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奴隷少女とカエサルの後継者  作者: ビジーレイク
第三章 神聖金庫
5/25

第二話 カエサルとブルートゥス

ついに主役登場です(えっ)。

        1

 新しい生活が始まった。

 ご主人様の屋敷で寝泊まりをするので、雨風を(しの)ぐには困らない。

 問題は、食だ。市場は復活したものの、買い占めが横行していた。すぐに品切れになる。物価が数倍に跳ね上がっていく。

 そのうち麦ですら、私の手持ちでは買えなくなった。食糧庫の中は、まだ余裕があるが、安泰とは言えない。

 食糧節約のために、何度かオクタヴィアヌスからパーニスを恵んでもらった。

 二人きりになると、時々オクタヴィアヌスは、私の肩を抱き寄せ、唇を奪おうとする。そのたびに私は身を躱して危険を回避した。

 それ以外の時間は、すべてカエサルとゾイラスの筆跡模写にあてた。困窮(こんきゅう)が私を没頭させた。

 そんな日々を過ごしていくうちに、カエサルが軍団を引き連れてローマに戻ってきた。

 カエサルは、軍団を城壁の外に置いた。虐殺の不安が消えたことで、ローマ市民たちは安堵した。

 ゾイラスの紹介状を偽造した。これでカエサルを(だま)し、奴隷にしてもらう。書式は、ご主人様の執務室で見つけた紹介状を参考にした。

 私は、すぐには動かなかった。偽造した紹介状は、すぐには見せられない。カエサルが不審に思い、ゾイラスに問い合わせたら、今回の作戦は失敗する。

 カエサルに確認の時間を与えてはいけない。カエサルがポンペイウス討伐(とうばつ)に出発する日まで待つ。

 カエサルの出発日は、オクタヴィアヌスから聞き出せばよい。だが、カエサル邸に入るのは無理だ。中には、カエサルとゾイラスがいる。二人が同時に存在する場所にいては、作戦が破綻(はたん)する。

 カエサル邸の周囲で、オクタヴィアヌスの外出を待った。だが、数日が経っても、オクタヴィアヌスは出てこない。

 出入りする人々の会話を総合すると、どうもオクタヴィアヌスは病気で()せているらしい。弱々しいオクタヴィアヌスの身体つきが、頭に思い浮かんだ。

 ローマの外にカエサルの軍団が駐屯(ちゅうとん)していた。軍事行動もなく、街道や外壁の整備をしていた。カエサルが出発する日とは、軍団が工事を止めた日だ。その日まで、ローマの外で待つ。

