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奴隷少女とカエサルの後継者  作者: ビジーレイク
第八章 アテナの盾
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第四話 ポンペイウス

カエサルよりも有名かもしれない人の登場です。

        1

 二人で馬を探す。ブルートゥスの馬は死に、敵兵の乗ってきた馬は、散り散りになって逃げていた。

 だが、一頭の馬が、こちらに向かって走ってきた。

「ルクルス!」と、私は馬の主人の名前を呼んだ。

 軍馬が、私の許に駆け寄ってきた。ルクルスの馬が優しく私に頬ずりした。

 ブルートゥスは、()れ上がった自分の右手を見た。開いた手が閉じない。顔を歪め、左手で自分の右手を握り締める。私が顔を背けると、何か折れる音がした。

 ブルートゥスは馬上の人となり、私に「乗れ」と右手を差し出した。

 私たちを乗せ、馬が走る。ブルートゥスの流血が、馬上を赤く染めていく。

 血腥(ちなまぐさ)い戦場に戻ってきた。敵味方ともに陣形が崩れ、乱戦状態になっていた。

 だが、味方が不利だった。一人で三本の槍を胴に受け、一方的に殺されている。

 敵の数人が、私たちに気づき、進路を妨害しようと立ちはだかった。もうブルートゥスには、戦闘能力が残っていない。

 私は息を吸い込み、叫んだ。

「敵将、ポンペイウスは敗走した! 我らカエサルの勝利なり!」

 大音声(だいおんじょう)が、私の腹から背中から、鳴り響いた。自分でも信じられないほどの勢いで、(ほとばし)る。

「友よ、兄よ、父よ! 槍を納めよ! これ以上、命を無駄にするな! 我ら、ローマの許に集まった、家族なり。なぜ家族が、お互いに槍を交わすのか! 共に、ローマに帰ろう! 暖かい家が、優しい妻が、可愛い子供たちが待っている!」

