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奴隷少女とカエサルの後継者  作者: ビジーレイク
第八章 アテナの盾
22/25

第二話 命を削って

まだまだ続きます。

         1

 ゴンフィスを出る。

 兵士たちの顔つきは、満足げだった。

(つや)が出ている。悪疫(あくえき)も消し飛んだのか、咳も聞こえてこない。脚を引き摺っていた者も、弾んで歩いていた。

 奴隷たちを鎖に繋ぎ、最前列に歩かせた。奴隷とは、ゴンフィスの住民だった人々だ。

 通常、奴隷の輸送には、格子付きの荷車を使う。ところが、今回は住民の大半を捕縛したので、荷車の数が足りなかった。

 奴隷の集団の中に、城門で見た女が、死にかけた足取りで歩いていた。髪は乱れ、以前は服だったような何かを身に纏っている。

 兵士から幾度ともなく暴力を振るわれたのか、表情からは魂が抜け落ちている。この女は、誰かの母だったのだろうか。誰かの妻でもあり、誰かの娘でもあったはずだ。

 助けてあげたいが、なにもできない。そもそも、私の指示が原因だった。

「ごめんなさい……」と、誰にも聞こえない声で謝った。歴史上の人物は、このような経験を積んできたのかもしれない。

 ゴンフィスの噂が広まると、ギリシアの都市が、協力的になった。以前と違って、食糧の購入に応じてくれる。

 中には、無償で譲ってくれる都市もあった。ギリシアの南東テッサリアは穀倉地帯で、食糧は豊富に余っているのだろう。

 ファルサルスに到着し、陣を張った。決戦の意思表示である。ポンペイウスを待つのみだ。

 だが、当のポンペイウスは動かなかった。敗走した我々が、急に好戦的になったからである。

「これは罠である」と、怪しんだ。

 周囲の元老たちは、「カエサルを滅ぼす最後の好機であるぞ」とポンペイウスに進軍を勧めた。ある者は、「カエサルに買収されているのか?」と、弾劾した。それでも、ポンペイウスは(かたく)なに軍を動かさない。

 数日が経っても、来ない。

 朝になり、天幕の外を見る。昨夜は雨が降っていたので、草木が水で濡れ、あちこちに水溜まりができていた。曇り空が、ファルサルスの平原を薄暗く照らしている。

「どうする?」と、背後からブルートゥスが訊いてきた。「今日もポンペイウスは来ないぞ。別な場所に移るか?」

「ここが一番なんだけど……一度、付近の都市で物資を補給しましょう」

 出発の準備をした。

 こちらが兵を纏め、出発すると聞きつけて、ポンペイウスの軍団が北西に現れた。私はブルートゥスと顔を合わせた。

 ファルサルスには、エネピウス川が北西から南東にかけて流れている。我々の左手側である。

 川の手前ぎりぎりまでに布陣すれば、敵の騎兵が左側から攻めてくる状況を制限できる。我々の細工は、右側に集中させればよい。

 私は、「騎兵が川を越えてきたなら?」とブルートゥスに訊くと、「もう気にするな。ここまで来たんだから」と優しく返事が来た。

 出撃の銅鑼(どら)を鳴らす。慌ただしく武装した兵士たちが横一列に整列した。

 物見の報告によれば、敵の兵力は、六万である。対し、自軍は三万なのだから、単純に二倍の戦力差である。

 手が震えてきた。自分の細工が、吹けば消し飛ぶような簡単な小細工に思えてきた。

 私は自分の震える手を押さえ、言い聞かせた。

「大丈夫。敵の最大戦力であるラビエヌスを倒してしまえば、他の人たちは大したことない」

 カエサルの天幕に、ブルートゥスが戻ってきた。カエサルの戦袍(せんぽう)を身に(まと)い、背筋を伸ばして馬に乗っている。遠目で見れば、完全にカエサルである。

 ブルートゥスが馬上から、「もしも負けそうになって、敵がここに殺到してきたらな。これを使え」と、短刀を放り投げてきた。受け取ると、見た目以上に重い。鞘に納まった肉切包丁のようだ。

