第二話 前哨戦
続きとなります。
主人公にとっての、初陣です。
「包囲されています。……昨日の奴らの仲間です」
アグリッパが、オクタヴィアヌスに耳打ちする。声が大きく、私にまで聞こえた。声の調整が下手だ、と思った。
オクタヴィアヌスは席を立つと、台所を出た。私も、後を追う。
台所から屋根のない広間を通って、玄関に向かう。オクタヴィアヌスは、巨体の奴隷に少しだけ玄関の扉を開けさせた。
隙間から、すぐに、重厚な門が見えた。門と外壁は、外界と邸宅を隔てている。
外から、男たちの罵声が聞こえた。
「昨晩、我々の仲間が殺された。この邸宅に匿っているのは、分かっている。カエサルに恨みはないが、さっさと下手人を出せ」
オクタヴィアヌスは、奴隷に、玄関の扉を閉めさせた。
「カエサルが留守だからって、随分と鼻息が荒いね。もしカエサルが出てきたら、反応が違ってくるだろうね」
アグリッパが、「こちらの戦闘員の人数は、私を含めて十人です。敵は多くて、三十人はいます。外の道を占拠して、こちらから誰一人として外に出す気はないようです」と、状況を説明する。
アグリッパは焦っていた。昨日の生き残りを逃がしたか、証拠を現場に残したか、自分の手落ちだと思っているのだろう。
オクタヴィアヌスは、責める素振りも見せず、屋根のない広間まで戻った。アグリッパも私も従いていく。
オクタヴィアヌスが、屋根のない広間の天窓を見上げた。
「連中の目的は、嫌がらせだよね。でも、どうすればいいのかな。いっそのこと、朝食にでも招こうか。怒っているけれど、受け入れてくれるだろうか?」
見上げた空は青い。冗談を飛ばす余裕はあるが、どう対処すればいいのか、分からない顔つきだ。
「殺人鬼たちを家に招いたら、大変でしょ」と、私はオクタヴィアヌスを肘で小突く真似をした。「……貴方もアグリッパも、三十人分の朝食を作れるかしら?」
冗談でやり返すと、オクタヴィアヌスは力なく笑った。
とんでもない事態に巻き込まれた。早く家に帰りたい。朝帰りしたら、ご主人様や奥様に怒られるだろう。
いや、生きて帰れるのだろうか。そこで、手にしていた木の筒を思い返した。
兵法書から、なにか考えが浮かぶかもしれない。木の筒から、兵法書を取り出し、広げた。
多数は少数を包囲しろ、との記述が目に入った。今回は、敵側が兵法通りの戦いをしている。
敵よりも人数が少ない場合は戦うな、という。今回の場合は戦わず逃走すべきだが、戦わずに済まされないだろう。
ここは自宅なのだ。家にいる人間の全員が脱出する先など、ない。
この兵法書は、理論だけで、実戦に役に立たない。そっと閉じた。
オクタヴィアヌスは私の一連の行為を見守った後、アグリッパに提案した。
「外にいるゾイラスと連絡が取れないかな」
「ならば、まず誰かに手紙を持たせて、脱出させましょう」
アグリッパが即座に応える。ゾイラスとは何者か知らないが、先ほどオクタヴィアヌスが管理人と呼んでいたから、きっと頼れる人物なのだろう。
一人の奴隷に手紙を持たせて、裏口から走らせた。
「君も、ここから帰るかい?」と、オクタヴィアヌスが裏口を指さした。
帰りたいし、そもそも私は、部外者である。カエサルと誰かの自警団の抗争に巻き込まれただけだ。素知らぬ体で出れば、なんとかなるかもしれない。
裏口は変哲のない木造の扉で、人が一人ようやく出ていける狭さである。危険である。外から異臭が漂ってくる、不思議な恐怖を感じた。
出たい欲求を必死に抑え、「私は出て行かない」と、言葉を絞り出す。アグリッパは、意外な顔をしたが、オクタヴィアヌスは「それがいい」と頷いた。
昼を挟み、夕方になっても、使いの奴隷は、帰ってこなかった。
アグリッパが「待ち伏せされていますね……」と、納得した。我々が裏口から出てきたところを、殺すか誘拐する。これが敵の狙いだった。
夜になった。ローマはもう寝る時間である。
「夜になれば、敵も解散するだろう」と、オクタヴィアヌスは分析していた。
分析も虚しく夜になっても、包囲は解かれなかった。報告によると、敵は篝火を焚いて、待ち構えている。
カエサルの家人たちは恐怖で固まっている。家の中では戦闘員が少ない。不安が渦巻く屋敷の中で、少年二人は沈んでいた。
オクタヴィアヌスは腕を組み、アグリッパは頭を抱えていた。私も頭を抱えていた。
このままでは家に帰れない。二日以上も家を空けていたら、どんな処罰が待っているのか、想像できない。
ご主人様は穏やかで大人しい人だ。だが、さすがに二日も留守した場合、許してもらえるか、疑わしい。
打開策が兵法書に載ってないだろうか。もう一度、確認してみる。少数の兵力で、外の敵を倒す方法だ。
