第三話 ラビエヌス
彼はもっと早いうちに出すべきでした。
氷の瞳を持ち、カエサルによく似た、この男こそが、ティトゥス・ラビエヌスその人だった。
そういえばカエサルもブルートゥスも「ポンペイウスが冷遇されるはずがない」と分析していた。
「なんで、お前が、ポンペイウスの鎧を着ているんだ?」と、ブルートゥスが私の疑問を代弁した。
ポンペイウスが、いや『ラビエヌス』は肩を揺らし、笑った。高い声がファルサルスに響きわたる。
「そなたこそ、何故カエサルの鎧を着ているのかね? デキムス・ブルートゥス君!」
と、ブルートゥスを振り払い、泥濘む泥に転ばせた。
槍を、もがくブルートゥスの右肩に叩きつける。ブルートゥスが呻いた。
ラビエヌスは目を閉じて、「んー、いい声だ」と、ブルートゥスの悲鳴を堪能した。
ブルートゥスが声を振り絞る。
「ラビエヌス。お前がポンペイウスになりすまして、全部を操っていたのか?」
「操る? この私が?」と、ポンペイウス、いや、ラビエヌスが自身の胸を指さし、吹き出した。
「奴ら元老どもには、命を懸けて闘う度胸も知恵もない。奴らの仕事は、私に丸投げするだけである。だが、少しでも自分の利益にならぬことであれば、横から口を出す。私の足を引っ張る。そんな狡賢いだけの害虫どもを、私が操れると思うか?」
ラビエヌスは、アルミラの遺体を見下ろした。氷の瞳は、寂しそうな色を帯びた。
「もし、私がすべてを操っていたら、カエサルごとき、今まで生き延びておらぬわ。……だが、この日をもって、カエサルは死ぬ。私の手によってな」
「やめろ、ラビエヌス。カエサルを裏切るなんて、馬鹿のやることだ。お前の名前は裏切り者として、歴史上に、いや、永遠に刻まれるんだぞ」
ブルートゥスが喘いだ。アルミラに殴られた顔が、熱を帯び、膨れ上がっている。
「だから、どうしたのだ」と、ラビエヌスは嘲笑った。
「私はカエサルの首を見たいのだよ。カエサルの首を見れば、どう思われようと構わん」
「カエサルは、この先にいないぞ」と、ブルートゥスは叫んだ。
「嘘は、やめたまえ」
ラビエヌスは、目を細めた。獲物を狙う蛇のような目つきに、私の背筋は凍りついた。
「そなたがカエサルの代りをしておるのは、何らかの理由があるはず。たとえば、カエサルが、病かなにかに臥せっておるとかな。居場所は、そなたが必死に守っているところから、そうだな、陣の天幕といったところか」
ラビエヌスの的確な推理に、ブルートゥスは、息を呑んだ。
沈黙を肯定と見なしたらしく、ラビエヌスは笑った。
鎖帷子に吊り下げられた大量の勲章……円盤が互いに重なり合い、音を鳴らした。円盤には、成敗された人々の顔が彫られていた。死者たちの顔が、ラビエヌスと一緒になって笑っているようだった。
兜には、金色の飾りを載せている。孔雀が羽を広げているようだ。
ラビエヌスは、自分の所有になってから髪飾りを作らせた、と言っていた。おそらく、金髪の女性から髪の毛を抜き取って作ったのだろう。女性たちを押さえ込み、冷酷な表情で皮ごと剥いだ……。
ブルートゥスが「なぜ、カエサルを裏切るんだ?」と、苦しそうに唇を動かした。
「カエサルがガリア属州の不在中、私は総督代理をやっていた。そなたもそうだろう?」
ラビエヌスは、歯を食い縛った。歯の間から、煙のような怒りを吹き上げているようだった。
「カエサルが贈賄を禁じたのだよ。おかげで私には、一銭も金が入ってこなかった。あれほどの激務にかかわらず、だ」と、薄い唇を震わせている。「ガリア人に追徴税を課そうとしたが、これも反対された」