「自決用かしら」と、笑いが出た。

 ブルートゥスが、少しためらって、応えた。

「違う。これでカエサルの首を切り落とせ」

 意味不明すぎて、短刀を足下に落とすところだった。私に「カエサルを裏切れ」と(そそのか)しているのか。

 ブルートゥスの眼を見た。いつになく真剣で、冗談だとは思えない。

「カエサルの首を、ポンペイウスに差し出すんだ。……ポンペイウスに、命乞いをしろ。そうすれば、ポンペイウスでも、お前の命は奪わないだろう」

 この男の価値観が、よく分からない。カエサルの命を守りたいのか、守りたくないのか。

 私は、「……カエサルを刺しちゃったら、取り返しがつかなくなるわよ」と呆れた。

「敵が殺到したら、だぞ。少しくらい負けそうになったからといって、そう易々と切り落とすなよ」

 私が何か反論の言葉を考えていたら、ブルートゥスは慌てて付け加えた。

 不意に、「あっ」とブルートゥスが叫んだ。

「お前。カエサルを裏切り続けていた、みたいなことを言っていたよな? あれ、どういう意味だ?」

 私は答えられなかった。私の長い沈黙から、ブルートゥスは何かを感じ取り、肩を落とした。

「ま、理由はよく分からんが、お前なら許してくれるさ。お前みたいに優秀な奴を、カエサルは手放したくないだろう?」と、私を安心させた。まるで父親のようだ。

「じゃ、行くから。よい子にしているんだぞ」

 カエサルの馬を駆り、カエサルの出で立ちでブルートゥスは兵士たちが待つ場所に走っていった。

 貰った短刀を見る。鞘には、星の紋様が刻まれていた。

         2

 ブルートゥスは、カエサルの物真似で「すべては、ローマのためにっ!」と、声を張り上げた。続く兵士たちの雄叫びが、ファルサルスの平原に響いた。

 横一列の軍団はたとえ草木が邪魔し、ぬかるんだ泥に足を取られても、整列を崩さずに進んだ。兵士たちの体調は万全で、自信に溢れていた。

 私はというと、奴隷用の服に着替えた。脱いだ服をブルートゥスの短刀と一緒に、カエサルの足下に置いてきた。どちらも必要ない。

 天幕を出る。曇り空の中、ブルートゥスたちの後を従いていった。

 最後まで、見届けたい。作戦を立案した立場としては、天幕は居場所ではない。

 少し高い丘を見つけ、登った。身を低くして、戦況を眺める。

 ポンペイウスの大兵力は、なだらかな丘の上で、待ち構えていた。少しでも高い位置を保つためだ。兵法書では高地を保守しろ、と書いてあった。対するブルートゥスは、歩兵を走らせた。兵法書は勢いをつけろ、とも書いている。

 敵味方、両者が近づくに連れ、曇り空から太陽の光が差し込んできた。

 カエサルの軍団が丘に脚を踏み入れた瞬間、ポンペイウスが軍団を一気に進撃させた。

 鉄と鉄の大軍が激突した。

 一瞬、勢いのついたカエサル側がポンペイウスを押し出す。だが、高地の優位性を活かして、ポンペイウスも押し返す。意地と意地がぶつかり合い、殺戮と生存が交差し合う。槍は盾を突き破り、胸を貫く。貫かれた者は、敵の頭を砕いた。血飛沫と断末魔の叫びが、あちこちに火のように吹き出した。

 曇り空が晴れた。太陽が姿を現し、地上の殺し合いを照らし出した。 

 左側には川、右側には小高い丘に阻まれ、ポンペイウスは戦力差を発揮できない。戦況は互角の一進一退であったが、時間が経過するにつれ、変化が起こった。

 味方の疲れが見え始めた。敵は層が厚く、交代している。

「敵騎兵、出撃!」と、味方の誰かが叫んだ。

 ポンペイウスの騎兵が、動いた。

 泥を跳ね、草木を踏み倒し、我々から見て右側の小高い丘を駆け上がる。

 重装歩兵は右手で槍を持ち、盾は左手で持つ決まりになっていたので、敵は盾のない右腕を狙った。

 敵の騎兵が、こちらの最右翼を切り崩していく。一糸乱れぬ統率が美しい。恐怖を感じるより、美しさに目を奪われた。

 味方の最右翼が崩壊した。

 隙間を、敵の騎兵が殺到する。勝利を確信した表情を浮かべ、勢いよく流れ込んでくる。私の喉から苦い汁が出てくる。私は静かに飲み込んだ。

 軍馬の足音が地面を揺らす。ポンペイウスの計画が、実現されつつある。私の胸が強く鼓動した。

 馬上のブルートゥスが右手を挙げる。

 最右翼の背後から、一個の部隊が現れた。大盾を構えた第九軍団だった。敵騎兵の目の前に、自らの肉体を放り投げた。

 ブルートゥスの石を思い返す。歩兵と歩兵が衝突した瞬間、私はあらかじめ歩兵の石を、掌に隠しておいた。ポンペイウスが、騎兵の駒をこちらの右翼に回り込ませる。突撃する騎兵に、歩兵の石をぶつけた。

