第一話 崩れるローマ
主人公のチート能力紹介となります。
1
カエサルの邸宅を出る際、オクタヴィアヌスが手紙を持たせてくれた。ご主人様宛に、私が外泊した事情を説明するためだ。
オクタヴィアヌスに感謝して、私は丘を下りていった。
地面の揺れを微かに感じる。空気も震えている。冬の直前にしては少し生暖かい。
今朝のローマは、普段と違う。
丘を下るに連れ、地響きが強くなってくる。大地の神がお怒りなのだろうか。
いつものローマであれば、通りは行き交う人々で埋め尽くされている。ローマとは混雑の街、と言ってよい。
路地に出ると、普段とは違う混雑であった。少なくとも生活が生み出す混雑ではない。一定の方向に向かって、まるで我先に進む競走のようだ。
金持ちの荷車を通そうと、屈強な奴隷が鞭打ち、道を空けさせる。まともに反応する人などいない。その人々の上に、荷車が強引に乗り上げようとしている。
地響きの原因は、人々の激流だった。恐怖や不安、混乱が混ざっている。
女が、子供の死体を抱いて泣いている。この行列に巻き込まれて死んだのだろう。
子供の死体を見ると、この混乱の中に飛び込むのが億劫になった。嵐が過ぎ去るのを待つべきか。
だが、私は二晩も家に帰っていない。ご主人様はお怒りだろう。このまま帰りが遅れると、さらにお怒りを買う状況になりそうだ。帰るしかない。
人の流れを避けて、安全な道を選ぶ。遠回りも、やむを得ない。誰も歩いていない狭い裏道を選ぶ。
前方の大通りに合流すると、人の流れにぶつかった。
私が見つけた裏道が空いていると、後ろから人が流れてくる。背中に体当たりを喰らい、前方の流れに巻き込まれた。
流れに逆らってケガをするより、あえて巻き込まれるべきだ。
激流に溺れるように流されてきたが、しばらくすると、後左右に余裕ができてきた。
「すみません、今、なにが起こっているんですか」
隣に歩く女に話し掛けたが、無駄だった。
「分からない」と首を振る。
この女は奴隷で、自分で考える必要がない。自分のご主人様の命令に従うだけだ。
他の人に話し掛けたかったが、できなかった。みんな、歩くのに必死だった。まるで理由など、二の次のようだった。
勢いだった。勢いに急かされて、仕方なく歩いている。勢いに押し出され、私はローマの門外へと出た。
長蛇の列が続く。街道の向こうにも他の行列が見える。
ローマを中心にして、無数の行列が生えていた。市民がローマを捨てている。
これまでの人生で初めて遭遇した、異様な光景だった。知っている世界が、ローマが音を立てて崩れていくようだった。
私は人々の行列を茫然と見ていた。
だが、すぐに我に返った。一緒に行列に混じっても、行き場はないのだから。
家に戻らなくては。
2
帰りは、驚くほど静かだった。ローマは無人の街となっていた。おかげで、まっすぐ家に帰れた。
屋敷の門は堅く閉ざされていた。中は静まっており、人の気配を感じない。ご主人様もローマから出ていった、と思う。
鍵など持っていない。だが、鍵がなくても、屋敷に入る方法は、知っている。二軒隣の家では、壁の一部が崩れている。誰も見ていないのを見計らって、壁の崩れに手を掛けて登る。
壁の上を伝って歩き、ご主人様の屋敷の外壁まで進む。外壁の上から裏庭が見える。裏庭の一部に柔らかい草が生えていて、そこに飛び降りる。
裏庭から屋根のない広間に入った。誰もいない。家具や調度品、わずかばかりだが、食糧は残っている。慌てて出ていったと推測できる。
一日早く戻って来れば、間に合ったかもしれない。私は後悔した。
すぐに、ご主人様を追いかけるべきか。
いや、どこに行ったのか分からない。探すには、情報がなさすぎる。
ご主人様の執務室に入った。何か、手がかりが残されているはずだ。不埒な真似だが、緊急事態である。
書類の一部を手に取る。内容は、ごく日常的で事務的なものだった。特に気に懸かるものはない。
すべての書類に目を通しても、失踪の手がかりとなるものは見当たらなかった。諦めて執務室から出ようとすると、部屋の隅に置かれた木の箱が目に付いた。
中を開けると、巻物が入っている。巻物自体は、ギリシアの哲学書で、異常はない。
巻物を仕舞うと、違和感があった。木の箱からだ。箱を持ち上げると、箱の底が少し厚い。
