第三話 イレルダの死闘
戦争シーンが好きです。
雨は止んでいた。だが、曇空は依然として残っており、緑の丘陵を暗く濁らせる。水溜まりが残る丘にカエサルの軍は行軍した。カエサルの馬車が水溜まりの泥を撥ねる。
目的地に着くと、カエサルは馬車から降りた。軍馬に颯爽と跨がり、馬上の人になる。
カエサルに倣って、私も馬車から降りる。奴隷の私には軍馬は用意されていないので、徒歩である。
カエサルの隣で指示を待つ。
周囲の人々は気に留めない。私は、ただの奴隷なのだ。
カエサルの兵士たちは整列し、カエサルの指示を待っている。
馬上のカエサルは、その場をゆっくりと一周した。カエサルが見つめる一点は、一つの丘だ。丘の頂上には、敵の軍旗がはためく。
カエサルは「あの丘の麓まで進み、待機せよ」と命令した。
出陣する前に、「敵陣と補給基地の中間地点を占領する」と当初の考えとは違い、最初の命令は「敵陣を包囲せよ」だった。
カエサルの考えは、陽動である。
重装歩兵は密集隊形を採って、敵のいる丘を半包囲した。
歩兵たちは槍と盾を構え、カエサルの指示を待つ。カエサルは「まだ動くな」と兵士の攻撃を制止した。
敵も隊列は構えているものの、丘の頂上から動こうとはせず、カエサル軍を静かに見下ろしている。
高所とは有利である。わざわざ有利を捨てる根拠が、敵にはない。
両軍はお互いの出方を窺って睨み合っている。静かな戦場に冷たい風が吹き荒んだ。兵士たちから体温を奪っていく。
「後列、塹壕を掘れ。前列は密集隊形を保持したまま、後列を守れ」と、兵士たちに工事を命令した。工事中の兵士は無防備なので、前列の兵士に護衛させる。
敵が動かない時間を利用して防衛設備を設置する。やはりカエサルは、時間活用の天才である。
塹壕が掘られていく中、カエサルは騎兵の隊長を集めた。
例の小高い丘を指さして、「あの丘に登り、頂上を占領するのだ。その後、援軍が来るまで持ち堪えよ」と指示を出した。
騎兵たちが隊列を作って、小高い丘に向かった。
敵陣の包囲や防衛設備の設置……やはりというか、すべて敵から意識を逸らすためだった。
騎兵たちが地面を鳴らし駆けていく。彼らの後ろ姿を見送った後、私は敵陣に視線を移した。
いくつかの影が、敵陣から飛び出した。動きが速い。あの速さは、騎兵だ。
敵の騎兵は、敵陣の丘と地続きの丘……中間地点の丘に向かっている。目標地点はカエサルの騎兵と同じだった。どちらが先に着くかの競走になった。
私は叫んで影の軍団を指し示し、皆に伝えた。
皆が気づいたときは、遅かった。地続きを通る敵が、先に到着した。
丘は頂上に向かうに連れ、高い木と茂みが増えていく。味方の騎兵が頂上の茂みに消えていく。
叫び声が聞こえた。叫びは恐慌の響きに近かった。声に続き、金属の衝突音が鳴り始める。
しばらくすると、静かになった。
騎兵が茂みから現れ、丘を駆け降りてくる。味方の兵だ。二人、三人……と数が増えていく。
負傷、疲労の表情を浮かべている。一人の騎兵がカエサルに駆け寄った。
「目標地点で敵と遭遇。交戦となり、敵の先制攻撃により自軍は敗走しました」
わらわらと騎兵たちが戻ってきた。敗走である。
作戦が崩れても、カエサルの対応は素早かった。
「重装歩兵を動かす」と早馬を呼び、各軍団に「敵陣の包囲を解いて、あの小高い丘に向かえ。先回りが失敗したのならば、取り返すまで」と、周囲に言い聞かせた。
カエサルの命令に応じて味方の軍団が包囲を解き、そのまま反転して、小高い丘に突進する。
敵陣から、重装歩兵が湧いて出てくる。続々と小高い丘に移り始めている。
カエサルの重装歩兵は勇敢な声を上げて丘を登った。敵が丘の頂上から、槍を雨のように降らしてくる。
低地からの攻撃は、明らかに不利であった。カエサルの歩兵たちは、密集隊形のまま、大盾を頭上に掲げて屋根を作り、槍の雨に備える。
ローマの投げ槍は、盾に刺さると折れ曲がる仕組みになっている。刺さった槍が重みとなって、持ち主は盾を放棄せざるを得ない。
盾を失った兵士が、屋根の穴になった。その穴に、矢と石が降り注ぎ、兵士が脱落していく。
さらに丘には木や茂みといった障害物が多く、肩を寄せ合って作る密集隊形は、自然と解体されていった。
一方、敵は、密集隊形を採らず、散らばって槍を投げ掛けてくる。障害物で身を隠し、こちらの反撃を凌ぐ。
カエサルは敵の散開戦術を見て、「これは、蛮族の戦い方であるぞ。ローマ人の誇りを捨てて、ルシタニ族の真似をするとは。なんという恥曝しだ」と、毒づいた。負け惜しみである。