 大盾の登場に、敵の騎兵が、いや、軍馬が動揺した。勢いが落ち、立ち止まった。敵騎兵が手綱で操作するも、軍馬は命令を聞かず、首を返して来た道を戻っていった。

 戻った先に、私たちの軽装歩兵が待ち伏せていた。一斉に矢を射る。矢が風を切って、騎兵の側面を削っていく。敵の騎兵は、さらに混乱する。

 勝利には勢いが必要なら、相手の勢いを殺してしまえばいい。騎兵に騎兵をぶつける本来の形を崩した。騎兵に歩兵をぶつける、無形こそ兵法の究極なのだ。

 ブルートゥスが騎兵に指示を出す。

 味方の騎兵……ほとんど派手な装飾品を身につけたガリア騎兵だったが……が、敵騎兵の背後を追撃した。

 敵もとって返し、結果、騎兵同士の争いになった。

 しばらく小競り合いをしていたが、敵の中には、退却する者も出てきた。背後を突かれて自信を失ったのである。たとえこちらの騎兵を打ち破っても、大盾部隊を飛び越えられないだろう。一人でも逃げれば、一人、二人と逃げる者が増えていく。

 勝った! 私は丘の上で水分を含んだ土を握り締めた。

 敵の騎兵が崩壊していく。味方の騎兵が、このまま敵の本陣に突入すれば、勝ちである。

 だが、奇妙な現象が起こった。光の玉だった。

 大きな光が、血と泥が跳ねる騎馬同士の衝突から飛び出してきた。一筋の光線を残し、大盾部隊に向かっていく。その後を数体、敵の騎兵が追随する。

 光は波打つ大盾の壁を飛び越えた。追う騎兵も、次々と飛び越えていく。

 飛び越えた騎兵は、四人だった。巨大な光を中心に、翼を広げた大鷲(おおわし)のような陣形を作り、進路を阻むカエサルの兵士たちを右、左と斬り捨てていく。

 目が慣れてくると、光の輪郭が見え始めた。

 一人の騎士が乗馬している。

 孔雀のような黄金の髪飾りを頭に頂き、胴部分は、黄金の勲章で埋め尽くされていた。ポンペイウスの天幕で見た、勲章だらけの鎧だった。

 全身の黄金が太陽の光を吸収し、球形の輝きを周囲に放出していた。

 まるで人間の姿をした、神のようだった。我々は神に対し戦いを挑んでいるのか。

 黄金の兜から、氷のような瞳が見えた。ポンペイウス!