箱を引っくり返すと、底部に小さな窪みがある。指で引っ掛けて横にずらすと、箱に、もう一つの空間が現れた。パピルス紙が隠されていた。
何かの秘密文書だろうか。汚職の証拠。許されざる者との恋文。
清廉潔白なご主人様にも、人には言えない秘密がある。
よからぬ想像で私は、胸が波打ち、頬が熱くなっていくのを感じた。周囲に誰もいないか確認し、震える手で中を開いた。
乱暴な字で「邪知暴虐にして、獣欲の男。我、奴が胸に、刃を突き立てん」と書いてあった。それだけだ。
ご主人様の秘密とは、ご自身の犯罪や淫らな交際ではなかった。殺意だった。
理知的で穏やかなご主人様を怒らせる人物とは、誰だろう。殺意を隠さないといけない以上、かなり強力な人物だ。
結局、失踪に関する情報は得られなかった。
「これは、一時的な避難……だから、大丈夫」と、私は無人の屋敷で、自分に言い聞かせた。
空腹なので、台所に行った。大麦を潰し、煎餅を作る。竈の女神ウェスタに祈りを捧げつつ、火打ち石を打ち、乾燥キノコに火をつけた。
煎餅を焼いて食べた。今晩はなんとかなったが、台所の食糧が底を突くのは、明白だ。市場で食糧を買う必要がある。
奴隷の私にも、貯蓄がある。代筆の仕事があるので、給料が出ていた。裏庭の木に、お金を入れた壷を埋めてある。
開いてみたら、誰にも盗られていなかった。奴隷部屋に置いておかなくて正解だった。
もう夕方で、夜も近い。今日は、これ以上は動かないほうがいいだろう。階段の陰で、お金を抱えて眠った。
3
朝起きて、煎餅の残りを食べた。
勝手口は内側に鍵が掛かっていたので、鍵を外す。これからは、ここから屋敷を自由に出入りする。
通りに出たが、露店はない。パーニスはおろか、麦すら買えない。
いや、人そのものが全然いない。昨日まで人でごった返していたローマも、ゴミや布切れが散乱しているだけだった。
ローマの街は死の世界になったようだ。私は、ただ一人の生者で、唐突に出現した死の世界をさまよい歩くのだ。
気づけば、カエサル邸の前にいた。他に行く宛がなかった、といえば、それだけだが。
糞尿まみれの通りは、綺麗になっていた。その代わり、カエサル邸の前は人々で溢れていた。
ローマでは、庶民たちが貴人の邸宅に朝の挨拶をしに来るのが慣例となっている。死の街と化したローマで、ようやく生者の姿を見た気がする。
巨漢の奴隷が門番をしていた。私を覚えてくれていて、オクタヴィアヌスに取り次いでもらった。
外の行列は屋敷内部の屋根のない広間を通って、執務室まで達している。執務室から、挨拶を終えた人が出てきた。
別の部屋からオクタヴィアヌスが現れた。
「今、何が起きているの」
「カエサルがルビコン川を越えたんだ。軍を率いてね」
オクタヴィアヌスは私の目をじっと見て、目を細めた。私の来訪を喜んでいる。
カエサルは国法を破った。軍を解散してポンペイウスの軍団に殺されるより、国家反逆者となる道を選んだのだった。
「ローマに軍隊を持っていないポンペイウスは、逃げた。仲間や家族たちとね」
ローマには軍団を置いていないポンペイウスたちは、丸腰だったか今度は、ポンペイウスと仲間たちが、命を狙われる立場になる。
「となると、私のご主人様は逃げたのだから、ポンペイウスの仲間になるのね」
カエサルとポンペイウスの対立が終息するまで、現状は維持される。何年ぐらい掛かるのか、想像できなかった。
少なくとも、その間は、これまでの生活などできない。生きていく術を失った私は、肩を落とした。
「君のご主人様って、誰だっけ」
オクタヴィアヌスが話題を変える。
「マルクス・ブルートゥス様よ」
「ブルートゥス……聞いた名前だね」
オクタヴィアヌスは、目を泳がせた。言葉とは裏腹に、知らない様子だ。私のご主人様は、あまり有名ではないらしい。
オクタヴィアヌスが「そんなことより、ねぇ」と、身を乗り出した。
「このままじゃ生活できないよね? うちに来なよ。うちの子になってよ」
かなり魅力的な提案である。すぐに(喜んで!)と応じるべきだが、気持ちの整理がつかない。
執務室から最後の訪問者が、出ていった。
そのあと、毛織りの上着を着た逞しい男が疲れを顔に滲ませて、執務室から出てきた。