 ラビエヌス、いや、ポンペイウスの鎧が夕暮れの日を背に浴びて、敗走していく。

 勝敗は誰の目にも明らかだった。兵士たちが武器を捨てていく。無駄な殺し合いなど、誰もしたくないのだ。

 終戦の感情が、ラビエヌス本人の意思を無視してラビエヌスを中心に伝播(でんぱ)していった。

 私は叫び続けた。

「戦いを止めろ! すべては、ローマのために!」

 死体と折れた武具が積み重なる丘の(そば)を、通り過ぎる。死体の丘から流れる赤い川が泥とも土とも分からないまま、(ひづめ)で踏みしめる。

 敵の本陣が見えてきた。人の姿は見当たらない。私たちは丘を駆け上がり、突入した。

 区画整理されている天幕の間を、ゆっくりと進む。敵が、どこかに潜んでいるかもしれない。

 ペトラの丘にあったときは、小都市のような賑わいだったが、人の気配を一切、感じない。

 無人の陣を宛もなく、歩く。静かで平和であるが、どうも落ち着かない。伏兵が潜んでいるのだろうか。この静寂は、罠なのかもしれない。

天幕と天幕の間から、人影が見えた。

 私は「ブルートゥス、あっち!」と人影の見えた先を指さした。

 馬を早足にさせて、追いかける。一瞬だけ見失ったが、天幕の一つ、出入り口の垂れ幕が揺れた。風の揺れ方ではない。

「下ろして」と、ブルートゥスを促し、馬から降りる。

 ルクルスの馬は大きな息を吐いて、前足を崩し、倒れた。

 そのまま力つき、死んだ。ブルートゥスは馬上から降りて、数歩ほど歩いただけで膝を突き、前のめりに倒れた。

「ブルートゥス……?」

 顔を覗き込むが、反応がない。

 身体中から血が溢れている。手当をしなければ、このまま死ぬだろう。

 ブルートゥスの腕に触れた。が、弱々しく振り払われた。

「行け」と意思表示している。

 力なく垂れた腕から、ブルートゥスの死を予感した。涙で視界がぼやける。私は目を瞑って、天幕に入った。

 この天幕には、記憶がある。ポンペイウス、いや、ラビエヌスがいた天幕だった。中は暗く、食卓の上には食器が放置されている。料理はまだ温かい。

 元老たちは、敗北を察知して、事前に逃亡していた。

 奥で、人影が縮こまっている。

「ラビエヌス?」と問い掛けた。影が身震いする。

「ひょっとして……ポンペイウス?」と、問い直す。返事がないので、一歩そっと近づいた。

「ま、待て。殺さないでくれ」と、影が姿を現した。

 痩せこけた、若い男だ。肌が青白く、目の下が病的に黒ずんで窪み、手足が細い。

「ご主人様……!」

 マルクス・ブルートゥス様だった。私を見て怯えている。

 私は額の汗を手で(ぬぐ)った。汗ではなく、赤い血が手の甲に張りつく。ブルートゥス……デキムス・ブルートゥスの血を、いつの間にか浴びていた。

 背後から、雑然とした音が鳴り響く。

 振り返ると、出入り口には、怒りの形相をした兵士たちが集まっていた。兵士たちが殺到する。

「違う、私は味方!」と叫ぶが、私の声は、混乱と喧騒に揉み消された。

        2

 眩しい太陽が照りつける。

 私は日光から顔を隠したかった。だが、穴の空いた板に両手と首を拘束され、思うように動かない。

 軍団が行列をなして進軍する。私は、ゴンフィスの奴隷たちと一緒に最前列を歩かされた。

 私の横を、一頭の馬が近寄った。乗り手を見上げると、カエサルだった。口を堅く結び、私を冷たい視線で一瞥した。

「カエサル……」と声を掛けたが、無視された。カエサルの後姿が遠ざかっていく。

 カエサルは、私に騙されて怒っている。それは理解できる。

 今回の勝利は、私のおかげだと思う。報償が欲しいわけではないが、少しは仲直りの材料になっても良さそうである。

 熱い太陽の日差しと、冷酷な拘束具のせいなのか、私の胸で、不平と不満が混ざり合った。

 兵士たちの嘲笑(あざわら)う声が聞こえる。

 振り返ると、誰も笑っていなかった。誰もが暑さと疲労に耐え、歩を進めているだけだった。鎖に繋がれた奴隷など、日常ありふれた光景なのだ。幻聴にすぎない。

 ゴンフィスで見た、鎖に繋がれた女は、見当たらなかった。すでに死んでいるのかもしれない。

 休憩しているところ、日差しの強い場所に座らされる。木陰で涼んでいる兵士たちが羨ましかった。

 睨んでいると、向こうから、奇妙な服装をした一団がやってきた。黒い肌に、髪は丸く剃り込まれている。上半身は裸で、服装は白い腰巻をしているだけだ。首飾りがある者が高位の身分らしい。