 ポンペイウスの後に続く四人のうち、一人の右腕が銀色に輝いた。

 解放奴隷アルミラだ。アルミラが私の視線に気づいた。馬上から私を睨む。

 ポンペイウスが、鋭い声で「構うな。狙うはカエサルが首のみぞ」と、制した。薄い唇を歪めて、私に残酷な笑みを見せる。氷の瞳が、すべてを見透かしているようだった。

 ポンペイウスたちは、歩兵の背後に向かわなかった。カエサルのいる本陣に向かっている。すでにカエサルの現状をお見通しなのかもしれない。

 たった五騎なのに、味方の中で食い止める者がいない。食い止めようにも、すぐに血を吹いて死ぬ。平原が赤く染まるだけだ。

 終わった。カエサルが死に、首が全軍に(さら)されば、私たちの敗北である。

 ポンペイウスとカエサルの距離が、我々の寿命だ。蹄の音が、私の胸を抉る。死を迎える音だ。死の速度は止められない。

 力強い(ひづめ)の音が聞こえた。

 一人の騎兵が、ポンペイウスたちを追ってきた。紅い戦袍を風になびかせている。カエサル? いや、カエサルの扮装をしたデキムス・ブルートゥスだった。

 ブルートゥスは、揺れる馬上から、全身をしならせ、槍を投げた。放物線を描く槍の終着点は、ポンペイウスの頭上だった。

 アルミラが盾で守るが、ポンペイウスは手で制止した。アルミラはポンペイウスの意図を理解し、ブルートゥスの投げ槍を、槍で打ち落とした。

 ブルートゥスの投げ槍が回転しながら、地面に突き刺さる。槍を槍で打ち落とすとは、初めて見る光景だった。

 ブルートゥスは、一瞬、信じられない顔つきになった。

 ポンペイウスは、動揺を見逃さなかった。手を縦に振って、周囲に素早く指示する。

 三人の騎兵が一斉に槍を投げた。時間差でアルミラが投げる。

 槍の軌道を読みとり、ブルートゥスは騎馬を巧みに操った。三本の槍が騎馬の足下に突き刺さっていく。

 体勢を崩したブルートゥスの頭上に、最後の槍が飛んでくる。アルミラが投げた槍で、もっとも力強かった。ブルートゥスは盾で受けた。

 槍の穂先が折れ曲がり、ブルートゥスの大盾は重心を失った。ブルートゥスは、使い物にならなくなった盾を捨てた。一直線でポンペイウスたちに向かって、駆け出した。

 ポンペイウスは馬を止め、指示をした。三人の騎兵が槍を構え、ブルートゥスに向かって発進する。アルミラも、遅れて突撃する。

 騎兵は軽く散開し、ブルートゥスを半包囲する形で槍を突いた。ブルートゥスの馬は槍を受け、悲鳴を上げて地面に倒れ伏す。敵の狙いは、ブルートゥス本人ではなく、騎馬だった。