オクタヴィアヌスが、「ゾイラス」と、声を掛けた。
「この子をうちの子にしたいんだけど、いいかな。今、帰る場所がないんだって」
ゾイラスは、「だめです」と、厳しい目つきで応えた。
「どこの誰だか分からない者を、家に迎えられません」
頭を丸く刈り上げ、眼光に迫力がある。
「悪い子じゃないよ。ご主人様が、不在している間だけでも、ここにいてあげさせて」
オクタヴィアヌスが慌てて弁解するが、ゾイラスはすぐに反論した。
「この者の主人がローマを脱出した以上、ポンペイウスに追随したと、推測できます。我々にとっては、敵です。この者が、こちらの情報を流すかもしれません。オクタヴィアヌス様、そのとき、カエサル様に何と申し上げるのですか」
「この子は賢いよ。暴徒を追い出す作戦を立ててくれたんだ。それに、こんな可愛い女の子が、密偵に見えるかい」
オクタヴィアヌスが必死に擁護する。最後の情報は、余計である。
ゾイラスが、「カエサルの家は、万事ゾイラスに任せよ」と、オクタヴィアヌスの発言を遮った。姿勢を伸ばし、どこかで見た記憶のある仕草だ。
「カエサル様が仰いました。私に逆らえば、カエサル様に逆らったのと同じです。オクタヴィアヌス様。たとえ貴方であっても、例外ではありません」
オクタヴィアヌスは涼しげな表情を浮かべて、黙った。目元が震えている。論破された怒りに堪えている。
このゾイラス、何者だろうか。
カエサルから、圧倒的な信頼を受けている。オクタヴィアヌスはカエサルの後継者なのに、ゾイラスには全く頭が上がらない。
「でも、このまま追い出すのは可哀想だ。絶対に何も喋ったりしないよ」
オクタヴィアヌスは声を絞り出したが、ゾイラスは低い声で反論した。
「本人が喋らなくても、周囲が喋らせることはできます。……どんな手を使ってでも、ね」と、自分の腕に何かを突き刺す仕草をした。
ご主人様が私に拷問を掛けてカエサル家の内部事情を吐かせる、と伝えたいらしい。
かなり失礼な話である。
だが、オクタヴィアヌスには効果的だった。
「すまない。君と一緒にいたかったけれど」
心優しいオクタヴィアヌスは、私がここにいる状況が危険だと判断した。
ゾイラスからしてみれば、私のような他人の奴隷を養う義務など一切ない。密偵の疑いがあるのならば、尚更だ。ゾイラスは、当然の対応をしただけである。
「残念だわ、オクタヴィアヌス。この前はカエサルの密偵だと疑われて、今度はポンペイウスの密偵ですって。思い切って、ポンペイウスにでも頼もうかしら。ポンペイウスなら、意外と信用してくれるかもしれないわね……ポンペイウスは、カエサルと同じくらい賢いから」
ゾイラスに当てつけると、オクタヴィアヌスは苦笑した。
「何か、褒美をあげよう。君は僕の命の恩人だからね。昨夜の包囲突破は、君の手柄だ。恩義に篤くなくちゃ、ローマ男とは言えない。……それくらい、いいだろう」
オクタヴィアヌスは私に提案しながら、横目でゾイラスを見ていた。同意を求めているのである。
私は、オクタヴィアヌスの好意は嬉しかった。やはり、私はこの人が好きだ。
「何が欲しいか、言ってごらん」
ここで何を貰うか。人生の分岐点だと言っても、過言ではない。
「カエサルの執務室を見せて。あの有名なカエサルの仕事場を目に焼き付けておきたいの」
私の提案に、オクタヴィアヌスは意外な目をした。
ゾイラスを見ると、何も言わず黙認している。ゾイラスが余計な口を挟まないよう、私は神々に願った。
オクタヴィアヌスに連れられ、カエサルの執務室に入った。陰からゾイラスが監視していたが、他に仕事があるのか、すぐに消えた。
「ちょっと中身を見ていいかしら。素敵なゾイラスさんがいない間に」
了解を得て、私は適当なパピルス紙を広げてみる。
カエサルからゾイラスに対する指示書だった。塩をどこそこへ送れ、何々をいくらで買え……。
ゾイラスの報告書もある。何々を買いました、送りました……。
文字の羅列を、じっと見る。
オクタヴィアヌスが「何をしているの? 読んでも面白い内容じゃないよ」と、不思議がった。
「カエサルとゾイラスの筆跡を記憶しているの」
オクタヴィアヌスが「何だって」と、聞き直す。
「筆跡の特徴をよ」
机の上に、表面がロウで張られた書字板があった。鉄製の針で、表面のロウを引っ掻いた。私が書いた言葉は「塩」だった。
