第一話 城塞都市マッシリア
ローマを出発したカエサルでしたが、いきなり苦戦します。
1
ポンペイウスは、戦争の天才だ。
カエサルがローマ入りする前に、東のアドリア海を渡ってギリシアに逃げた。イタリアからギリシアに逃げる途中、港町ブルンディシウムに停泊していた戦艦を、すべて独占した。
戦艦を少数しか持たないカエサルは、海上からの追撃を諦める結果となった。ポンペイウスは、イタリアとギリシアを隔てるアドリア海を自然の城壁にしたのである。
カエサルが造船に着手している隙に、ポンペイウスは東で軍備の拡張を始めた。カエサルは、東のポンペイウスを一旦、諦めた。
「まず、西を討つ」と、西のヒスパニアに目を向けた。ヒスパニアは、ポンペイウスの政治基盤であり、ポンペイウスが軍団を予め用意していた。
「将なき軍を攻める」と、カエサルは兵を鼓舞した。ヒスパニア軍団は、精鋭部隊だが、ポンペイウスがいない。
カエサルは自ら軍団を率いてヒスパニアに出撃した。
以上の顛末を、私はカエサルの新作『内乱記』を口述筆記していくうちに、知った。
カエサルは、留守になるローマの防衛を若い武将たちに任せていた。
実際の命令は口頭ではなく、命令書という書面形式を採った。私が命令書を口述筆記した。
カエサルは、私が口述筆記したパピルス紙を巻き、ロウを垂らした。熱いロウに指輪を押しつけ、封印する。
カエサルの指輪は鉄製で、四角い飾りには、家紋が施されていた。封印された命令書は伝令に渡され、各軍団に送られる。
カエサルは進軍中に、いきなり喋り出す。内容は脈絡なく、部下に対する命令であったり、敵将の寝返りを誘う手紙であったり、新作『内乱記』の執筆であったり、不倫相手に送る恋文であったりするので、私としては心の休まる暇がない。
とにかくカエサルの行動は早かった。馬車の外から部下が指示を仰いでくる。そのたびにカエサルは、一瞬にして効果的な指示を出した。
一日が終わると、疲れて、すぐ寝る。
地中海沿岸を進軍し、カエサルと麾下の軍団は、城塞都市マッシリアに辿り着いた。
2
当初、マッシリアは中立を保っていたので、難なく素通りできると思われていた。だがポンペイウス派の武将が入城すると、猛烈な抵抗を見せ始めた。
マッシリアはローマとヒスパニアを繋ぐ交通の要衝である。ここを敵に制圧されると、ヒスパニアに通じる補給線を断たれ、カエサルのヒスパニア討伐は夢に終わる。
カエサルはマッシリアを包囲した。『ガリア戦記』でも実証済みだが、カエサルは包囲戦を得意としていた。補給線を断ち、敵の戦力気力を奪う。
だが、マッシリアは海港である。地中海がポンペイウスの手中にあるのに、カエサルは戦艦を持っておらず、海路、つまり補給線を断つ方法がない。
無尽蔵に近い補給線を手にしたマッシリアは、堅固な城壁から矢と石の雨を降らした。弾が尽きると、時間稼ぎをするために、開門して軍団を出撃させる。補給が完了すると、再び矢と石を放ってくる。
カエサルは一ヶ月もの時間を空費した。
「トレボニスと、デキムス・ブルートゥスを呼べ」
二人を、天幕に呼び「余はヒスパニアに進軍する」と宣言した。
トレボニウスはカエサルを真っ直ぐ見ている。信頼の証、尊敬の念を感じた。
私は、カエサルの隣で口述筆記として控えていた。ところが、ブルートゥスに気づかれた。
私は必死に目を逸らす。だが、理解しがたい存在であるかのように覗き込んでくる。
カエサルは私たちの攻防に気づかず、「ポンペイウスは東のギリシアで軍団を増強し、西のヒスパニアには防備を固めてさせている。これ以上、敵に時間を与える暇はない」と、説明した。
「だが、全軍をマッシリアから離すと、後背のマッシリアから攻撃を喰らい、ローマからの補給線は分断されるであろう。……トレボニウス!」
トレボニウスが「ははっ!」と、進み出た。
「そなたに、我が軍勢の半数を与える。陸地よりマッシリアを包囲せよ」
トレボニウスが恭しく「承りました!」と、ローマ式の敬礼をした。ただでさえ苦戦しているのに、半分の兵力で、トレボニウスはマッシリアと戦わなくてはいけなくなった。
カエサルが、「デキムス・ブルートゥス!」と、叫んだ。ブルートゥスが「ははっ」と前に進み出る。
