第四話 戦勝祝賀会
苦戦は続きます。
1
世界は雨に支配された。初夏の雨はピレネー山脈の冷気を身に纏って、絶え間なく山地に降り続けている。
カエサルの兵士たちは、天幕の陰で身を寄せ合っていた。椀の汁を啜り、身体を温める。
椀に顔を突っ込む集団に、指揮官カエサルも混じって食事を摂っていた。
ある兵士が「量が少ない」と、不満の声を上げた。椀の中身は、お湯の中に小麦を挽いた物体が僅かに浮かんでいるだけだった。
陣の中から賛同する声が上がった。いや、実際に声は聞こえない。兵士たちの全身から、無言の抗議が湧き出ていた。
カエサルは、勢いよく立ち上がり、「補給部隊を呼べ」と厳しい口調で命令した。
ローマからの補給部隊を並ばせて「なぜ、食糧が少ないのだっ」と、一喝した。雷鳴のような怒りに、兵士たちは不満を上げていた者も含め、凍りつく。
補給部隊の兵士が慌てて、「市場では食糧の買い占めが横行しております。物価は数倍に膨れ上がり、日用品が市民にも行き渡らない状況です。食糧の購入は至難を極めました。今回の補給で、もう限界です」と、目に涙を浮かべている。この兵士の責任ではない。
カエサルは、しばらく兵士の話に耳を傾けていたが、話を手で遮った。次は自分が話す番だ、とばかり「兵士諸君」と優しい口調で兵士たちに語り掛けた。
「今日のように苦しんでいるのは、諸君らだけではない。ローマに残してきた家族たちも同じ苦しみを味わっておる」と、家族を引き合いに出した。何人かの兵士が頷いた。
「確かに、ローマの補給だけでは足らぬ。だが、我らの補給は、ローマのみではないぞ。ガリアからの補給が間もなく到着する。期待して待て」と、高らかに宣言した。
誰かが「将軍閣下」と叫んだ。絶叫を皮切りに、兵士たちが賞賛の歓声を上げる。カエサルは手を振って応えた。
兵士たちの不満は消え、普段の食事風景が復活した。
だが、問題があった。
肝心のガリア補給部隊が遅れている。気まぐれな蛮族たちが寄り道もせず真っ直ぐ戦場に来るとは思えない。
カエサルは何度も、ガリアの長老たちに「まだ来ないのか。ガリアからヒスパニアは、それほど遠くはあるまい」と催促の手紙を送っていた。その返事すら、来ない。
味方の食糧事情が明らかに悪い。ヒスパニア軍団を早期に討伐できれば問題ないが、前回の補給経路分断作戦が失敗してから、次なる手を決めあぐねている。
このまま、ガリアからの補給が間に合わなければ、食糧は底を尽く。私たちは飢え死にするか、空っぽの腹を敵の槍で突き立てられるだろう。
食事の時間が終わると、雨足が強まった。雨が大地を叩きつけ、音を鳴らす。
カエサルは天幕の中で仕事に没頭していた。私は、というと、カエサルの手伝いに忙殺されている。
兵士が一人、「た、大変ですっ!」と、中に飛び込んできた。報告というより、悲鳴であった。
「何が起こった」
異様さを感じ取ったカエサルは、外に出た。兵士は陣を囲む川の上流を指さした。荒れ狂い、濁流が渦巻いている。
誰かの叫び声が聞こえる。川上から黒い塊が姿を現した。その塊が浮かんだと思うと、荒々しい激流に呑み込まれていく。
カエサル軍の兵士たちは呆然と見送るしかなかった。口に出さないが、その塊が橋の残骸だと分かった。誰もが通った、あの滑りやすい丸太の橋だった。
ファビウスが設置した橋は、味方がシコリス川を通過できる唯一の手段である。橋を失えば、閉じ込められ、退路を失う。
いや、それだけではない。補給経路も失う。ファビウスの橋は、カエサル軍にとっての生命線なのだ。
時を同じくして、敵陣から歓声が上がった。敵も丘の上から橋の残骸を見ていた。
勝利を確信した敵の声が、私たちに重く伸し掛かった。
「ファビウス殿より、伝令っ」
悲痛な報告が追いかけてくる。北の橋を警護しているファビウスの早馬だった。
「我が軍の橋が落ちました」
自分たちの見間違いだと、どこか願っていたところがあったが、願いは破壊された。陣に動揺が走った。
カエサルは表情を変えず、あえて落ち着いた口調で訊く。
「アフラニウスめに落とされたのか」
カエサルの問いに、報告者は、かぶりを振った。
「敵の仕業ではありません。この雨です。雨が山に残った雪を溶かし、シコリス川が氾濫し、激しい水流を引き起こして、橋を決壊させました」
聞き終わると、すぐにカエサルは指示を下す。対応が早い。
「橋を復旧させるぞ。人数を集めよ」
報告を聞きながら、対策を練っていた。みるみる復旧部隊が編成されていく。