「これ、なんだと思う」
「塩、だね」
オクタヴィアヌスは両腕を組んだ。
「他に気づいたことは」
オクタヴィアヌスが、美しい眉にシワを寄せる。謎掛けは好きだが、仕掛けられると困るらしい。
書字板の隣に、カエサルが「塩」と書いたパピルス紙を並べた。
オクタヴィアヌスは、すぐに合点した。
「これは、カエサルの字だよね。君は、カエサルの字を書けるのかい」
「あたしは、他人の筆跡を模写することができるの。心優しいゾイラスさんの字も書いてみようか」
書字板にゾイラスの字そっくりに「塩」と書いた。
「今度はゾイラスかい。……なんで、こんなことができるようになったんだい」
オクタヴィアヌスが、驚いた。得体のしれない存在を見ているかのようだ。
「家には、お坊っちゃんがいるんだけど。家庭教師が来て勉強していたのね」
「うん。金持ちの家は、みんなそうだね。僕にも家庭教師がいるよ」
「あたしは身の回りの世話をしていた。ある日、お坊っちゃんが、代わりに問題を解いてほしい、と言ってきたの。だって、間違えたら鞭打ちだもの。たとえ貴族の息子でも、教師は容赦しないから」
「だから教師には内緒で、奴隷に代わりに答を書いてもらうんだよね。僕も、やったことある」
オクタヴィアヌスは、力なさげに微笑んだ。過去に受けた教師の暴力を思い出している様子だ。
「で、代わりに、答えを書いてあげたの。字が違うとマズいから、お坊っちゃんの字に似せた」
「それが、そっくりだったんだ」
「自分でも驚いたわ。給料が出たら書字板を買ったのね。目に付く字を夢中になって写していたら、ご主人様の目に留まったの」
オクタヴィアヌスは興奮して聞いている。黄金の軍旗だの、変わった話を聞くのが、お好きな様子だ。私は話を続ける。
「ご主人様の仕事を手伝った。手紙の代筆が多かったけど。ご主人様の字を模写した手紙を、たくさん書いたわ。ご主人様の話す言葉を、そのまま手紙に書いていくうちに、口述筆記できるようになった」
「大成長だね」
「ご主人様のお友達で、本を出したがっているお金持ちがいて、そのお家まで行って口述筆記したの」
「それで、この前の兵法書が出てくるんだ。……君は二つの能力を持っているんだね。最近の奴隷は優秀な人が多いね。ローマの今日は、奴隷に支えられている、と言っても可笑しくない」
オクタヴィアヌスが、私の書字板を眺めた。
「一つは兵法、もう一つは筆跡模写」
指折り数える。
「口述筆記が専門なんだけどね。これで三つ」と、私が追加した。
「いいや、四つだね。とても可愛い」
オクタヴィアヌスの妙な発言に、私は自分の顔が火照るのを感じた。
「そんなに照れないでよ。カエサルとゾイラスの手紙を君にあげるよ。僕が二人から貰ったもので良かったら」
「ありがとう! 余ったパピルス紙も貰えるかしら?」
結局、私が貰ったものは、木で編んだ籠だった。中には、カエサルとゾイラスの手紙、白紙のパピルス紙が入っており、ふっくらと焼いたパーニスで隠してもらった。
「貰いすぎだわ。オクタヴィアヌス、貴方にはなんてお礼をすればいいの?」
「だったら、約束してよ」
オクタヴィアヌスが屈託のない声を上げた。
「どうせ奴隷になれ、と言うんでしょう。ポンペイウスが生きているうちは、いやゾイラスが生きているうちは無理よ」
「違うな。一つになりたい」
真顔で、私の目を見た。
何を言い出すのか。私は、「それこそ、ゾイラスに怒られるわよ。ポンペイウスの密偵と何をしてるんですかってね」と、ゾイラスの物真似をした。
「僕が大人になれば、怒られなくなるさ。ヤヌス神を知っているかい? 二つの顔を持つ神様だけど。僕たちは、よく似ている。元々、一人の人間だった。神々の気紛れで、二人になったんだ。……絶対にお互いが必要になる。そんな時期が来るから」
「変な人。政治の話をしたと思ったら、今度は神様の話をするなんて」
オクタヴィアヌスは肩を竦め、「そんなことより」と、書類の入った籠を指さした。
「カエサルとゾイラスの字を真似て、何をするつもりだい?」
「カエサルに雇ってもらうの。あたしの大好きなゾイラスに紹介状を書いてもらって、ね」
カエサルが、ローマに帰ってくる。
ありがとうございました。