第二話 呼び声
続きです。
1
軍は都市ナルボンヌを通過して、ピレネー山脈に到達した。
ピレネー山脈はヒスパニアの出入り口、と呼ばれている。半島を跨がり、天空をも覆い隠すほど巨大な山壁は、神々の創作物であるかのようだ。
予めファビウスがヒスパニアまで先行していたので、敵はピレネー山脈の制陸権を失っていた。伏兵の心配がなく、カエサルは無人の山道を進んだ。
初夏なのに、山道には、まだ白い雪が残っていた。雪溶け水が音を立てて、川に落ちていった。
山道を軍が進む。半数をマッシリアに残したので、軍列は痩せ馬のように心細くなっていた。
馬車の中でも、カエサルは働き続けた。「ラビエヌス!」と、空中に向かって叫ぶ。
ラビエヌス。カエサルの右腕と呼ばれ、優秀な軍事参謀であり、最も強力な指揮官である。
「我らは西のヒスパニアに向かう。マッシリアは、東のローマと我が軍の中間に位置する。トレボニウスらが破れた場合、我らは敵中にあって孤立する。補給物資が届かなくなるであろう。そなたであれば、いかがする?」
周囲を見回したが、馬車の内部である。ラビエヌスなどいない。私をラビエヌスか誰かと勘違いしているのだろうか?
東方の兵法書を開いた。「兵とは、水の形に似ている。水は高いところから低いところに流れる。敵を避けて、隙のあるところを攻撃する。……敵の態勢に応じて、自軍を変化させる」と、書かれてある。
ローマから、水が私たちに向かって流れてくる、映像が見えた。途中マッシリアに潜む敵が、水の流れを断った。水が飲めず、喉が乾く。
私の頭上に、冷たい水滴が掛かった。雨だ。
いいや、ここは、屋根のついた馬車である。私は居眠りをして、夢でも見ていたのだろうか?
背後が無理なら、頭上から……。
「ラビエヌスではありませんが」と前置きした。「ここから北のガリアに、補給物資を要請しては、いかがでしょうか? ガリアは貴方の占領地でしょう」
「さすが、ラビエヌスじゃ。では、ガリアの蛮族たちに、補給を要請しよう。ついでに、援軍も送るよういたす」
カエサルの精神状態が危ぶまれたが、よく見ると、目を閉じて眠っている。私も居眠りをしていたし、二人の会話は寝言の応酬だった。
カエサルが目を覚ますと、使者に書簡を渡してガリアに走らせた。眠りながらも仕事をこなしている。
補給と援軍を確保したカエサルは、ローマから送られてくる戦況報告書に目を通した。素早く指示を飛ばす。指示書は、私が書いた。
敵地が近づくに連れ、カエサルは複数の密偵を放った。密偵の報告はすべて聞き、特に重要な情報を持ってきた者には褒美を惜しまなかった。
豊富な情報量のもと、カエサルは地理と索敵には困らなかった。カエサルの進軍は時には慎重で、時には大胆であった。
カエサルは、情報収集に拘る。宿敵のポンペイウスがローマにいた頃、カエサルの密偵狩りに躍起になっていた気持ちも理解できる。
兵法書にも「軍の中では密偵を厚遇せよ」と書いてある。
カエサルは兵法書を読んでいたのか。いいや、カエサルにしろ兵法書にしろ、一流の論理とは、到達点が同じなのかもしれない。
2
ピレネー山脈を越えた。マッシリアを発ってから、およそ一ヶ月でヒスパニアに到着した。
ピレネー山脈から見下ろす丘は緑で起伏に富んでいた。私たちを囲むように山々が黒い姿を見せている。山頂に目をやると、白い雲が浮かんでいた。
途中から雨が降ってきた。小雨だったが、寒い。山から吹き降ろされる雨風が寒い理由は、山頂にまだ雪が残っているからだ。行軍の兵士たちから体力を容赦なく奪っていく。
風雨の中、いくつもの丘を越えた先に、巨大な川が横たわっていた。シコリス川だ。
シコリス川は雨を吸い込み、流れを早めている。シコリス川を越えると、都市イレルダがある。都市イレルダ付近に、敵が布陣していた。
敵との睨み合いになった。問題は、シコリス川をどう渡るか、だった。南に唯一の通行手段である石橋があるが、敵の占領下にあった。
石橋周辺には、ローマの主力である重装歩兵の他に、ヒスパニアで徴兵された軽装歩兵の姿があった。この軽装歩兵は、現地住民で、飾りのついた長槍と、小さな丸い盾で身を固めている。
この石橋を渡ると、投げ槍の標的になる。
カエサルはイレルダの石橋を避けて北上し、陣を構えて待っていた先発隊ファビウスと合流した。
ファビウスは、「イレルダから少し離れた南の丘に、ヒスパニア軍団が陣を構えております。敵は兵数が多すぎて、イレルダには収容できなかったものと見られます」と、報告した。
それほどの大軍なのか。話を聞いたカエサルの表情には、なんら不安が見えない。
ファビウスはカエサルの到着を待つ間、丘と丘との間に流れる川に木製の橋を架けていた。杭を川底に打ちつけ、その上に三本の丸太を走らせた橋であるが、外見は丸太の集まりである。
雨の中、カエサルは、馬車から降りて地上の人になった。
私も、馬車から降りる。馬車から降りた瞬間、全身を雨に打たれた。
カエサルは真紅の戦袍を翻し、優雅な足取りで渡った。私もカエサルに倣う。恐る恐る橋に爪先を掛けた。
橋の表面は水分を含んでいて、滑り易くなっている。足下から目を離さないで、慎重に進む。
「もっと頑丈な材質にしてくれないかしら。たとえば、黄金で造るとか」と、カエサルに聞こえない音量で不満を零しながら、橋の中央まで進んだ。