ブルートゥスは「結局は金かよ」と、意外な表情を浮かべた。
「お前も元老と変わらない」
「私は、奴らと違う!」と、ラビエヌスは、唾を飛ばした。
「違わないね。だいたい、賄賂も重税も禁じて当たり前だろう。カエサルが正しい。……全部、お前の勝手な逆恨みだったんだよ」
ブルートゥスの発言に、ラビエヌスの瞳が、炎のように燃え上がった。
「カエサルが正しい? 贈賄も重税も、間違っている? なにを申すか! そなたは何も知らぬのだな、デキムス・ブルートゥス君」
と、歯を剥き出して怒った。怒りが、全身から火を噴き出しているようだ。氷も溶かすほどの熱量で、なにやら奇声を発し始めた。
甲高い声で、よくは分からない。
だが、「カエサルに騙された者同士、命だけは助けてやろうと思っておったが。そこまでカエサルに飼い慣らされておるとは。なんという恥知らずぞ」という意味らしい。
「死ね! 死ね!」と、槍を振り回す。怒り狂った女のようだった。
「よせ、ラビエヌス。お前を殺したくない」
ブルートゥスは、横殴りの槍を躱す。
「お前は、俺たちの憧れだった。カエサルの隣にいて、カエサル以上の才覚を発揮していた。それなのに、お前は、すべての名誉を、カエサルに譲った。お前は、どこの誰よりもカエサルに頼られていた。そんなお前が、羨ましかった」
腫れ上がっていたブルートゥスの頬から、うっすらと涙が浮かんでいた。カエサルと同じくブルートゥスも、ラビエヌスを愛していた。
「羨ましい? あの男に利用されていたにすぎない、この愚かな私の、どこが羨ましいと申すか」
「だめだ、俺はお前を殺せない。カエサルも、いや、他の奴らも、そうだろう。カエサルの仲間なら、誰もお前を殺せない」
「カエサル、カエサルと五月蠅い奴よ。そなた、私を殺せぬのか。だがの、私は、そなたを殺せるぞ」
馬上のラビエヌスが、ブルートゥスの胸を目がけて槍を突き出した。
ブルートゥスが、脇で槍の穂先を挟み込む。
だが、これ以上、なにもできない。反撃する力も術も、今のブルートゥスには、残っていない。
「いつまで持ち堪えられるかな?」と、ラビエヌスが小馬鹿にする。
「観念したまえ。そなたが死ねば、カエサルが死ぬ。カエサルが死ねば、この戦いは終わる」
黄金の鎧から、氷のような冷たい笑い声が響いた。笑い声が止まり、底冷えする声が後に続いた。
「……私は、ポンペイウスを吸収してやった。このままカエサルも吸収し、ローマ最大の勢力となって、すべての元老を、皆殺しにしてくれる。この私を、奴隷のように、いや、奴隷よりも酷い扱いをした、カエサルや元老に対する復讐なのだっ!」
ブルートゥスは「やめろ、やめてくれぇっ! お前は狂っている!」と悲痛な声を出した。
私は立ち上がった。
どうすればいい? いや、なにをすればいい?
重傷のブルートゥスは、もはや反撃できない。
そのブルートゥスは「敵が殺到したら、カエサルを殺せ」と私に命じていた。
カエサルを殺す。殺す? どうやって? 短刀? 武器? どこに置いた? どこの武器を使えばいい?
私は丘を駆け下りた。加速がついて、足の動きを制御できなくなる。
石に足を取られ、転びそうになった。だが、私は体勢を維持し、駆け下りる。
兵士の死体が転がっていた。死体の横には、槍が落ちている。
あれにしよう。こんな重そうなものは持てない。無理だ。いや、重心だ。重心を後ろに下げて……槍が持ち上がった!
