでこんな言葉をティニアスが返してくれるか。
返さないで、そのまま逃げてくれればいいのに。
「アルクさん、私だってあなたに感謝してるんですの。私だってあなたに生きてほしいんですの。それに、泣いているのはあなたですわよ」
「なにを言って……」
僕は、頬がむず痒くなったので、唯一動く手の人差し指でかこうとした。
すると、触れた人差し指が濡れる。
目から滴る生暖かい液体が、頬を伝って再度人差し指を濡らす。
「なんで……」
「それは、死ぬのが怖いんですの、悔しいんですのよ。アルクさんがなにをお考えになられているのか、私には理解の及ばない範囲ですわ。ですけど、やはり怖くて悔しいんですのよ。私だって怖いですわ。だから、死なないでくださいまし。一緒に帰るんですわよ、二人で」
――――バキィンッ。
金属質な音を経て、拮抗していたティニアスの剣が中程で折れた。
その衝撃で、剣は彼女の手から離れて僕の近くに落ちる。
「……と言いたいところなのですけど、無理みたいですわ。ごめんなさいですの、偉そうなことを言ってしまって」
ティニアスは、膝から崩れ落ちる。
その頬に、僕と同じく一滴の涙が伝う。
死ぬのが怖い、その言葉が僕の中で繰り返される。
そんな僕たちが感傷に浸る時間さえ惜しげに、剣をへし折ったトロルは、嬉しそうに両拳を打ち合って音をならす。
そのまま、獲物を見定めるように僕と彼女を交互に見る。
そして、見定めたのは――――
「だめだっ。だめだ、だめだ、だめだっ。トロル、こっちを向け、こっちを見るんだ!」
ティニアスの方だった。
トロルは、ダンジョンを破壊しながら腕を大きく振りかぶり、彼女に向けて放とうとする。
「それだけは、やめろ……やめてくれ、頼むから!」
僕の声は届いているのか、聞く気がないのか。
トロルは一切こちらを見ず、ニヤリと微笑んだ。
「僕が魔法が使えれば……ッ!」
せめて、トロルの気をそらす程度のものでも、魔法が使えればいいのに。
せめて、トロルの気をそらす程度のなにかができればいいのに。
なにかないのか――そう辺りを見回すと、先程とんできた剣が転がっていた。
「でも僕は、剣だなんて握ったことないし…………だけど、これしかないんだ。今僕ができるのは、剣を握ることだから!」
僕は、ギリギリ手が届く範囲にある剣に手を伸ばす。
不自由な体は中々動こうとしないので、少しずつ揺らして剣のある方に体を倒した。
それと同時、伸ばしていた右手が剣に触れる。
「よし、これで―――ううっ”、う”あ”あ”あ”あ”!?」
剣を握る手がじんじんと痺れ、脳まで激痛がはしる。
それだけではなく、体を巡る血がマグマのように煮えたぎり、肉を焼くような痛みでどうにかなりそうだ。
熱くて痛くて熱くて痛くて――――これらの正体がなんなのか、僕には分からない。
頭が痛くて、頭が回らないから。
「だけど、この剣で僕は――――お前を斬るッ!」




