第二話 カエサルとブルートゥス
ついに主役登場です(えっ)。
1
新しい生活が始まった。
ご主人様の屋敷で寝泊まりをするので、雨風を凌ぐには困らない。
問題は、食だ。市場は復活したものの、買い占めが横行していた。すぐに品切れになる。物価が数倍に跳ね上がっていく。
そのうち麦ですら、私の手持ちでは買えなくなった。食糧庫の中は、まだ余裕があるが、安泰とは言えない。
食糧節約のために、何度かオクタヴィアヌスからパーニスを恵んでもらった。
二人きりになると、時々オクタヴィアヌスは、私の肩を抱き寄せ、唇を奪おうとする。そのたびに私は身を躱して危険を回避した。
それ以外の時間は、すべてカエサルとゾイラスの筆跡模写にあてた。困窮が私を没頭させた。
そんな日々を過ごしていくうちに、カエサルが軍団を引き連れてローマに戻ってきた。
カエサルは、軍団を城壁の外に置いた。虐殺の不安が消えたことで、ローマ市民たちは安堵した。
ゾイラスの紹介状を偽造した。これでカエサルを騙し、奴隷にしてもらう。書式は、ご主人様の執務室で見つけた紹介状を参考にした。
私は、すぐには動かなかった。偽造した紹介状は、すぐには見せられない。カエサルが不審に思い、ゾイラスに問い合わせたら、今回の作戦は失敗する。
カエサルに確認の時間を与えてはいけない。カエサルがポンペイウス討伐に出発する日まで待つ。
カエサルの出発日は、オクタヴィアヌスから聞き出せばよい。だが、カエサル邸に入るのは無理だ。中には、カエサルとゾイラスがいる。二人が同時に存在する場所にいては、作戦が破綻する。
カエサル邸の周囲で、オクタヴィアヌスの外出を待った。だが、数日が経っても、オクタヴィアヌスは出てこない。
出入りする人々の会話を総合すると、どうもオクタヴィアヌスは病気で臥せているらしい。弱々しいオクタヴィアヌスの身体つきが、頭に思い浮かんだ。
ローマの外にカエサルの軍団が駐屯していた。軍事行動もなく、街道や外壁の整備をしていた。カエサルが出発する日とは、軍団が工事を止めた日だ。その日まで、ローマの外で待つ。
2
数日が経ち、食糧庫が底を突いた。
カエサル邸の前に行っても、オクタヴィアヌスは現れない。まだ病気らしい。
買い物をするお金も尽きた。物価が高すぎる。空腹のまま、私は幽鬼のような足取りでローマの外に出た。
今日も軍団は、工事をしている。いつになったら終わるのだろう? あまりの空腹で、視界がぼやけてきた。体力を温存するため、私は路上に倒れ込んだ。
「おい、死体が転がっているぞ。誰か片づけろ」と、声が聞こえる。
「今すぐ片づけます」という返事が聞こえた。誰かが私の足を掴んだ。
私は腕を振って、生存を表現した。
「おい、待てよ。生きているぞ」
私が目を開くと、目の前には馬の足があった。
「こんなところで野たれ死にやがって。俺たちの評判が悪くなったら、どうしてくれるんだ。お前は、どこの奴隷だ?」
頭上から怒鳴り声が聞こえる。見上げると、軍馬に乗った男だった。
私は「マルクス・ブルートゥス様……」と、応えた。
「なんだと」
男は馬から降りて、私を助け起こした。太陽の後光が邪魔して、顔は見えない。
「お前はマルクスの奴隷なのか。こんなところにいるのは、何故だ?」
「カエサルに届けたい文書があるの」
「マルクスからカエサル宛にか。……よこせ」
厳しい口調で、私の腕を引っ張る。
「だめよ。あたしが直接、持っていかないと、意味がないの」
そのとき、音が私のお腹から鳴った。
男は大笑いして、「誰か、コイツに何か食わせてやれ」と指示する。
軍用パーニスを渡された。口に入れたが、堅すぎる。粉が喉に纏わりついて、咳き込んだ。
私は宙に浮いた。男が、乱暴な扱いで私を肩に担いでいる。