私は目を閉じた。突き刺したい方向に、足を踏み込んだ。
「ぎゃっ」と悲鳴が聞こえた。
槍の刃が、突き刺さった。深々と奥に入っていく。これが肉の感触なのか。
「そ、そなたは……!」
目を開くと、ラビエヌスが頬を揺らして、口から血を吹き出していた。
ブルートゥスが、ラビエヌスの視線を追って、私を見る。二人とも驚きすぎて、声も出ない。
ラビエヌスも、ブルートゥスも、力尽きて、同時に槍から手を離した。槍が乾いた大地に落ちた。
私は、「ラビエヌス、話し合いをしましょう」と、槍に力を込め、両足を踏ん張った。
「おのれ……なにをする?」と、ラビエヌスが槍を引き抜こうする。
「あたしの話を聞きなさいっ!」と、私は槍に凭れ掛かった。
傷が抉られて、ラビエヌスが悲鳴を上げる。ラビエヌスの痛みが、槍を通して伝わってくる。
全体重を掛けていると、槍が撓った。柄に罅が入り、腹に穂先を残して、折れた。ラビエヌスが、また悲鳴を上げた。
「貴方の言ったとおり、カエサルは意識不明よ。今なら簡単に殺せる」と、あえてラビエヌスにとって有利な発言をした。
ブルートゥスが「馬鹿っ」と注意する。
私は無視して、続けた。
「でも、たとえ殺せたとしても、その後、どうするの? もうすぐ、カエサルの兵士たちが、ここに来るはず。貴方一人で、ここから脱出できるかしら? ……お腹に怪我をしたままで?」
賭けである。
「ここで提案よ。お互い、このまま退く。貴方は怪我を治して、再戦すればいい。長期戦になれば、兵力の上回る貴方たちの勝ちよ」
ラビエヌスが、カエサルと刺し違えても良いのなら、自分の命が惜しくないのなら、この提案は不成立だ。
私の脚が震える。だが、ラビエヌスに悟られてはならない。ラビエヌスの瞳を睨みつけた。
ラビエヌスが口から血を拭って、笑みを浮かべた。歪めた唇が震えている。
「なにを申すか。この命、果てでもカエサルを殺す……ぎゃあっ!」
二本目の槍を、ラビエヌスの腹に食らわした。さっき、ラビエヌス自身が落とした槍だ。
「ここで死にたいの?」と、私は槍を掴んだまま、全身を後ろに反らした。
ラビエヌスが、か細い悲鳴を上げる。鎖帷子の勲章が、ぶつかり合って、悲鳴のような音を鳴らす。
「貴方は、自分が死ぬのを望んでいない。カエサルの首を眺めながら、平和に眠りに就きたいのよね? そうよね?」
槍が折れた。
「槍なら、いくらでも落ちているわよ! 三本目を、行きたい?」
私は、地面に槍が落ちていないか、探した。
「よせ! 私に近づくな!」と、ラビエヌスは両手で自身を守った。
腹に槍の穂先が二本、食い込んでいる。私は、カエサル式に背筋を伸ばした。
「じゃあ、決断しなさい。逃げて、生き残るか? それとも、奴隷の私に、今ここで殺されるか? ……生きていれば、もう一度、カエサルと戦いを挑めるわよ。次は勝てるかもしれない」
選択肢が二つあるかのように見せかけて、実は一つしかない脅迫である。
役に立つ槍は、もう落ちていなかった。私は丸腰だ。
ブルートゥスの視線を感じる。ブルートゥスは、ラビエヌスの腰部分を見ていた。立派な剣が、鞘に納まっている。
「ラビエヌスよ」と、どこから声が聞こえた。周囲には、私たち以外の気配を感じない。
「さあ、選べ。生か死か。そなたは余を殺したいのか? ……余は、そなたを殺したくない。そなたこそ、余にとって、最高の友人なのだから」
謎の声は、私の口からであった。カエサルの物真似を気づかないうちに習得していた。
「カエサル……!」と、ラビエヌスの瞳から、狂気の炎が消えていく。熱病から回復した子供のようだった。
ラビエヌスは言葉を発さず、馬の首を返し、私たちに背を向けた。来た道に向かって、馬が駆けていった。
黄金の後姿が、遠く消えていく。ラビエヌスが、自身の剣に気づかないように祈るだけだ。
「……これから、どうしよう?」
私は、折れた武具の残骸と、捨てられた死体に囲まれて一瞬、悩んだ。
ブルートゥスと目が合う。二人同時に同じ考えに至った。
「ラビエヌスを追いかける!」
ありがとうございました。