最初から最後まで目を通したが、見当たらない。奇襲作戦をしろ、とは書いてあるが、それだと、抽象的すぎる。今回のような状況を打開できる戦術など、なにも書かれていない。
この兵法書は、やはり役立たずだ。放り投げようと思ったが、思い直して止めた。
いや、待て。数学の教師……ギリシア人で身分は奴隷だったが……の言葉が頭に浮かんだ。
「難しい問題を前にすると、大抵の人たちは、思考を止める。だが、難しい問題には必ず解法がある。基礎的な知識を組み合わせればよい」
難問は、実は基礎知識の集合なのだ。
現状が難問だとすると、兵法書は基礎知識となる。基礎知識の組み合わせで、包囲を打破できるはずだ。組み合わせに意識して、もう一度、兵法書を読んでみる。
奇襲作戦。どう奇襲すれば良いのか、分からない。だが、結局は書いていない。
兵法書から目を離した。頭を使いすぎた、散歩したくなった。
頭を抱えている少年二人を素通りして、屋根のない広間を歩いてみた。中央の雨水貯めの前に屈んで、水面を眺める。
月明かりが水面を照らし、私の顔を映す。今日あった様々な情景が、頭に浮かんでくる。
屋根のない広間。雨水貯め。睫の長いオクタヴィアヌス。鷹の目のアグリッパ。台所に設置された便所。用を足す奴隷。刺激臭。台所に置かれた壷。
……壷。
私の心の中で、壷が光った。壷を中心に、黄金の光が蜘蛛の巣のように広がった。雨水貯めや、便所に結びついていく。
気づくと、私は目を閉じていた。目を開き、後ろを振り返ると、オクタヴィアヌスが心配そうな目で私を見ていた。私は、
「ねぇ。オクタヴィアヌス。屋根のない広間の雨水貯めって、下水管に繋がっていたっけ」と、質問した。むしろ、確認である。
「……下水の臭いが気になるのかい? 繋がっているよ。あそこの水門を上げると、下水に水が流される仕組みになっている」と、オクタヴィアヌスが雨水貯めの一角を指さす。
一角には、大人の男が両手で握るほどの大きさの取っ手があった。上に引き上げる構造で、今の水門は閉まっている。
「下水に水を流さないで。下水の糞尿を集めて、外の連中に浴びせ掛けるの。上からね」
アグリッパが「馬鹿な」と叫んだ。
だが、オクタヴィアヌスは、首を捻りながらもアグリッパに命令する。
「面白そうだね。……アグリッパ、この子の言うとおりにやってよ」
カエサル家の奴隷たちに壷を用意させた。
アグリッパの指示に従って、奴隷たちは便所の板を外し、下水管から糞尿を取り出し、壷に詰め込んだ。
壷は三つ用意された。「死の壷」の完成だ。
屋根のない広間からハシゴを掛けさせ、奴隷に天窓を登らせる。屋根の上で待機させた。上から縄で「死の壷」を引き上げる。夜なので、敵は気づいていない。
アグリッパの合図で、奴隷たちが壷を屋根の上から転がした。
音が三つ鳴った。焼いた粘土でできた壷が地面にぶつかり、割れた音だ。中身が勢いよく、ぶちまけられる。
外壁の向こうから悲鳴が上がる。これが合図となった。
巨漢の奴隷が一気に門を開く。アグリッパを先頭に、邸宅にいた戦闘員が棍棒を振り回して外へと飛び出る。
不意の奇襲で、暴徒たちは混乱し、逃げ散った。逃げ遅れた者は糞尿まみれで呆然としているところを、アグリッパたちに、棍棒で殴り倒されていく。
抵抗する者もいなくなり、勝利を確信したアグリッパたちは歓声を上げる。肩を抱き合って、邸宅に戻ってきた。
オクタヴィアヌスは涼しい顔を崩さず、戦果を淡々と見ている。
私は「オクタヴィアヌス、貴方だったのね。昨日の奴らが探していた、カエサルの密偵って」と、耳打ちをした。
私の推理に、オクタヴィアヌスは意外そうな表情をした。
「違うね。僕は、カエサルのために働いている。だけど、密偵はできない。僕が、密偵に向いているかい?」
確かに密偵にしては、美しすぎる。目立って役に立たないだろう。オクタヴィアヌスは、人の意見を聞いたり、命令したり、と人の上に立つ気質である。
「密偵でもない人が、なんで昨日は捕まったの」
「誘拐事件が多くてね。僕たちは、犯人探しをしていた。調査していくうちに、囮が必要だなと思った」
「わざと捕まったの?」
密偵不適格者だが、とても大胆である。驚く私の顔を見て、オクタヴィアヌスは微笑んだ。
「ところで、結局、今回の黒幕は誰だと思う」と、謎掛けをしてきた。謎掛けが好きらしい。
「あたしは、奴隷よ。貴方たち偉い人の気持ちなんて、分からないわ。特に自分を囮にするような人の気持ちをね」
「じゃあ、ポンペイウスを知っているかい」
ヒスパニア属州総督ポンペイウス。戦争の天才にして、一時はカエサルとともにローマの政治を分けあった大物政治家。カエサルと同じくらい有名な人物だ。