誰かに呼ばれた。もちろんシコリス川に知り合いなどいないので、幻聴だろう。それでも気になって、川の上流に目をやる。
わずかだが、上流は渦巻き、泡ができている。
もう少し観察したい。理由は分からないが。川上を見ようとすると、背後の兵に「渡る気がないのか? なら、川に流されてしまえ」とせっつかれた。
突き落とされては困るので、観察を諦めた。
橋を渡り終えると、こちら岸まで兵士たちが馬車を運んでくれた。カエサルに従いて馬車に乗り込む。
イレルダに向かって道なき丘を行く。もはや、カエサルの進軍を遮る障害は存在しない。このまま南下すれば、戦闘である。
3
シコリス川と支流のキンガ川が合流してできた三角州に行き当たった。
カエサルは「ここに陣を張る。背後の川を自然の防壁とする」と、敵陣を視野に入れた。
兵士たちは武器を工具に持ち替えた。ある者は塹壕を掘り始め、ある者は木を刈り倒した。どれも防衛設備に必要な作業だ。
カエサルは高い位置から土木工事を指揮していた。仕事がない私は、カエサルの傍で静かに次の命令を待っていた。
「おい」と、カエサルが誰かを呼んでいる。返事をする者などいない。
私だった。普段は滅多に話し掛けてこないので、反応が遅れた。
カサエルが目を閉じて、「そなただったら、どう戦う」と、質問をしてきた。
妙だ。奴隷の私に戦術の意見を求めるなど、ありえない。ガリアの補給に関して、ラビエヌスの代わりに進言したが、そこを評価してもらったのだろうか。
実は、途中で私の進言だと気づいていたのかもしれない。
「答えるのは、吝かでないけども、情報が少なさすぎるわ。味方と敵。兵力の差はどれくらいなの」と訊いた。
カエサルは「こちらは三万。敵は八万だ。戦力差は、たったの五万である」と、落ち着いた口調で返す。
三万対八万。兵力差だけで考えると、敗北は明らかである。本来、自軍は六万あったはずだ。半数の三万をマッシリアに置いてきた。
だが、指揮官の能力は、どうだろうか。指揮官の力量で兵士の生死が決まる。
「カエサル。敵に総大将のポンペイウスがいないので、貴方に勝る指揮官はいないはず。指揮官の力量次第で、逆転もありえるわ」
カエサルは、「敵の指揮官は、アフラニウスと、ペトレイウスの二人である」と、首を振って反論した。
「アフラニウスは家柄に恵まれ、老齢だが、実戦経験が豊富である。もう一人のペトレイウスは平民出身だが、叩き上げで出世した実力者である。ポンペイウス麾下の中でも、二人とも歴戦の強者であるぞ」
敵の二将はカエサルと比べれば格下である。だが、決して弱将ではない。指揮官の力量はカエサルが勝っていても、八万対三万の兵力差を逆転させるほどの力量差はない。
では、兵士の質は、どうか。
現段階では、カエサルは、かなり不利である。味方の兵士は長旅と重労働で疲れている。しかも補給経路に不安がある。ガリアからの補給もあるが、カエサルが不利と見たら、蛮族たちが裏切るかもしれない。
敵は準備万端で、食糧も豊富だ。ここヒスパニアはポンペイウスの政治基盤で地元住民は協力を惜しまない。実際に、現地兵が敵と同化していた。
頭が痛くなってきた。悩む私に、カエサルが助け船を出してくれた。
「分からぬか。敵側が大軍であるならば、利用するまでである。兵数が多い。それは、飢えを早める結果となるぞ。敵の補給を叩けば、一瞬で戦いは終わる。補給がなければ、兵力差や指揮官の力量など、無意味である」
カエサルは敵の補給を攻撃するのが本当に好きなのだ。
「問題は、どこをどう攻撃するのか、ね。目下、補給基地のイレルダを攻撃すればいいのだけど」
「それも正解である。ただ、イレルダを直接攻撃すると、住民が巻き込まれるかもしれぬ。このカエサル、無辜の民を損なうなど許せぬ」と、カエサルは、泥だらけになって働いている兵士たちに視線を移した。兵士を追う厳しい目つきは、どこか優しさが含まれていた。
兵士たちは不満を漏らさず黙々と仕事に励んでいる。カエサルは話を続けた。
「幸い、敵の陣は、イレルダから離れておる。目指すは、敵陣とイレルダの中間地点にある、あの丘を占領する」
カエサルは敵陣とイレルダの中間地点にある小高い丘を指差した。茂みや木が多い、特徴的な丘だ。
補給基地そのものを攻撃するのではなく、補給経路を分断する作戦だ。
カエサルの話を聞いていると、勝算が見えてきた。
だが、違和感がある。違和感の発生源を目で辿っていくと、石橋が見えた。
先ほど敵が防備していたイレルダに向かう石橋である。この三角州の陣からも石橋が見える。敵は、まだ兵士を置いている。
「あの石橋なんだけど、私たちが迂回したのだから、もう守る必要はないと思う。なぜ、敵は、まだ石橋を守っているのかしら」
石橋に戦略的価値は、ないはずだ。
だが、私の疑問は、兵士たちの歓声に掻き消された。
三角州の周囲に柵と塹壕が完成した。
カエサルは、兵士たちを集めた。泥だらけの姿だが、瞳は
「勇敢なる兵士諸君。よく、ここまで従いてきてくれた。出撃の準備ができた。あの戦いも知らぬ新参兵どもに、我らが力を示してやろうぞ。……すべては、ローマのために」
すべてはローマのためにっ。
兵士たちの声が響き渡った。
ありがとうございました。