2

 数日が経ち、食糧庫が底を突いた。

 カエサル邸の前に行っても、オクタヴィアヌスは現れない。まだ病気らしい。

 買い物をするお金も尽きた。物価が高すぎる。空腹のまま、私は幽鬼(ゆうき)のような足取りでローマの外に出た。

 今日も軍団は、工事をしている。いつになったら終わるのだろう? あまりの空腹で、視界がぼやけてきた。体力を温存するため、私は路上に倒れ込んだ。

「おい、死体が転がっているぞ。誰か片づけろ」と、声が聞こえる。

「今すぐ片づけます」という返事が聞こえた。誰かが私の足を(つか)んだ。

 私は腕を振って、生存を表現した。

「おい、待てよ。生きているぞ」

 私が目を開くと、目の前には馬の足があった。

「こんなところで野たれ死にやがって。俺たちの評判が悪くなったら、どうしてくれるんだ。お前は、どこの奴隷だ?」

 頭上から怒鳴り声が聞こえる。見上げると、軍馬に乗った男だった。

 私は「マルクス・ブルートゥス様……」と、応えた。

「なんだと」

 男は馬から降りて、私を助け起こした。太陽の後光が邪魔(じゃま)して、顔は見えない。

「お前はマルクスの奴隷なのか。こんなところにいるのは、何故だ?」

「カエサルに届けたい文書があるの」

「マルクスからカエサル宛にか。……よこせ」

 厳しい口調で、私の腕を引っ張る。

「だめよ。あたしが直接、持っていかないと、意味がないの」

 そのとき、音が私のお腹から鳴った。

 男は大笑いして、「誰か、コイツに何か食わせてやれ」と指示する。

 軍用パーニスを渡された。口に入れたが、堅すぎる。粉が喉に纏わりついて、咳き込んだ。

 私は宙に浮いた。男が、乱暴な扱いで私を肩に担いでいる。

 (たくま)しい肩が、私のお腹に食い込んで痛い。騎兵は部下たちに何か指示を出して、歩き出した。

「離して」と、私は両足をバタつかせて抵抗した。

 男は無視してローマの門を(くぐ)った。すれ違う市民たちは、男の異様(いよう)な迫力に恐れて身を縮めている。

「貴方は誰なの」

「俺か。ブルートゥスだ」と、意気揚々と名乗った。

「ふざけないで。ブルートゥスは、あたしのご主人様です」

「ふざけてねぇよ。俺は、デキムス・ブルートゥス。お前のご主人様……マルクス・ブルートゥスの従兄弟(いとこ)だよ」

 私はデキムス・ブルートゥスの顔を見ようとした。担がれているので、顔は見えず、広い背中しか見えなかったが。

 デキムス・ブルートゥス。私は、その名前を知っている。ご主人様の従兄弟で、カエサルのガリア攻略に貢献(こうけん)した若き武将である。

「『ガリア戦記』に出てきたわね。海戦が得意で、蛮族(ばんぞく)の艦隊を落とした」

「よく知っているな。お前、奴隷のくせに『ガリア戦記』を読んだのか」

 デキムス・ブルートゥスは、意外そうな声を出した。

「あたし、『ガリア戦記』を写本したことあるけど。カエサルが貴方の仕事ぶりを()めていたから、とても印象的だった」

「ふふん。お前は、写本用の奴隷か。どういうわけかマルクスは、お勉強ばかりだからな。奴隷ですら、お勉強家ってわけか。はっ。あの頭デッカチに言っておけ。もう少し、外に出て身体(からだ)を動かしたほうがいいぞ、ってな」

 デキムス・ブルートゥスが笑った。笑い声が、とにかく不愉快だった。

 この男、デキムス・ブルートゥスは信用できない。そう直感した。

 ここで二人のブルートゥスが出てきた。混同しないために私はマルクス・ブルートゥス様をご主人様と呼び、もう一人のデキムス・ブルートゥスをブルートゥスと呼ぶ。

 誠実で聡明(そうめい)なご主人様より、この粗暴(そぼう)で下品なデキムス・ブルートゥスこそ、愚か者(ブルートゥス)と呼ぶにふさわしい。

 ブルートゥスが、「お前は、ガリア戦役で捕まって売り飛ばされたクチか」 と、()いてきた。

「違うわよ。母親がローマに連れてこられたの。母親がローマで、あたしを産んだ」

「ほう。マルクスの奴、奴隷に手を出すほど飢えていたのかね」

 ブルートゥスがまた、不愉快な笑いを上げた。

 肩で笑うために、震動が私のお腹に来る。それにしても、なんて下品で失礼な奴なのだろう。ご主人様は奴隷を虐待(ぎゃくたい)する人ではない。

 ご主人様の名誉のため、私はきちんと説明した。

「そうじゃないわ。私の父親は、ご主人様の客よ。屋敷に遊びに来ていた若い貴族が酔っぱらって、母親に乱暴したの」

        3

 カビトリウムの丘は、ローマで最も高い丘である。政治経済の中心で、過去のローマ人は森林を切り開き、広い道路を通した。今でも左右に森林が見える。高級住宅が立ち並ぶ中、一際高い建造物があった。それが、サトゥルヌス神殿であった。柱に覆われた、ギリシア風の神殿で、見上げる者に畏怖の念を与えた。