ブルートゥスは真面目な表情で、真面目な口調で応えた。以前、私に見せた愚か者ぶりが消滅している。カエサルの前では、知性を取り戻すらしい。
「そなたは、海路を封鎖せよ。敵の補給と援軍を断て。兵数の分配に関しては、トレボニウスと協議せよ」
さらに兵数が分散される。
ブルートゥスは、「戦艦は何隻、貰えますか?」と首を傾げた。
カエサルは目を瞑って、「ない」と、即答した。
「……民間の漁船を、二隻ほど調達した」
慌てたトレボニウスが、「戦艦もないのに、どうやってポンペイウスを封じ込めるのですか?」と、間に割り込んだ。
「そもそもポンペイウスは、海賊退治で名を上げたのですぞ? ポンペイウスの海軍は、地中海最強と言えます。漁船で戦艦に勝てるはずがありません」
カエサルは感情を押し殺した声で、「当方に海上戦力なし。デキムス・ブルートゥス。そなたで、なんとかせよ」と、トレボニウスの進言を無視した。
二隻しかない漁船で、最強の海軍に海上戦を挑む。間違いなく、ブルートゥスは死ぬだろう。もはや時間稼ぎの捨て駒である。
ブルートゥスは、しばらく空中を見つめ、笑顔を作った末に、「かしこまりっ!」と、まるで屋台の親父みたいな返事をした。
トレボニウスが背を反らして、ブルートゥスの剛胆さに驚いた。
ブルートゥスは「楽勝、楽勝」と余裕の笑みを浮かべ、私に手を振っている。どこからそんな自信が溢れてくるのか。
3
出発の準備が始まった。
兵士たちが天幕を撤去させていく。カエサルに休憩を与えられた私であったが、やる仕事がないので、野営地を目的もなく歩いていた。
「なぜ、ここにいる」と、聞き覚えがある声が聞こえた。木の陰からだ。
「お前は、マルクス・ブルートゥスの奴隷ではなかったか?」
いつも聞いている声、カエサルの声だった。
私は歩みを止めた。胸の動悸が早まっていく。カエサルが、私の正体に気づいたのだろうか?
木の陰から、「よお」と、ブルートゥスが姿を現した。
「俺は、カエサルの物真似が得意なんだ。カエサルの声って、特徴的だからな。真似しやすい」
ニヤついている。この男の笑い方が、気持ち悪い。笑い方どころか、総合的に嫌いだ。
無視しようとすると、「答えろよ。お前はなんで、ここにいるんだ?」と、厳しい口調で問い詰めてくる。
「マルクスのところに行かなかったのは、何故だ。俺たちの味方をしたら、素敵なお船に乗せられるぞ。……お魚がいっぱい獲れる」
ローマで私は、この男にご主人様の名前を伝えた。カエサルは私のご主人様が誰なのか知らない。ブルートゥスは私の秘密を知る、唯一の人間である。
「ご主人様のところで口述筆記をしていたんだけど、ゾイラスの目に止まって、それから、ゾイラスがカエサルに紹介してくれたの」と、嘘をついた。
ブルートゥスは何かを感じ取ったのか、腑に落ちない様子だ。これ以上しつこく秘密を探られたくない。私は「忙しいので」と背を向けた。
「ちょっと待て。壷になったカエサルが、腐ったイワシをぶち込まれたときの物真似をしてやるから、見ろよ。ほら見ろ」
「そんなものは見ません。……ブルートゥス、宴会芸を披露している暇なんか、あるの? どうやって、漁船二隻でポンペイウスの大艦隊をやっつけるの?」
「知らん」と、ブルートゥスは胸を張って応えた。
何も考えていない。やはり、というべきか。
「あー、大丈夫。俺は生まれてこの方、喧嘩に負けたことないから」と、ブルートゥスは、笑いながら誰かを殴る真似をした。
「ポンペイウスなんぞ、顔面の一つや二つくれてやれば大人しくなるって」
「殴る前に殺されなきゃいいけどね」と、踵を返した。私の秘密と一緒に、このまま海底に沈んで欲しい。
一歩進むと、なにか柔らかい物体に、頭があたった。
見上げると、ブルートゥスの腹だった。
「まだ行くなよ。寂しいだろ」と、大の大人が悲しげな表情を浮かべている。いつの間にか私の背後に移動していた。
カエサルに捨て石にされたブルートゥス。愚かすぎて、そのうち同僚のトレボニウスにも見捨てられるだろう。哀れみを一切、感じないし、通行の邪魔だ。この男を排除する方法はないだろうか?