逞しい肩が、私のお腹に食い込んで痛い。騎兵は部下たちに何か指示を出して、歩き出した。
「離して」と、私は両足をバタつかせて抵抗した。
男は無視してローマの門を潜った。すれ違う市民たちは、男の異様な迫力に恐れて身を縮めている。
「貴方は誰なの」
「俺か。ブルートゥスだ」と、意気揚々と名乗った。
「ふざけないで。ブルートゥスは、あたしのご主人様です」
「ふざけてねぇよ。俺は、デキムス・ブルートゥス。お前のご主人様……マルクス・ブルートゥスの従兄弟だよ」
私はデキムス・ブルートゥスの顔を見ようとした。担がれているので、顔は見えず、広い背中しか見えなかったが。
デキムス・ブルートゥス。私は、その名前を知っている。ご主人様の従兄弟で、カエサルのガリア攻略に貢献した若き武将である。
「『ガリア戦記』に出てきたわね。海戦が得意で、蛮族の艦隊を落とした」
「よく知っているな。お前、奴隷のくせに『ガリア戦記』を読んだのか」
デキムス・ブルートゥスは、意外そうな声を出した。
「あたし、『ガリア戦記』を写本したことあるけど。カエサルが貴方の仕事ぶりを誉めていたから、とても印象的だった」
「ふふん。お前は、写本用の奴隷か。どういうわけかマルクスは、お勉強ばかりだからな。奴隷ですら、お勉強家ってわけか。はっ。あの頭デッカチに言っておけ。もう少し、外に出て身体を動かしたほうがいいぞ、ってな」
デキムス・ブルートゥスが笑った。笑い声が、とにかく不愉快だった。
この男、デキムス・ブルートゥスは信用できない。そう直感した。
ここで二人のブルートゥスが出てきた。混同しないために私はマルクス・ブルートゥス様をご主人様と呼び、もう一人のデキムス・ブルートゥスをブルートゥスと呼ぶ。
誠実で聡明なご主人様より、この粗暴で下品なデキムス・ブルートゥスこそ、愚か者と呼ぶにふさわしい。
ブルートゥスが、「お前は、ガリア戦役で捕まって売り飛ばされたクチか」 と、訊いてきた。
「違うわよ。母親がローマに連れてこられたの。母親がローマで、あたしを産んだ」
「ほう。マルクスの奴、奴隷に手を出すほど飢えていたのかね」
ブルートゥスがまた、不愉快な笑いを上げた。
肩で笑うために、震動が私のお腹に来る。それにしても、なんて下品で失礼な奴なのだろう。ご主人様は奴隷を虐待する人ではない。
ご主人様の名誉のため、私はきちんと説明した。
「そうじゃないわ。私の父親は、ご主人様の客よ。屋敷に遊びに来ていた若い貴族が酔っぱらって、母親に乱暴したの」
3
カビトリウムの丘は、ローマで最も高い丘である。政治経済の中心で、過去のローマ人は森林を切り開き、広い道路を通した。今でも左右に森林が見える。高級住宅が立ち並ぶ中、一際高い建造物があった。それが、サトゥルヌス神殿であった。柱に覆われた、ギリシア風の神殿で、見上げる者に畏怖の念を与えた。
ブルートゥスによると、ここにカエサルがいる。
「カエサルは、何をやっているの」と、ブルートゥスに訊いた。
「はっはー。決まってるだろう。サトゥルヌス神殿に眠っているお宝をいただきに来たんだよ。神殿っつーのは、ローマの金庫だからな」
神殿の周囲は多数の見物人で溢れていた。
私を肩に担いだまま、ブルートゥスは神殿に直進した。
「はいはい、すみませんねぇ。白い尻の奴隷が通りますよぉ」
野次馬たちを蹴散らしていく。吹き飛ばされたローマ市民たちが睨むが、対象は私だった。
責任を擦り付けられて、私は「やめなさい、そんな下品な冗談。貴方はそれでも誇り高いローマ男なの? 恥ずかしくないの?」と、抗議した。
が、ブルートゥスは、「最近の尻は、賑やかだな。どこから声を出しているのやら」と意に介さない。言動すべてにおいて、頭が悪い。