ブルートゥスによると、ここにカエサルがいる。

「カエサルは、何をやっているの」と、ブルートゥスに訊いた。

「はっはー。決まってるだろう。サトゥルヌス神殿に眠っているお宝をいただきに来たんだよ。神殿っつーのは、ローマの金庫だからな」

 神殿の周囲は多数の見物人で(あふ)れていた。

 私を肩に担いだまま、ブルートゥスは神殿に直進した。

「はいはい、すみませんねぇ。白い尻の奴隷が通りますよぉ」

 野次馬たちを蹴散らしていく。吹き飛ばされたローマ市民たちが睨むが、対象は私だった。

 責任を(なす)り付けられて、私は「やめなさい、そんな下品な冗談。貴方はそれでも誇り高いローマ男なの? 恥ずかしくないの?」と、抗議した。

 が、ブルートゥスは、「最近の尻は、(にぎ)やかだな。どこから声を出しているのやら」と意に介さない。言動すべてにおいて、頭が悪い。

 私を地上に降ろした。そこは群衆の最前列だった。

 神殿の前で若者と中年が向き合い、睨み合っている。若者は白い正装(トガ)を着て、もう一人の中年は革の鎧を身に(まと)っている。この人こそ、カエサルだ。

 正装(トガ)を着た若者が、声を張り上げた。

「私は、護民官(ごみんかん)メテルスと申します。……閣下。お引き取り下さい。こちらは、神聖なる場所です。たとえ閣下とはいえ、国の神聖なる金に手を出してはなりません」と、聴衆に自分の正当性を印象づけさせた。