 その中で頭巾を被っている者が進み出て、「エジプトより、使者が参った。カエサル閣下に、こちらをお納めしたく」と、聞き取りづらいラテン語で話をする。

 壷を奴隷に持ってこさせ、カエサルの足下に置いた。壷の封印を開き、うやうやしい態度で、カエサルに見せた。

 カエサルは、壷の中身を見て、軽く仰け(の ぞ)った。動揺を悟られまいと、壷から眼を離さず、低い声で訊いた。

「これは、何であるか?」

「ポンペイウスの首にございます」と使者が誇らしげに語った。「我らがエジプトに亡命しようとしたため、斬り捨てた次第でございます」

 説明を終えると、使者の表情が一変した。恐怖と動揺で眼と口を大きく開いた。

 カエサルの全身が、怒気で赤く茹で上がっていく。カエサルは意味不明の叫びを上げ、使者を一刀のもとに斬り伏せた。

 死者は肉塊になり果て、()飛沫(しぶき)を上げる。エジプトの使者団は、散り散りになって逃げた。

 カエサルは逃げ出した者に目もくれず、「偉大なるお(マニューフェス)」と、壷に(すが)りついた。

 顔を背ける。肩が揺れ始め、嗚咽が聞こえる。

 カエサルは泣いている。兵士たちを動揺させないために、常に兵士たちの前では、威厳(いげん)を保っていたはずのカエサルだったが、今回は違った。

 ポンペイウスは、カエサルの親友だった。若い頃より「男たる者、ポンペイウスのようにあるべし」と周囲に漏らすほどで、いわば生きる目標でもあった。

 片手で胸を締めつけ、大地に(うずくま)る。真紅の戦袍(せんぽう)を背に、ギリシアの最果てで、泣きたいだけ泣いた。

 一通り泣いて気が休まったのか、ポンペイウスにつき従った敗軍の将たち、兵士たちに向かって宣言した。

「もう良い。そなたらは帰れ。……ローマに帰れ」

 捕虜たちの拘束を解いていく。

 私も解放された。手首を押さえ、樽に駆け寄った。

 中を見ると、最初、豚肉の塩漬けかと思った。目を凝らすと、太った人間の首が、黄金の指輪と一緒に樽に収まっていた。

 首の主は、太った老人、あのベテリウスだった。ベテリウスが、ポンペイウスだった。

 思考が現実に追い付かず、しばらく、死体の顔を眺めていた。私の肩に手を置いた者がいた。振り返ると、ご主人様だった。

「僕と一緒に帰ろう。君は僕を連れ帰りに来たんだろう?……母から手紙を貰ったよ」

 疲れ切った表情を見せた。手足は痩せ細り、永い間、病気に伏せていたと思われる。

 敗軍の将兵たちの中には、カエサルに従軍を志願する者もいたが、大半はローマに帰国したがった。

 帰国組が列をなして、ギリシアの港に向かって歩き出す。ご主人様と私は、帰国組に慌てて従いていく。

 道中、ご主人様にこれまでの経緯を説明した。ヒスパニア討伐やファルサルスの決戦といった私の活躍は、曖昧(あいまい)にごまかしておいたが。

 ご主人様は熱心に私の話を聞いていた。カエサルの知られざる生態を聞いて、何度も驚いていた。

 私の話が終わると、ご主人様はポンペイウスの話をした。

「とある選挙のときに、暴動が起きた。暴徒の一人に襲われ、ポンペイウスは、そいつを殺したんだ」

「ポンペイウスは意外と強いですからね」

「返り血を浴びたまま帰宅すると、妻のユリアがポンペイウスの姿を見た。ユリアは気を失い、お腹にいた赤子が流産した。その流産が原因で、ユリアは死んだ」

 ユリアはカエサルの娘で、ポンペイウスの妻だった。

 私は服の(すそ)を握った。今は奴隷の服だが、かつて着ていたユリアの服を思い返した。

 ユリアの服は、カエサルとポンペイウスを繋ぐ絆だった。私を媒介にしてポンペイウスからカエサルに戻っていったとなると、奇妙な縁を感じる。

 そういえば、コルネリアはポンペイウスの妻だった。ラビエヌスと口づけを交わしていたが、あれはなんだったのだろう?

 ご主人様に目を移すと、楽しそうだった。ポンペイウスは自分の総大将であったのに、ポンペイウスの不幸が楽しかったのだろうか。

「ユリアが死んでから、ポンペイウスは耄碌(もうろく)していったよ。カエサルがルビコン川を越えて、我々がギリシアに撤退したとき、ポンペイウスが倒れた」

「病気ですか」

「いや、誰も分からなかった。しばらく眠っていたよ。癲癇(てんかん)だと思う。目を覚ますと、言葉を話せなくなっていた」

 癲癇は、違うと思う。カエサルと同じ病気だと思うが、カエサルの健常ぶりを見ると、ポンペイウスの症状が重い。

 いずれにしても、ポンペイウスの失語は、深刻な問題である。影響力が絶大なポンペイウスが、なにもできないとなると、敗北は確定だろう。

「そのとき現れたのが、ラビエヌスだ。理由はよく分からないが、カエサルを許せなかったらしい。……皆でラビエヌスに、ポンペイウスの代わりをやらせた」

「よく皆が認めましたね。他に適任がいなかったからかもしれませんが」

 ラビエヌスはポンペイウスと匹敵する軍事的才能を持ち、カエサルの手の内を理解している。立派にポンペイウスの代役を果たしてくれる。

 デキムス・ブルートゥスと私がカエサルになりすましていたように、ラビエヌスもまた、ポンペイウスになりすましていた。

「でも、この通りラビエヌスが敗走して、私たちは戦いに負けたのだよ」と淡々と事実を述べた。戦争に負けたのに、悔しさを感じない。むしろ喜んでいる。

「ご主人様は、ポンペイウスが嫌いなんですか?」と、私は閃きをそのまま言葉に出した。

 ご主人様の青白い顔が怒りに染まっていく。

「そうだ。あいつが私の父を殺した。無実の罪で、だ。父親のいない我が家は、とても苦労した。父が生きていれば、今頃、私は……もっと出世していたはずなのに」

 普段からの優しさとは想像できない怒りぶりである。私は下を向いた。

 ご主人様の部屋で見つけた、書き付けを思い出した。

「奴の胸に刃を突き立ててやる」という内容だった気がする。

 ご主人様が殺したい相手は、殺意の対象は、父の仇ポンペイウスだった。

 謎が一つ解けると、また新たな謎が浮かんだ。

 ポンペイウスが憎いのなら、何故ポンペイウスの味方をしたのか?

「カエサルは、もっと嫌いですか?」

「とんでもない」

 ご主人様は、私の質問を理解できないような表情で否定した。

「カエサルは私の父親代わりだった。しかも、ポンペイウスも殺してくれた。さらに赦免(しゃめん)してくれるなんて、カエサルは最高の人物だよ。本当に感謝している。このご恩はいつか返さなくてはね」

 ご主人様が微笑んだ。カエサルを嫌うどころか好きなのだ。それなのに、何故ポンペイウスに味方して、カエサルに敵対したのか?

 ご主人様の判断基準が、ますます分からない。


ありがとうございました。

次回、最終回となります。

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