 ブルートゥス本人は、空中に飛んでいた。曲芸師のごとく槍を高く頭上に一回転させ、アルミラの頭蓋骨に向かって、一気に振り下ろした。

 アルミラは槍の軌道を見抜いて、身を後ろに逸らした。ブルートゥスの槍が空を切る。

 アルミラの槍が、ブルートゥスを横殴りに襲った。顔面を狙うが、ブルートゥスは自分の腕で守る。

 ブルートゥスが吹き飛ばされた。地面に叩きつけられ、泥の上に転がっていく。仰向けになって、動かなくなった。

 騎兵たちは振り返って、ポンペイウスに指示を仰ぐ。

「死んだふりをしているかもしれん。確かめよ」

 ポンペイウスが命令した。

 三人の騎兵が馬を降りて、ブルートゥスに近づいた。ブルートゥスは顔が隠れて、様子が分からない。

 敵の一人が近づくと、上体を起こし、槍を突き出した。敵の足首と足首の間に入れる。捻りを加え、転ばせた。

 と同時にブルートゥスは起き上がり、槍で敵の顔面を叩き割った。顔面から血が吹き出す。

 ポンペイウスが「愚かな。なぜ槍を投げなかった」と、死者を静かに叱責した。怒りよりも、子を失った悲しみに似ていた。

 騎兵の二人目は、体格の大きな男だった。ブルートゥスを背中で隠せるほど大きい。盾の上部で自分の口を隠して向かってくる。

 盾を失ったブルートゥスは大股で歩き出した。アルミラの槍を受けた左腕が、紫に変色して腫れている。折れた槍を捨て、ブルートゥスは小剣(グラディウス)を抜いた。

 敵は間合いに入ると、巨体に似合わず、槍を鋭く突いてきた。私の眼では捉えれないほどの速さだった。

 だが、ブルートゥスはそれ以上の速さで身を反らした。崩れた態勢から、後ろ足で地面を蹴って、敵の盾にしがみついた。盾の動きに合わせて右左と、敵の死角に逃げた。

 敵はブルートゥスを見失い、混乱している。背後に、ブルートゥスが回り込んだ。左足の踵を斬りつける。

 アキレス腱を断たれた敵は悲鳴を上げ、泥の中に倒れ込む。ブルートゥスは、敵の大きな背中を踏みつけ、敵の首に刃を突き立てた。

 敵が悲鳴を上げる。最期に抵抗しているかのように全身を震わせ、後に静かになった。

 小剣を首から抜くと、刃は折れていた。ブルートゥスが投げ捨てた。

 胸を押さえている。いつの間にか胸から血が(あふ)れていた。さっきの突きを避けきれなかったのだ。

 腰の鞘に手をやる。ところが、鞘には短刀が、納まっていなかった。星の紋様がついたブルートゥスの短刀は、私が受け取り、カエサルの天幕に置いてきた。

 三人目の敵は老兵だった。兜から(しわ)の多い顔つきが見える。この高齢で最前線を生き抜いてきたのだから、かなりの名手に違いない。

 槍と盾を足下に捨て、剣を抜いた。捨てた理由は、盾対策だと思われる。老兵の剣は、馬上用の長剣だった。地上で使うには小回りが利かず、使いにくい。

 だが、長剣を構えた姿勢は、どこにも力が入っておらず、使いにくさを感じない。慎重に距離を詰める。

 ブルートゥスは真紅の戦袍(せんぽう)を脱ぎ、「カエサル」と、折れた槍に立て掛けた。カエサルがこの場にいるつもりで、気を引き締めているのかもしれない。

 腰を落として前傾姿勢を採る。拾う武器もなく、丸腰だ。

 右に回るが、敵の老兵もブルートゥスの動きに合わせて背後を取らせない。

「無駄だ。一度でも見た攻撃は、効かん」と、老兵が堂々とした口調で言った。幾度ともなく生き残ってきた者の言葉に、重みがあった。

 ブルートゥスが戦術を変更しようと考えたらしい。前傾姿勢を解除し、距離を取った。その瞬間、老兵が一気に間合いを詰めた。真横に斬りつける。

 ブルートゥスはしゃがんで、避ける。老兵は真横の長剣を返し、真下に振り下ろした。

 刃がブルートゥスの右肩に突き刺さり、途中で止まった。ブルートゥスが苦痛の表情を浮かべ、膝を突く。

「よく避けたな。だが、終わりだ」と、老兵は長剣を肩から抜き、もう一度、振り上げた。

 ブルートゥスが消えた。長剣が空を切る。ブルートゥスは、老兵の背後に立っていた。

 老兵を羽交い絞めにする。いつの間にか奪った短刀で、胸を何度も(えぐ)った。

 死体となった老兵を地面に捨てる。ブルートゥスは泥と血に(まみ)れていた。もはや、誰の血なのか分からない。

 ふらつく足取りで、武器も持たずに、アルミラとポンペイウスに向かう。死にかけている。死体が歩いているようだった。

 普通の人間なら、その場で倒れ込み、自身の命を優先するだろう。ブルートゥスは自分の命が惜しくないのか?