カエサルの重装歩兵は苦戦を余儀なくされた。気づけば、全軍が丘の麓まで押し返されていた。
カエサルは、へこたれない。カエサル最強の軍団を呼んだ。
「第九軍団。丘の敵を殲滅せよ」
カエサルは抽象的な命令をした。戦術も工夫もない、凡庸な指示である。聞く人が聞いたら、カエサルを愚将だと誤解するかもしれない。
だが、死をも恐れぬ歴戦の勇士たちには充分な命令だった。第九軍団は鈍重な重装歩兵とは思えないほど軽快な足取りで、丘を一気に駆け登っていく。
無意味とばかり密集隊形を散開して、各自の槍を敵に振る舞った。各所で血祭りが起こる。
異様な迫力に敵兵は怯み、丘を放棄し敗走した。敵の逃亡先は、イレルダだった。
第九軍団は勢いに乗って追いかける。丘の占領など、眼中にない。ただ、カエサルから受けた指示、すなわち敵の殲滅を、ひたすら遂行するだけだ。
イレルダに向かう道は、両側に険しい崖が切り立っていて道幅が狭かった。地形が混雑を招き、追撃の手は次第に勢いを失っていく。
渋滞する第九軍団を尻目に、敵はイレルダに逃げ込んだ。城門を固く閉じ、籠城の構えだ。
以上の報告が、私たちの元に届く。
カエサルは「これでよし。速やかに撤退せよ」と命令した。周囲は「せっかくの好機なのに」と不可解な表情をお互いに見せ合っている。
第九軍団は、攻城兵器を持って行かなかった。撤退は当然の選択である。
私は馬上のカエサルを見上げた。この男は、なんて決断が早いのだろう。
だが、敵将アフラニウスも決断が早かった。増援部隊を、陣からイレルダに差し向けていた。密集隊形が、味方の背後に迫る。
カエサル軍の一人が後方の敵に気づいたが、遅かった。すでに退路は断たれていた。
時を同じくしてイレルダの城門が開かれる。中には敵兵たちの勇壮な姿が見える。援軍の到来に、自信を取り戻した。
「挟み撃ちになったな、ラビエヌス」と、カエサルは表情を曇らせた。ラビエヌスの責任にしたがっているかのようにも聞こえる。
手元から軍が離れ、カエサルには直接指揮を執る術がない。忸怩たる思いが、表情から読みとれる。
総大将なきカエサル軍は、独自の思考で軍を二つに分けた。二つになった軍は背中合わせになって、迎え撃つ準備をする。
敵味方がお互いを視認した瞬間、突撃が始まった。
重装歩兵の突進は、海の波に似ている。前後から迫る鋼鉄の荒波に、カエサル軍は自らも波となって応戦した。
敵味方の大盾が激しくぶつかり合った。最前列の兵士は、背後の仲間に押され、前方の敵が構える大盾に潰されて死んだ。
密集隊形同士の死因は、多数が圧死である。
金属音と人間の怒号、悲鳴が交錯する中で、波のぶつかり合いが、ひたすら一進一退を繰り返す。
挟み撃ちを受けているとはいえ、味方が有利だった。先ほどまで寒冷地ガリアで蛮族と戦争をしていた。長い間ずっと実戦から離れていたヒスパニア軍など、怖くもなかった。
不利を感じ取った敵は、重装歩兵を後退させて、間合いを採った。密集隊形を解除し、隣り合う歩兵同士に隙間を作る。
その隙間から、後列に控えていた軽装歩兵を前進させた。現地の兵士たちは弓を構えている。重装歩兵を通り越し、横一列になって矢を放った。
弦が音を鳴らす。次々と鳴る弦の音は、死を呼ぶ音楽のようだった。味方の頭上に無数の矢が舞い上がった。
降り注ぐ矢の雨が、盾で作った屋根に突き刺さっていく。雨は重く、密集隊形を動揺させた。
屋根の一部が脱落し、矢を受けた兵士は、死んだ。死者を踏み越え、味方は突き進む。
接近戦になれば、軽装歩兵など、重装歩兵の敵ではない。現地兵は踏み潰されまいと、慌てて引き下がった。
今度は、敵の重装歩兵が軽装歩兵と入れ替わり、怒濤となって突撃してきた。
敵の動きに、活力がある。アフラニウスは、疲れた兵士を後方で休ませ、元気な兵士に交代させている。
一方の味方は、疲労困憊していた。長旅と土木作業を終えたばかりである。無理もない。
三倍近い兵力差は、疲労という形で、戦場に具現化し始めた。
経験の差も、疲労には勝てなかった。じりじりと押され、背中合わせの味方は、急速に生存領域を失っていく。
戦局を変えようにも、頼みの騎兵は棒立ちだった。隘路のため、騎兵は最も得意とする、敵の背後に回り込む戦術ができない。
戦局を変える工夫として、味方は距離を保ち、槍を投げつける。
が、投げる槍を使い果たすのも、時間の問題であった。