手元の筒から、東方の兵法書を取り出し、中を見た。ブルートゥスが、「何をしてるんだ?」と覗き込む。
ブルートゥスに理解できる代物ではないので、無視した。
「百戦百勝するより、敵を仲間にしたほうがいい」
特に意識していないが、たまたま見た箇所を音読した。
ブルートゥスが、背を屈めて、私の顔を覗き込んだ。私は後ずさりした。
「ポンペイウスを仲間にするのか? 奴に魚をくれてやろうか。大漁になれば、満足する量だろうよ。漁船が二隻もあるからな」と、言い捨てた。
どうも私が手助けしていると勘違いしているらしい。
ブルートゥスは「ちょっと待った」と、口の前に手を合わせて、一点を見つめ出した。
「ポンペイウスに勝つことは、難しい。でも、仲間にするのも難しい」と、ゆっくりと口を開く。
「だったら、中間を取るのは、どうだ? 殺さず、仲間にせず。つまり……」
私は閃いた。ブルートゥスの顔を見た。ブルートゥスも私の顔を見る。
二人とも同時に「敵の戦艦を奪う!」と、叫んだ。ブルートゥスも私も、光明を見出し、熱を帯びた。
私は少し冷静になって、「問題は、どうやって、だけど」と、不安になった。理屈倒れになるかもしれない。むしろ手段が難しい。
ブルートゥスは、「まあ、任せろよ。そういうのは得意分野だ」と、笑った。やっぱり無理かもしれない。
機嫌を取り戻したブルートゥスは、「ああ、そうだそうだ。ちょうど良かった。お前に、これやるよ」と、布の切れ端を突き出してきた。
布なのに光沢があり、光沢は宝石のように煌めいている。
「この布は、なに」
「絹、という名前らしい。パルティア帰りの奴が持っていた。……パルティアとの国交が穏やかになれば、ローマにも、まだ出回ってくるかもな」
ブルートゥスは頭を掻いた。よく知らないらしい。
パルティア。オクタヴィアヌスが熱弁していた黄金の布とは、この絹を指していた。
「綺麗だろ。お前にくれてやる」と、ブルートゥスが嬉しそうな表情を見せる。自分が渡す立場なのに、楽しげである。
「切れ端なんて貰っても、別に嬉しくないんだから」
私が冷たく言い捨てると、ブルートゥスは傷ついた表情を浮かべた。
「そっか。……じゃあな」と、大人しく背を向け、立ち去った。
ブルートゥスの後ろ姿が見えなくなると、私は自分の口元が緩んでいくのを感じた。
絹の切れ端は、手触りがよかった。なんて不思議な素材なのだろう。
小躍りして、カエサルの天幕に戻った。
出発の準備は終わっており、カエサルは馬車に乗り込んだ。軍隊を纏めて、マッシリアを出発した。
ブルートゥスとは、二度と会えない気がしてきた。
馬車の中で私は、貰った絹を握り締めた。
突如、私の逡巡が打ち破られた。
「軍団兵士が不満の声を上げています」と報告が入った。
カエサルが「何故だ」と、理由を聞くと、「マッシリア攻防戦は苦しかったにもかかわらず、褒美が出なかったからです」と、返ってきた。
「ならば、金を出そう。百人隊長たちを呼べ」
カエサルは、金を借りた。百人隊長たち……歩兵小隊の隊長で最も兵士たちに近い存在……からだ。集めた金を兵士たちに配った。
「百人隊長と兵士たちの信頼関係が深まるであろう。余に金を貸した百人隊長らは、余から逃走できまい」と、北叟笑んだ。
カエサルは、自腹で賞与の財源を捻出せずに、兵士たちの不満を逸らせた。しかし今度は、百人隊長たちが不満そうであった。
ありがとうございました。