 馬上のアルミラが、ブルートゥスを見下ろす。アルミラは息一つ切らしておらず、顔面の烙印以外、これといった外傷もない。投げ槍を消費したが、ほぼ完全武装である。

 冷たい目だったが、ゆっくりと口を開いた。

「貴公、先ほどは、いかにして、背後に回ったのだ?」

 質問する余裕を見せた。アルミラからしてみれば、歩く死体ブルートゥスに負ける要素がない。

 ブルートゥスは虚ろな表情で応えた。

「股の下を(くぐ)った。……雨上がりで地面が滑り易くなっていたんだよ」

「なぜ、そこまでして戦う?」

 アルミラは、態度はそっけないが、好奇心を隠しきれていない。女が、好きな男に質問責めをしているかのようだ。

「さあな」と、ブルートゥスは、いつものふざけた調子で応えた。死にかけているのに、馬鹿な男だった。

「ただ……守りたいものがあるんだよ」と、穏やかな口調で空を仰いだ。

 アルミラは小さく口を開いた。呆気に取られている。

 少し考えて、後ろのポンペイウスに、目配せした。ポンペイウスは「構わん。好きにせよ」と手を振った。

 アルミラは馬から降り、槍と盾を捨てた。小剣も短刀も捨て、兜さえ脱ぎ捨てた。

「貴公のような勇者、馬の上にて槍の錆とするには惜しい。我が恥ぞ」と両腕を広げる。

 しなやかで(たくま)しい筋肉が、太陽の影となった。アルミラの美しい身体つきは野生動物を思わせる。神が成した造形のようだ。私は震えた。

「いざ組まん」

 アルミラが両腕を上げる。

 ブルートゥスもアルミラに倣って、兜に手を着ける。だが、左腕は腫れ上がり、右肩の出血は止まらない。脱ぐのに手間を取った。

 兜を放り捨て、アルミラに歩み寄った。アルミラの体格が、一回り大きく、見上げる形になった。

 アルミラの左腕がブルートゥスの後頭部に伸びる。強い力で掴む。

 ブルートゥスも、左腕を持ち上げた。上腕の腫れは、私にも伝わってくるほど痛々しかった。

 (うめ)き声を上げて、アルミラの頭を掴もうとする。だが、上手くいかない。手で被せた。

 太陽が眩しい光を放つ。組み合っている二人を、照らした。二人は右腕を天高く突き上げ、拳を強く握り締める。

 鈍い音が、二発、鳴った。

 鉄槌のような一撃を頬に受け、ブルートゥスの眼球が揺れた。命の火が消えそうだ。死にかけながらも、自身の右腕は、アルミラの頬を捉えていた。

 二人とも、足下が(もつ)れ、腰から崩れる。

 ブルートゥスは目を剥き出し、動揺と後悔が入り混じった表情を浮かべる。いつもの、ふざけたブルートゥスは、どこにもいなかった。必死になって体勢を取り戻す。

 一方のアルミラは、口元を緩ませていた。運命の邂逅(かいこう)を喜んでいる。

 この解放奴隷アルミラは、強い相手と戦いたい。自身の強さや誇りを試したい。それには、ブルートゥスは、最高の相手であった。

 お互い体勢を取り戻した。右腕を弓矢のように(しな)らせ、全力で相手の顔面を目がけて、拳を繰り出した。何度も、何度も、お互いの顔を狙う。

 美しさも何もかも捨て、防御もせず、ただ命を削り合う。嵐のような打撃音が、ファルサルスに(こだま)する。二人の血が、泥だらけの大地に飛び散った。

 途中で一方の手が止まった。ブルートゥスだった。右腕を垂れ下げ、陥落した砦のように、一方的に殴られ続けている。

 アルミラは手を休めない。打楽器のごとく一定の速度を保って、ブルートゥスの顔面を殴り続ける。

 先ほどまで、好敵手との出会いを喜んでいたのに、今は、日常業務をこなすかのような無表情だった。仕事になると、精神が集中する性質らしい。

 破壊音とともに、ブルートゥスの顔面が、徐々に崩壊していった。

 アルミラの動きは疲れたのか、一瞬だけ止めた。ブルートゥスは見逃さなかった。起死回生の一撃を放つ。

 アルミラは危険を察知した。左手をブルートゥスの頭から離し、身を引く。

 ブルートゥスの拳が横殴りに空を切った。ブルートゥスは自身の腕に振り回され、そのまま前のめりに倒れた。泥に上半身を突っ込んだ。起き上がろうともがいている。

 起き上がらなければ、負ける。しかし、これ以上は戦いたくない。そんな感情の戦いが現れているようだ。

 だが、ようやく顔だけを這い出し、「俺の負けだっ」と叫んだ。顔は泥と血で汚れていた。

「お前は、俺の怪我を一切、攻めなかった。お前のような誇りを持った奴は、初めてだ。……ローマを探しても見つからねえだろうよ」

 アルミラに返事はない。表情は、太陽の位置関係から、よく見えない。

 ブルートゥスが「だが、お前の攻撃には、体重が乗っていなかった」と、続ける。

 アルミラが崩れる。力を失い、前のめりに倒れる。

 ブルートゥスは急いで立ち上がり、アルミラを抱き止めた。アルミラの顎は砕け、首がねじ曲がっていた。

 ブルートゥスの最後の一撃、体重の乗った攻撃で破壊されていた。

「お前が奴隷でなかったら、お前が正規の訓練を受けていたら、俺が死んでいた」と、優しく地面に下ろした。

「この続きは、地獄でやろうな」と、遺体を仰向けにして、寝かしつけた。声に悲しみが混じっている。

 背後から、「ブルートゥス」と、槍が飛んできた。ブルートゥスは身を躱し、槍を脇に挟み込む。

 槍の持ち主は、黄金の騎士だった。太陽の光を背に、反射している。目が眩む光は、翼のようだった。

 暖かな光を放つ黄金の兜から、氷のような瞳が覗いた。

 ブルートゥスは、唾を飲み込んだ。切れた口内を潤ませて、「お前は……!」と目を見開いた。

「ラビエヌス!」



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