兵士の一人が腰の小剣を引き抜いた。それに呼応するかのように他の兵士も次々と小剣を抜く。
ローマの決戦兵器は刃渡りが短く、連続攻撃を可能とする。密集隊形はもはや無意味になり、散開した。敵も密集隊形を散開させ、戦場は敵味方入り乱れる混戦となった。
味方の勇士が、盾の角で敵の一人を殴りつけた。体勢を崩した敵の懐に飛び込み、無防備な胴に小剣をねじ込む。犠牲者は悲鳴を上げ、倒れ込んだ。
カエサル軍は個人的な戦闘力を頼みに、道を切り開いていった。
敵兵一人一人には、どこかカエサル軍の出方を窺っている雰囲気がある。それもまた、実戦経験の差であり、勇気の差である。白兵戦では先制攻撃が有利なのだ。
敵の死体が増えていく。逃げ出す者も現れた。敵の増援に異常が起こり始めた。
カエサル軍の逃走経路を封じるべき本来の役割を忘れて後退している。敵味方との間に空間ができた。その空間を砂煙が横切った。
砂煙が晴れていく。中から、カエサルの騎兵隊が姿を現した。轟音を鳴らし、大地を揺らす騎馬の重量感は、敵兵に生物的な恐怖を与えた。
萎縮した敵が、さらに後ずさりすると、味方の歩兵は敵との距離から、自陣に届く退路を見い出した。開けた退路に向かって突進する。無防備な側面を見せる危険を冒したが、畏怖した敵は攻撃してこない。
イレルダの敵は味方の背後にいたにもかかわらず、追撃してこなかった。カエサル軍の撤退を確認してから、イレルダの街に引き上げていった。敵味方で打ち合わせをしたかのような撤退劇であった。
自軍の撤退を確認したカエサルは、馬首を返して三角州の陣に戻った。
私たちはカエサルの後を追う。こういう場合のカエサルは無言で行動するので、周囲の人間は若干の困惑を余儀なくされる。
ほどなくして兵士たちが帰還してきた。兵士たちの足取りは悪く、表情は疲労を隠しきれていない。陣地に戻ると、その場に倒れ込む者もいた。
兵士たちの帰還を眺めていると、遠くから斧が木を打つ軽快な音が聞こえてきた。カエサルが狙っていた、敵陣とイレルダの中間地点の小高い丘からだった。
木が次々と倒れ、丘の頂上が露出する。作業している敵兵たちの姿が見える。敵兵は木材を組み合わせて、防壁を建てていた。
本来のカエサルであれば、工事の妨害に打って出るだろう。だが、今回は動けなかった。兵士たちが疲れ切っていて、余力がない。兵士たちは虚ろな眼差しで、敵の工事を見上げるしかなかった。
冷たい。私の鼻先に水滴が当たった。隣では水が金属に当たり、空しい音を鳴らす。
雨だ。周辺は瞬く間に、雨が支配する世界となった。
霧のように小さい雨の粒は、風に流され、衣服の隙間に迷い込む。
雨の中、カエサルは丘の防壁をじっと見ていた。周囲には、疲れ切って立ち上がれない兵士たち。騎兵の数も少なくなり、半数も残っていない。
敵の防壁が、完成した。防壁は要塞と呼ぶには貧弱だが、高い位置から矢を放つなど、侵入者に犠牲を支払わせる機能は、充分にある。
小高い丘の攻略は、一段と難しくなった。カエサルの作戦は失敗した。
雨に打たれたカエサルの背は小さく見えた。丘の上の防壁は、まるでカエサルを嘲笑っているかのように聳え立っていた。
カエサルは真紅の戦袍を翻して天幕に入っていった。総指揮官の姿が消えるのを見て、兵士たちは、無情な雨に体力を奪われまいと、天幕に潜り込んでいった。
「ラビエヌスっ」
天幕から、突き刺すような叫び声が聞こえる。カエサルが叫んだ言葉は、副官の名前である。
天幕の中を覗くと、「おのれ、ラビエヌスがおれば、今頃アフラニウスなどシコリス川に沈めさせておるのに」と、カエサルの大きな背中が怒りで震えていた。
このまま天幕に入りたくない。だが、カエサルにいきなり口述筆記を命じられた場合、このまま外にいては準備が間に合わず、危険である。
躊躇いつつも、私は「ラビエヌスが、その溢れる才能を駆使して、カエサルのご機嫌をとりに来てくれますように」と祈りながら、天幕に忍び込んだ。
中に入ると、カエサルは頭を押さえ、不機嫌な顔つきで椅子に座っていた。前髪の後退した額には、苦悩の皺が深く刻まれていた。
静かに寝息を立て始めた。さっきまで怒っていたのに、もう眠っている。また怒ると困るので、カエサルを起こさないように傍を通り過ぎた。
だが、カエサルの休憩は、一瞬だった。すぐに飛び起きると、自信に満ちた態度を取り戻していた。
いつものごとく空中に向かって指示を飛ばし始める。命令書を書くのは私だ。
ありがとうございました。