氾濫。洪水。
……川の泡。丸太の橋を渡ったときに見た泡が、ふと頭によぎった。
あれは、なんだったのか。気になる。疑問を解消しようと、私は東方の兵法書を開いた。表面にロウを塗ってあるので、雨水に当たっても溶けない。
「雨で川に泡が見えるときには、川を渡ってはいけない。洪水の兆しである」と、兵法書にある。
兵法書に書いてある通りの事態が起きた。
川の泡、つまり洪水の兆しには、気づいていたはずなのに。
何故あのとき兵法書を思い出して、カエサルに指摘しなかったのか。
いや、東方からの兵法書がどうとかを聞き入れてもらえるとは思えないが。
復旧部隊が陣を出発する。雨の勢いは衰えず、視界と行軍を妨げた。
北のファビウスとの合流を果たす。ファビウスが部下を指揮して、橋の復旧工事をしていた。
ちょうどそのとき、向こう岸の森から、集団が見えた。怪物か猛獣かを意匠した、赤く着色された大盾が目を引く。ガリアからの増援部隊である。私たちが待ちに待っていた補給部隊も後方に続いている。
決壊した橋を前に、立ち往生していた。
ガリア増援部隊の側面に、見えづらい茂みから巨大な影が飛び出してきた。体当たりを喰らったガリア増援部隊は、混乱した。
攻撃を仕掛けた影は、敵の騎兵であった。ファビウスの復旧作業を想定したところに、偶然にもガリアの増援部隊の到着を知った、と思われる。
ファビウスは、ガリア増援部隊に援護を出したがった。だが、対岸の出来事なので、対処できない。飛沫を撒き散らす凶悪な川の前で、なすすべなく味方の無事を祈るしかなかった。
迎撃の準備をしていなかったガリア増援部隊は散り散りになって、森に逃げていった。
ガリア人には戦場に妻子を連れてくる習慣がある。そのため、我先に逃げるので、多数の追撃を許す退却となった。
敵の騎兵は、ガリア増援部隊を敗走させると、姿を消した。
すかさずファビウスは、兵士たちに橋の復旧工事を指示する。
川の流れは荒く、足場が不安定である。川底に杭を一本、打ち込むと、あっさり激流に流されていった。
向こう岸の高台に、敵の軽装歩兵たちが現れた。弓を構え、矢を放ってくる。
ファビウスが危険に気づいても、遅かった。工兵は矢を胸に受け、赤い潮になって濁流に呑み込まれていった。
2
補給経路が断たれて補給部隊も敗走させられた以上は、周辺の村々から食糧を買いとるしかない。
カエサルはすばやく調達部隊を編成した。
慌ただしく兵士たちが陣内を駆け回る中、カエサルに「何をしておる。そなたも行くのだ」と横目で催促された。
私が行っても意味があるのか分からない。それでもカエサルは、有無を言わせない。
仕方なく空の荷車に乗る。調達部隊が陣を出て、私の乗った荷車が動き出す。
丘は薄暗く、雨が降っている。周囲の歩兵たちは、疲労と空腹で表情が暗い。
荷車の脇に騎馬が近寄る。馬上の騎兵が話し掛けてきた。
「僕は、ルクルス。君が噂の、新しい愛人かい。ずいぶん若いんだなぁ」
ルクルスは私の顔を覗き込んで、意外そうな口調で感想を述べた。
少し腹を立てた私は、「誰が、カエサルの愛人ですって? 根拠のない噂を流したら、カエサルに叱られるわよ」と、返しに軽く脅した。
つまらない話につき合う暇はない。
ルクルスは慌てて、「怒らないでよ。僕は何も特徴のない一般人。ただの平均的一般人が、ごく平均的一般的な推理をしたまでさ。君は女好きのカエサルと天幕で日々を過ごしている。何が起きてもおかしくないよ」と、必死に弁明し始めた。
だが、余計に傷口を広げているだけだ。ルクルスの慌てふためく様子が楽しくなってきたので、意地悪な質問をした。
「本当にあたしがカエサルの愛人だったら、どうするの? 貴方が疑っていると、あたしがカエサルに密告したら?」
ルクルスは自分の首に手をあて、舌を出した。
「迂闊な発言だったなって、死ぬ間際に後悔するだけさ」と、私を笑わせる。
私が笑ったので、調子を取り戻したらしい。ルクルスは、平均的一般人らしい推理を披露した。
「君みたいな子が、補給調達に参加してどうするんだい? ひょっとして、僕たちの見張りだったりして」
いちいち自分を不利な方向に話を持っていく。
「自称凡人のあなたが不正行為をするとは思えないけど。でも、言葉には注意したほうがよさそうね。余計な疑いを懸けられちゃうかもよ」
ルクルスは静かになった。言い過ぎたかもしれない。
ルクルスは、ローマでは希少な馬に乗っている。乗馬の訓練は、幼少の頃から行う必要がある。