私を地上に降ろした。そこは群衆の最前列だった。
神殿の前で若者と中年が向き合い、睨み合っている。若者は白い正装を着て、もう一人の中年は革の鎧を身に纏っている。この人こそ、カエサルだ。
正装を着た若者が、声を張り上げた。
「私は、護民官メテルスと申します。……閣下。お引き取り下さい。こちらは、神聖なる場所です。たとえ閣下とはいえ、国の神聖なる金に手を出してはなりません」と、聴衆に自分の正当性を印象づけさせた。
カエサルは無視して、「錠前を破るぞ。鍛冶屋をここに連れて参れと」、部下の一人に命令した。部下はどこかへ駆けていった。
「神殿を陵辱する気ですか」とメテルスが抗議した。野次馬の中から、「そうだそうだ」と声が聞こえた。
「護民官メテルスよ」
野次を斬り裂くような声で、カエサルは反論した。
「そなたを穏やかに説得するよりも容易な手段を、このカエサルは知っておるぞ」
武力を背景とした脅迫は効果的だった。メテルスは、みるみる青ざめていき、静かになった。鍛冶屋が神殿の錠前を破壊しても黙っている。
カエサルの部下たちが列を作って、神殿から財宝を持ち運び始めた。私が歩けば届く位置で、カエサルが左右の人間に何か指示をしている。
カエサルの顔を見た。前髪は後退していて、顔には深い皺が刻まれている。逞しさがあったが、疲れも見える。
今しかない。
私は大股で、カエサルに近づき、「将軍閣下」と、震える声でカエサルに呼びかけた。
カエサルは無視した。見知らぬ奴隷の相手をするほど、暇ではないのだ。
「ゾイラス様から書状をお預かりしております」
カエサルは反応した。私は筒からパピルス紙を取り出し、片膝を突いて捧げた。偽造の手紙である。
カエサルの隣にいた部下の一人が、「妙ですな」と、すかさず横槍を入れた。眉をひそめて、怪しんでいる。
「どうした、レピドゥス」
「なぜ、ローマにいるゾイラス殿が、書状をわざわざ書いて寄越したのでしょう。本人が直接、閣下に渡せばよいのでは?」
私は、「ゾイラス様はお忙しいので、あたしがお持ちしました」と慌てて弁解する。
カエサルは無言で、見せろ、と顎を刳った。私は震える手で、偽造したゾイラスの紹介状を渡した。
「これはゾイラスの手紙である。余はこれまで幾多の女から手紙を受け取ってきたが、女の字など忘れるほど、奴の手紙を読まされておるのでな」
カエサルの声は野太く、どこか人を安心させる響きがあった。
綺麗に剃り上げた顎を撫でて、カエサルは紹介状に目を通した。その間、私にとって長く感じた。
カエサルはレピドゥスに、パピルス紙を確認させた。
紹介状を読み終えたレピドゥスが、首を捻った。
「おかしいです。ゾイラス殿の押印がありません」
私は、自分の首から冷たい汗が吹き出ていくのを感じた。
ローマの貴人は指輪を持っている。指輪は装飾の度合いで身分を示し、指輪自体が印鑑になっている。公的な文書であれば、必ず指輪印を押す。
私は、字の真似はできるが、指輪、つまり印鑑までは真似できない。
自分の身体が震えているのに気づいた。平静を保とうするが、震えを止められない。カエサルを騙した。どんな制裁が下されるか、想像もできない。
レピドゥスが私の異変に気づいた。疑惑の目を私に向けている。
カエサルは興味深い目で私を見た。
「そなた。余の字を真似することができるのか」
私は言葉が出ず、ただ、頷いた。喉が乾く。
レピドゥスが、「はっ。字を真似することができる。それが何の役に立つのですか?」と、反論する。お腹に抉られるような痛みが走る。
「レピドゥスよ。そなたは、賢き常識人だ。常識的な判断のもと、物事をそつなくこなす。だが、長所であるはずの常識が、最大の弱点になる場合がある」
カエサルは、パピルス紙を放り捨てた。