「カエサルとポンペイウスは、戦う運命だと思う。それも、かなり近い未来で」
オクタヴィアヌスが断言した。占い師みたいだ。でも、詳しい事情は分からないが、妙に納得できた。
「どうして、そうだと思うの」
「ガリア出征を終えて、カエサルがローマに帰ろうとしている情報があるんだが、知っているね」
北の国ガリア。母の故郷だ。カエサルが戦争を仕掛け、勝利を収めた。いくつもの戦勝報告が伝わるたびに、ローマは熱狂した。
「実は、もうカエサルはガリアを発って、ローマの北、ルビコン川で立ち止まっている」
「なんで立ち止まっているの? 愛人でも見つけたのかしら」
「元老の中には、カエサルが嫌いな人たちもいる。カエサルは強くなりすぎたんだよ」
カエサルは、発言や行動が劇場的で、群衆の人気を惹くだけだった。どちらかと言えば芸人に近い。それが世間の評価だった。
しかし、今回のガリア遠征で、軍事的成功を収めた。これまでのローマ史で、攻略困難とされていた、森林のガリアを退治した。
カエサルの成功を、妬む者、恐れる者が出てきても、不思議ではない。
「近々、執政官の選挙がある。カエサルは立候補するつもりだ。元老たちは、カエサルを執政官には、させたくない」
元老たちは、カエサル不在中に法律改正をした。立候補の届け出は、本人のみとする。代理人を認めない。
「届け出には、締め切り日がある。このままだと、カエサルは立候補できない。だから、カエサルはローマに帰りたい」
「そんなに立候補したければ、帰ればいい」
「いや、そこが元老たちの上手い手なんだ。ルビコン川で、カエサルに軍を解体せよ、と命じた」
「理不尽ね。勝手に法改正したり、命令したり」
「この命令自体は、理不尽じゃないよ。ルビコン川を越えるときは、軍を解散させないといけない。これは国法なんだ。ローマに軍団を持ち込ませないためにね」
オクタヴィアヌスが穏やかに言った。敵の肩を持つとは、意外である。
「なんで軍隊をローマに連れ帰っちゃ駄目なの?」
「軍隊なんて、結局は、有力者たちの私兵なんだよ。自警団と同じで、ね。昔、偉い人が自分の軍隊と一緒にローマに乗り込んで、政敵を虐殺した歴史があるからね。一般市民も多く巻き込まれた。ルビコン川より南、つまりローマには、軍隊を踏み入れさせない法律が作られた」
「ローマには、兵士がいないものね。軍隊の持ち込み禁止にしないと、殺される側も軍隊を用意しなくちゃいけなくなるから。あっちもこっちも、軍隊を準備していたら、ローマが軍隊だらけになっちゃう。……じゃあ、あたしがカエサルなら、さっさと軍団を解散させてローマに帰る」
「ポンペイウスは、カエサルの動きを察知して、ヒスパニアに軍隊を集めたんだ」
ヒスパニアは、ローマから西の国である。
「もしも、カエサルが軍隊を解散したら、ポンペイウスは、ヒスパニアの軍団を動かすだろう。ローマでカエサルを殺すつもりだ」
「ルビコン川を越えたら、今度はポンペイウスが国法破りになるわよ」
「カエサルが死んだ後、軍隊を持ったポンペイウスに、誰が逆らうのかい? それに、ここまで好き勝手やっているんだ。反カエサル派の元老たちだったら、ポンペイウスをいくらでも擁護するよ」
私は唖然とした。ポンペイウスたちの謀略は巧妙だった。
カエサルは、ルビコン川で立ち往生している。ローマに戻らなければ、執政官に立候補できない。ローマに戻るには、軍隊を解散させないといけない。
軍を解散させなければ、国家犯罪者となる。逆に軍を解散したら、無防備になり、背後からポンペイウスの軍隊に殺される。
「カエサルは、どうすればいいの?」
「分からない」
オクタヴィアヌスは目を落とした。カエサルの生死が、甥っ子であるオクタヴィアヌスの命運に直結していた。私は失言を後悔した。
私の気持ちを悟ったらしく、オクタヴィアヌスは、明るい声を出した。
「で、今回の襲撃の黒幕は誰か、分かったかな」
「ポンペイウスなのね。戦争の天才、ポンペイウスはカエサルの間者を見つけて、カエサルの勢力をローマ内部から削ぐつもりだった。それを、貴方たちが阻止した」
「今回の包囲戦は、これから起こるであろうカエサルとポンペイウスとの戦いにおける、前哨戦だったと言えるね」
「……糞尿まみれだったけどね」
私の一言に、オクタヴィアヌスは高笑いをした。私の肩に手を回した。
「掃除は奴隷たちに任せて、夕飯を食べよう」
「あたし、帰らないと」
「もう夜だし、遅いから、今日も泊まりなよ。ローマの夜は危険だ。糞尿まみれの連中が誘拐してくるかもしれないよ」
オクタヴィアヌスに気圧されて、私はまた、無断外泊をする羽目になった。
ありがとうございました。