 カエサルは無視して、「錠前を破るぞ。鍛冶屋(かじや)をここに連れて参れと」、部下の一人に命令した。部下はどこかへ駆けていった。

 「神殿を陵辱(りょうじょく)する気ですか」とメテルスが抗議した。野次馬の中から、「そうだそうだ」と声が聞こえた。

護民官(ごみんかん)メテルスよ」

 野次を斬り裂くような声で、カエサルは反論した。

「そなたを(おだ)やかに説得するよりも容易な手段を、このカエサルは知っておるぞ」

 武力を背景とした脅迫は効果的だった。メテルスは、みるみる青ざめていき、静かになった。鍛冶屋が神殿の錠前を破壊しても黙っている。

 カエサルの部下たちが列を作って、神殿から財宝を持ち運び始めた。私が歩けば届く位置で、カエサルが左右の人間に何か指示をしている。

 カエサルの顔を見た。前髪は後退していて、顔には深い(しわ)が刻まれている。逞しさがあったが、疲れも見える。

 今しかない。

 私は大股で、カエサルに近づき、「将軍閣下(インペラトール)」と、震える声でカエサルに呼びかけた。

 カエサルは無視した。見知らぬ奴隷の相手をするほど、暇ではないのだ。

「ゾイラス様から書状をお預かりしております」

 カエサルは反応した。私は筒からパピルス紙を取り出し、片膝を突いて捧げた。偽造の手紙である。

 カエサルの隣にいた部下の一人が、「妙ですな」と、すかさず横槍を入れた。眉をひそめて、怪しんでいる。

「どうした、レピドゥス」

「なぜ、ローマにいるゾイラス殿が、書状をわざわざ書いて寄越(よこ)したのでしょう。本人が直接、閣下に渡せばよいのでは?」

 私は、「ゾイラス様はお忙しいので、あたしがお持ちしました」と(あわ)てて弁解する。

 カエサルは無言で、見せろ、と(あご)(しゃく)った。私は震える手で、偽造したゾイラスの紹介状を渡した。

「これはゾイラスの手紙である。余はこれまで幾多の女から手紙を受け取ってきたが、女の字など忘れるほど、奴の手紙を読まされておるのでな」

 カエサルの声は野太(のぶと)く、どこか人を安心させる響きがあった。

 綺麗に剃り上げた顎を()でて、カエサルは紹介状に目を通した。その間、私にとって長く感じた。

 カエサルはレピドゥスに、パピルス紙を確認させた。

 紹介状を読み終えたレピドゥスが、首を(ひね)った。

「おかしいです。ゾイラス殿の押印(おういん)がありません」

 私は、自分の首から冷たい汗が吹き出ていくのを感じた。

 ローマの貴人は指輪を持っている。指輪は装飾(そうしょく)の度合いで身分を示し、指輪自体が印鑑になっている。公的な文書であれば、必ず指輪印(ゆびわいん)を押す。

 私は、字の真似はできるが、指輪、つまり印鑑までは真似できない。

 自分の身体が震えているのに気づいた。平静を保とうするが、震えを止められない。カエサルを(だま)した。どんな制裁(せいさい)が下されるか、想像もできない。

 レピドゥスが私の異変に気づいた。疑惑の目を私に向けている。

 カエサルは興味深い目で私を見た。

「そなた。余の字を真似することができるのか」

 私は言葉が出ず、ただ、(うなず)いた。喉が乾く。

 レピドゥスが、「はっ。字を真似することができる。それが何の役に立つのですか?」と、反論する。お腹に(えぐ)られるような痛みが走る。

「レピドゥスよ。そなたは、賢き常識人だ。常識的な判断のもと、物事をそつなくこなす。だが、長所であるはずの常識が、最大の弱点になる場合がある」

 カエサルは、パピルス紙を放り捨てた。

「常識人、レピドゥス。そなたは(いくさ)よりも、(まつりごと)に長けている。余がおらぬ間は、ローマを()(おさ)めよ」と命令した。レピドゥスは敬礼で応えた。

「物資が整い次第、カエサルとその軍団は、ローマを発つ」と、高らかに宣言して、歩き出した。

 演劇を見終わったように、取り巻く群衆は消えていった。

 私は、捨てられた紹介状を拾い上げ、歩き去っていくカエサルの後ろ姿を眺めていた。サトゥルヌス神殿で一人、立ち尽くしていた。

 カエサルどころか、ブルートゥスの姿もない。

 作戦は失敗したのだ。このまま、家に帰るしかない。明日から何を食べていけばいいのか。肩を落とし、家に向かう。

「どこに行こうとしている。奴隷が主人を待たすとは、何事か」と。カエサルの声が聞こえた。

 背後の馬車からだった。中に入ると、カエサルが椅子に座っていた。

「採用ですか、あたし。紹介状には、ゾイラスの印鑑は押されていなかったんですよ?」

 馬車が走り出した。カエサルは外に目をやりながら、口を開いた。

「ゾイラスは、余の奴隷である。奴隷が、なぜ指輪印を持てるのだ」

        4

 馬車の内部は狭かった。左右に小窓があり、薄暗い。カエサルは木製の台に腰掛けていた。

 私は、カエサルの横に座った。カエサルは私を見ずに口を開いた。

「ちょうど良かった。口述筆記の奴隷が死んだのでな」

 前任者が死んだから、カエサルの奴隷になれた。運が良かった。

 カエサルが「これで、三人目である。戦時中の奴隷は、よく死ぬものだ」と、乾いた口調で続ける。本当は運が悪いのかもしれない。

「カエサルの書簡は、執政官の手に渡されていたが……」

 話の流れに関係なく、カエサルが唐突(とうとつ)に物語し始めた。一瞬、カエサルの精神状態を疑った。

 だが、すぐに理解できた。カエサルは政治家であり、軍人であり、作家だった。『ガリア戦記』は、ガリア戦役の間に書いた。

 進軍中の隙間時間に書く。これが、カエサルの執筆方針なのだ。すでに口述筆記の仕事が始まっている。

 私は木箱から筆記道具とパピルス紙を取り出し、カエサルの話を文章化していった。

 口述筆記は、身体で覚えている。最初は、カエサルの話に置いて行かれていたが、そのうち追いつき、いつの間にか、カエサルの次の言葉を待つくらいまでになった。毎日、欠かさず書く練習をしてよかった。

 カエサルの話が、急に止まった。集中力が切れたのか、小窓から外を(のぞ)いている。

 この馬車は、どこに行くのだろう。小窓から、夕方だと分かる。いや、もう夜だ。もしかしてカエサルの家に向かっているのか、そんな不安がよぎる。

 窓の位置が高くて、外がよく見えない。カエサルの家には、ゾイラスがいる。ゾイラスと顔を合わすのは危険すぎる。カエサルとゾイラスの話が食い違い、私の偽造が見破られたら、どうする?

 胸に焼けるような痛みが、走った。

 貴人の馬車が、一瞬にして囚人の護送車になった。

「どうした、小便か」

 カエサルが(わずら)わしそうに私を見る。私は首を振って否定した。平静を保とうとするが、落ち着けない。

「……ポンペイウスらは、カエサルの破滅を意図(いと)し……」

 カエサルの執筆が再開した。私も仕事に戻る。動揺して、字を何度も間違える。最初の段階で無能だとなれば、この馬車から摘み出されるかもしれない。

 私の不安を嘲笑(あざわら)うかのように、馬車の車輪が容赦なく回る。馬車から飛び出すべきか。それでは、これまでの努力が無意味になる。

 私が決断を先送りにしていると、馬車が止まった。カエサルは無言で馬車から降りた。

「今夜は、ここで寝る。明朝、ヒスパニアに向かう」

 ローマ門外の野営地だった。

 カエサルは、兵士と寝食をともにするという。ローマの最終日は自宅ではなく、兵士とともに野営地で過ごすほうを選んだ。



ありがとうございました。

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