「常識人、レピドゥス。そなたは戦よりも、政に長けている。余がおらぬ間は、ローマを善く治めよ」と命令した。レピドゥスは敬礼で応えた。
「物資が整い次第、カエサルとその軍団は、ローマを発つ」と、高らかに宣言して、歩き出した。
演劇を見終わったように、取り巻く群衆は消えていった。
私は、捨てられた紹介状を拾い上げ、歩き去っていくカエサルの後ろ姿を眺めていた。サトゥルヌス神殿で一人、立ち尽くしていた。
カエサルどころか、ブルートゥスの姿もない。
作戦は失敗したのだ。このまま、家に帰るしかない。明日から何を食べていけばいいのか。肩を落とし、家に向かう。
「どこに行こうとしている。奴隷が主人を待たすとは、何事か」と。カエサルの声が聞こえた。
背後の馬車からだった。中に入ると、カエサルが椅子に座っていた。
「採用ですか、あたし。紹介状には、ゾイラスの印鑑は押されていなかったんですよ?」
馬車が走り出した。カエサルは外に目をやりながら、口を開いた。
「ゾイラスは、余の奴隷である。奴隷が、なぜ指輪印を持てるのだ」
4
馬車の内部は狭かった。左右に小窓があり、薄暗い。カエサルは木製の台に腰掛けていた。
私は、カエサルの横に座った。カエサルは私を見ずに口を開いた。
「ちょうど良かった。口述筆記の奴隷が死んだのでな」
前任者が死んだから、カエサルの奴隷になれた。運が良かった。
カエサルが「これで、三人目である。戦時中の奴隷は、よく死ぬものだ」と、乾いた口調で続ける。本当は運が悪いのかもしれない。
「カエサルの書簡は、執政官の手に渡されていたが……」
話の流れに関係なく、カエサルが唐突に物語し始めた。一瞬、カエサルの精神状態を疑った。
だが、すぐに理解できた。カエサルは政治家であり、軍人であり、作家だった。『ガリア戦記』は、ガリア戦役の間に書いた。
進軍中の隙間時間に書く。これが、カエサルの執筆方針なのだ。すでに口述筆記の仕事が始まっている。
私は木箱から筆記道具とパピルス紙を取り出し、カエサルの話を文章化していった。
口述筆記は、身体で覚えている。最初は、カエサルの話に置いて行かれていたが、そのうち追いつき、いつの間にか、カエサルの次の言葉を待つくらいまでになった。毎日、欠かさず書く練習をしてよかった。
カエサルの話が、急に止まった。集中力が切れたのか、小窓から外を覗いている。
この馬車は、どこに行くのだろう。小窓から、夕方だと分かる。いや、もう夜だ。もしかしてカエサルの家に向かっているのか、そんな不安がよぎる。
窓の位置が高くて、外がよく見えない。カエサルの家には、ゾイラスがいる。ゾイラスと顔を合わすのは危険すぎる。カエサルとゾイラスの話が食い違い、私の偽造が見破られたら、どうする?
胸に焼けるような痛みが、走った。
貴人の馬車が、一瞬にして囚人の護送車になった。
「どうした、小便か」
カエサルが煩わしそうに私を見る。私は首を振って否定した。平静を保とうとするが、落ち着けない。
「……ポンペイウスらは、カエサルの破滅を意図し……」
カエサルの執筆が再開した。私も仕事に戻る。動揺して、字を何度も間違える。最初の段階で無能だとなれば、この馬車から摘み出されるかもしれない。
私の不安を嘲笑うかのように、馬車の車輪が容赦なく回る。馬車から飛び出すべきか。それでは、これまでの努力が無意味になる。
私が決断を先送りにしていると、馬車が止まった。カエサルは無言で馬車から降りた。
「今夜は、ここで寝る。明朝、ヒスパニアに向かう」
ローマ門外の野営地だった。
カエサルは、兵士と寝食をともにするという。ローマの最終日は自宅ではなく、兵士とともに野営地で過ごすほうを選んだ。
ありがとうございました。