訓練用の馬を保持しているほど裕福な、金持ち階級の出身である。ルクルスは、自称するほど平均的一般人ではない。
シコリス川の支流が網の目のように張り巡らされている。小川を水源にして小さな村々が点在していた。
荷車から川を見る。雨で流れは速いが、氾濫の心配をするほど強くはない。
ルクルスが、「ここら辺は、水害の影響はなかったようだね」と、平均的一般人な感想を述べた。
「今度ここで戦えばいいのよ。カエサルとポンペイウスにお願いしてみようかしら。……今度があれば、だけど」と、我ながら情けない返事をした。
調達部隊が村々を巡回する。食糧を買い求めるが、「すべてポンペイウス軍に売り払ったので、余分に売るものはない」と、異口同音に断られた。
ルクルスは、「相場の倍を出すって、交渉をしたのに……。僕の平均的一般的な交渉が通用しないなんて」と、唇を噛んで悔しがった。
最後の村までも反応は同じで、結局、買い取りができた村は、一件もなかった。
「ヒスパニアはポンペイウス支持だから、カエサルに冷たいのよ」と、ルクルスを慰めた。
ルクルスは、馬上で頷いた。
「それもある。でもね、それは、軍略家の発想だよ。僕ら平均的一般人は、食べなきゃいけないからね。敵だろうと味方だろうと、渡すにも限界があるよ。自分の取り分は確保しておきたいよね。平均的一般的に考えれば、当然だ」
空腹が満たされるわけでもない議論をして、私たちは雨の中を帰還した。
そうか。これが戦争なのか。
生産活動が止まり、食糧がなくなる。一番に困るのは、名もなき無力な人々だ。私はローマで、既に経験している。
今の季節は初夏。作物の実る秋まで、しばらく時間が掛かる。
荷車が空しい音を立てて進む。私たちは無言で陣に戻った。
ルクルスはカエサルに無味乾燥な報告を済まして、天幕を出ていった。
カエサルの隣で、他の調達部隊から報告を聞く。どの部隊も収穫がなかった。
調達部隊の報告が終わり、カエサルは兵士たちに休むよう命令した。
静まり返ったカエサルの天幕に、音もなく入ってきた者がいた。カエサルが予め敵陣に潜ませていた密偵である。
早速、カエサルに、報告をした。
「アフラニウスは酒と肉を兵士に振る舞い、宴をしています」
敵は戦勝気分でいるらしい。カエサルは平然として表情を崩さない。
「敵陣からローマの情報も手に入れました」
ローマではカエサル絶体絶命の噂で持ちきりになっていた。三角州に閉じ込められ、退路なし、補給経路なしのカエサル。
中立であったはずの元老たちが次々とポンペイウス支持を表明する。戦勝祝賀会を開いている輩もいる。
密偵の報告を聞き終え、カエサルは静かに目を閉じた。
「そうか。わかった。持ち場に戻れ。……敵は、宴会に忙しいようだから、邪魔をせず、静かにな」
密偵を下がらせた。カエサルは寝台に向かった。カエサルが寝息を聞いて、私も眠りに就いた。
次の朝、騒がしさで目を覚ました。異常を感じ取ったカエサルが天幕を出ると、兵士たちが騒いでいた。
「何が起こった」と、周囲に訊いた。暴れる兵士を皆で押さえている。
「この者が、村の娘に手を出しまして……」と、カエサルに引き出した。
加害者らしき男が「濡れ衣ですっ」と、カエサルに向かって喚いた。
兵士の中から誰かが叫んだ。
「抜かせ。被害者の娘を殺して、顔を潰しておくとは、ずいぶん用意周到だな」
「諦めろ、目撃者は多数いるんだ」
目撃者と思しき兵士たちが横に並び、口々に「あの男がやりました」と言明する。
カエサルは、「棒打ちに処せ」と、冷然と命令した。「婦女子に手を掛ける者など、カエサルの兵にはおらぬ」と、切り捨てた。
暴れ狂う男は上半身を裸にされ、縄で両手両足を縛られた。素肌をさらした背中に棒を一撃される。「違う!」と、男の悲鳴が追いかける。
「違う!」と、皮が裂ける。「俺じゃない!」と、血が吹き出る。何度も何度も、棒打ちが繰り返される。
棒打ちの音が、一定の強さを保っているにも拘わらず、男の悲鳴は弱くなっていった。あまりの惨状に、私はその場に座り込んだ。
しばらくすると、打撃音も悲鳴も聞こえなくなった。男は、死んだ。
カエサルは何事もなかったかのように兵士たちに隊列を組ませ、ファビウスの橋があった場所に向かわせた。
兵士たちの表情が青白い。罪を犯したとはいえ、さっきまで仲間だった者が死んだ。楽しい話題ではない。
だが、兵士が、一人だけ含み笑いをしていた。私の視線に気づいたのか、見返してくる。私は下を向いて顔を隠した。
ありがとうございました。